第十二章

第35話

「藤沢と申しますが、中川さんと面談の約束がございまして」


 受付の女性に向かって俺が丁寧な口調でそう言うと、話を聞いているらしいその人はすぐに内線を鳴らして採用担当に繋いでくれた。


「突き当りのエレベーターで、四階に行ってね」


 そう言われた俺は、受付を抜けて奥にあるエレベーターに乗った。


「藤沢くん。こっちに」


 四階で降りると、廊下を歩いてやって来た中川という採用担当の男に呼ばれた俺は挨拶を交わし、手招きされる方へとついて行った。


 小太りな見た目をした中川は息を切らせながらハンカチで額の汗を拭い、急ぎ足で廊下を進んでいく。


 一次面接から担当はこの人で、最終面接の際にも他の重役に混ざって進行役を担当していたが、気さくなおじさんといった雰囲気のこの人が俺はわりと気に入っていた。


 緊張した様子の奴らには話しやすいように冗談を言ったり、場の空気を和ましたりするのが上手い人だった。


「今日は面談という事でしたが、内定者研修についてでしょうか?」


 後ろから俺がそう尋ねると、歩きながらほんの少しこちらを振り返った中川は、「うん。要件については、会議室についたら話すよ」と言ってまた前に向き直った。


「あ、そうだ。先日振込先の口座番号を忘れてしまったので、それも持ってきたんですが」


「うん。それについても、後で聞くから」


 いつになく焦った様子で会話を終わらせた中川は、強張った顔つきで廊下を歩き進んでいく。忙しいのかもしれないと、俺もそれ以上は口を開かず黙って後に続いた。


 ノックを二回して中川が扉を開いた先には、面接の時と同じように目の前に椅子が一つ置かれ、奥の長机には重役連中が二人並んで座っていた。


「じゃあ、そこに座ってくれるかな」


 中川にそう言われ、会釈をしてから俺が椅子に腰かけると、彼は向かいの長机の端にある空いた席に腰かけた。


「藤沢くん。元気にしてたかい?」


 中央に座った温和な顔つきの男は確か、堂島という専務の人だ。


 俺から見たその左隣には眼鏡を掛けた神経質そうな雰囲気をした金城きんじょうという男がいて、そいつは俺が配属される予定の部署で主任を務めている。


「はい。特に変わりありません」


 どこか張りつめた空気に、俺は慎重に言葉を選んで答えた。


 堂島という男も表向きは人当たりの良い人間だったが、形式上の面談にこれほどの面子が揃うことはひどく珍しいことに思え、俺は息を呑み込んで姿勢を正した。


「わざわざ会社まで来てもらってすまないね」


「いえ、そんな」


「会社までは、電車でどれくらいなのかな?」


「えっと、家を出て駅に向かうまでの時間も含めてだいたい――」


「堂島さん。私も忙しいので、早いところ本題に入ってもらってもいいですか」


 隣からそう言って堂島を急かした金城は、机の上に置かれた紙の資料に目を通すと、中川の方を向いた。


 視線に気づいた中川は資料を一部手に取ると、それを持って俺の方に歩いて来た。


 手渡された資料に目を通すとそこには診断書と書かれており、すぐ下には俺の名前が記載されていた。


「これは人事の方から頂いたものなんだがね、君は現在、うつ病を患っているそうだね」


「え?」


 そう言われて俺が改めて資料に目を遣ると、名前の下には確かに病名をうつ病と記載されており、摘要には『上記の為、〇〇年○月まで自宅療養を要する』と書かれていた。


 確かに俺は未だにおっちゃんから睡眠薬を処方してもらっていたが、症状は回復傾向にあるってこの前言われたところだったんだ。


 それが頼んだ覚えのない診断書が発行されて、内容もまた意味不明なものだった。


 誰が自宅療養を必要とするって? こんなのは嘘っぱちだ。それがよりにもよって会社の重役に提出され、疑いをかけられるなんて、ツイてないと思った。


 いや、ツイてないなんてもんじゃないよ。きっと誰かが故意にこいつを偽造したんだ。それが誰の根回しによるものなのか、俺にはすぐに分かった。


「誤解です! 僕は診断書を先生に頼んだ覚えはありません」


 俺がそう言うと、堂島はため息を漏らし、「では、精神科に通院していることは事実なんだね?」と言った。


「うつ病という診断も本当かい?」


 それについては疑いようのない事実だった。俺はおっちゃんからうつ病だと診断され、つい最近もその病院に薬を処方してもらっていた。


「……はい。うつ病だと診断されたのは事実です。でも最近は回復傾向にあって、入社までには完全に治せると先生も――」


「診断書には長期の自宅療養が必要だと書かれてるよね?」


 俺の言葉を遮ってそう言った金城は、面倒臭そうに頭を掻きながら、「困るんだよね。そういうのは前もって言ってくれないと。つい数日前に内定式も済ませちゃったんだから」と早口に言った。


「はい。すいません」


「まぁまぁ、金城くん」と言って奴をたしなめた堂島は、俺の方に向き直ると笑みを浮かべ、「藤沢くん。どうだろう。この際だから、自宅療養にしばらくの間は専念してもらうっていうのは?」と言った。


 その笑顔の奥に見える瞳は、一切笑っていなかった。こんなにも薄っぺらで、嘘くさい仮面があったもんだね。


 俺は自分が今まで使って来た仮面がわりと優秀だったことにふと気づかされたよ。


 けど、そんなに出来の良い仮面をこの場で被る必要性が、奴さんにはなかったってこともあったんだろう。


「そうなると、入社後まで治療が必要になってしまうから、うちの会社としては来年の四月から即時働ける人材を求めていたのでね、君には今から来年の就職活動に向けて万全の状態に備えてもらえればと思うんだが」


「それって、内定を取り消すって事でしょうか?」


 震える声で俺がそう言うと、堂島は慌てた様子で左右に手を振りながら、「いやいや、こちらから内定を取り消したいわけではなくてだね、このような状態で君に働いてもらうのも酷だろうという話になったもので、出来れば前向きな姿勢で、内定を一旦辞退してもらえればと思っているんだが」


「一旦ということは、また内定状態に戻れる可能性があるという事でしょうか?」


 無駄だと思いつつ俺がそう尋ねると、隣で苛ついたように貧乏ゆすりをしていた金城は、「来年までに病気を治して、また応募してもらえれば、その時は考えてみるということだよ」ときっぱり言い放った。


 嘘だ。俺はハメられたんだ!


 そう声を大にして言いたかった。しかしながら、偽の診断書があるということは、担当医のおっちゃんはすでにあの男に買収されたのかもしれない。


 そうなるとあれが偽の診断書だということを証明してくれる者は、誰一人としていない。


「じゃあ、話は済んだようなので私はそろそろ」


 金城が席を立つと、堂島は中川に言って一枚の書類を俺の方に持って来させた。


「悪いんだけど、この書類に一筆だけお願いできないかな」


 気まずそうにそう言う中川から受け取った書類は、内定を辞退する旨を記載したものだった。あとは俺の署名だけあれば、それは正式な書類として受理されるわけだ。


「…………」


 ペンを受け取った俺は、それに名前を記入して部屋を後にした。その後どうやって建物を出たのか、あまり覚えていなかった。

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