第34話

 帰り際に車内から眺める海は、夕焼けを浴びて濃い橙色に染め上がっていた。


 二人でこの景色を見れるのも、ひょっとしたら今日で見納めかもしれないと思うと妙に感慨深いもんだったね。


 そんな俺の気を知ってか知らずか、彼女は窓を開けて潮風を浴びながら小さく何かを呟いた。


「何だって?」


 運転席から俺が問いかけると、こっちに視線を寄こした彼女は改まったように短い咳払いをした後、「空港に行くのは、これで最後にする」と言った。


「今まで、連れて行ってくれてありがとう」


 助手席から頭を下げた彼女は、顔を上げると笑みを浮かべていた。


 それが意味するところを理解した俺は、思わず彼女に見入っちゃってハンドル操作が乱れたが、すぐに立て直して前に向き直った。


「いいのか?」


 そんな俺の質問に対して首を縦に振った彼女の姿を見ると、恥ずかしながら胸が踊ったね。


 彼女は自ら選択をしたんだ。それは誰の指図でもなく、自分の意思でさ。


「帰りにワインでも買っていくか」


 そう言って俺が笑みを溢すと、彼女はまた頷きながらはにかんだように笑顔を浮かべた。


 その晩、浴びるほどワインを飲んだ後で俺たちは夜を共にした。


 抱きしめた途端に壊れてしまいそうなほど華奢な身体に触れると、その小さな体躯からは想像もつかない熱量や活力を感じられた。


 どうしようもなく惹かれ合い、心が解け合うような感覚。こんな経験は初めての事だったよ。


 朝になって目を覚ました俺は、二の腕の辺りに温かいものを感じた。首を傾けて視線を遣ると、左隣には彼女が眠っている。


 彼女に布団を掛け直してベッドから出た俺は、重たい頭をふらつかせながらカーテンを開き、煙草を一本吸った。


 その時の太陽が妙に眩しくってさ。何だかくすぐったいような気分だったよ。


「おはよう」


 片目を擦りながら朝の挨拶を寄こした彼女は、身体を大きく上に伸ばした。


 しなやかでお人形みたいな身体の左手首には火傷の痕が薄っすら残っていたが、何だかすっきりして見えた。


「バイトしようと思うの」


 二人でテレビを観ながら朝食を食べている時、彼女はさっぱりした調子でそう言った。


「バイト? 何の?」


「それは、まだ分からない」


 心境の変化が著しい彼女は、どこか燃えているように見えた。


 恐らく初めて出会った時のような演技をすれば、人前に立つ仕事や接客業も可能なように思えたが、俺としてはできれば不愛想で口数の少ない彼女のままでも取り組める仕事についてほしかった。


 人前でいい顔をするのがなかなか骨の折れることだってことは、お互いに十分理解してると思うしね。


「まぁ、ゆっくり考えればいいよ」


 俺が笑みを浮かべてそう答えると、彼女は左右にゆっくりと首を振り、「でも、早く貯金したいし」と言った。


 まったく。気が早い女だよね。貯金の前にまずは生活費を何とかしなきゃなのにさ。でも、そういうところがまた彼女らしいっていうか、やると決めたことは徹底的にやるタイプなんだよな。


「吸うか?」


 俺が煙草を勧めると、彼女は左右に首を振って応えた。


「洗い物してくる」


「そっか」と俺が手伝おうとすると、彼女はそれを手で制し、「いいの。私がやるから」と言ってキッチンに向かった。


 ほんと、感心するよね。彼女は前を向いて歩き出そうとしていた。


 俺もこれから就職したら、がっぽり金を稼いで来なくちゃいけないな。


 そう思っていると、携帯電話に着信があった。


「はい。もしもし」


 内定先の会社からだったので、俺は少々緊張した面持ちで答えた。


 電話がかかってくるのは珍しいことだったが、早くも内定者研修の連絡かと思っていると、面談をしたいので今日の午後に一度会社に訪問してほしいとのことだった。


 研修についての話だったら郵送でもメールでも色々と方法はあるのに、律儀なもんだね。


 短い遣り取りの後で通話を終えると、俺はキッチンに行って背後から彼女を抱きしめながら、「午後からちょっと出てくるよ」と言った。


 洗い物の真っ最中だった彼女は多少鬱陶しそうにしていたが、それでも悪い気はしないようで、「ご飯作って待ってる」と答えると僅かに口元を緩めた。

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