第十一章
第33話
家の前まで帰ってきた俺はアパートを見上げながら、先ほどのキナリとの話を思い返していた。
尾行がバレたり、彼女との接点が見破られたり色々とやらかしちまったが、結果的にはミカゲとの連絡がつけられることになってひと安心だった。
突然訪れた千載一遇のチャンスを俺はきちんと掴み取ることが出来たんだと、ちょっとした満足感もあった。
だがそれは同時に、彼女が明後日には部屋を出ていくかもしれないということでもあった。
ようやく人並みの感覚を取り戻し始めた彼女がまたミカゲと会ったら……。
やはりついて行ってしまうのだろうか。そんなことを考えると、俺は胸が締め付けられた。
あれだけ面倒をかけられて、一時は迷惑な存在だと感じていた彼女だが、いざいなくなってしまうと考えるとやっぱり寂しいもんだね。
それは保護猫の預かりボランティアでうっかり情が移ったような程度のものなのか、それとも同居人として、あるいは女として抱いている特別な感情なのか、その辺は実際にいなくなってみないと分からない。
部屋の扉を開けると、玄関に向かって小走りに近づいてきた彼女は、やっぱり飼い猫に近いものだと感じられた。
「用事はもういいの?」
俺の顔を覗き込んだ彼女は、「疲れてる? 今から少し寝るの?」と続けて尋ねてきたが、首を横に振った俺は口元に笑みを浮かべ、「今からでも、空港に行くか」と答えた。
「――ほら、これ飲めよ」
屋上の展望デッキでいつものベンチに腰掛けた彼女に温かい珈琲を手渡すと、寒がりなくせして猫舌な彼女はカップを両手で包み込みながら勢いよく息を吹きかけた。
「急に寒くなったな」
隣に腰かけると、吹きさらしのため寒さがもろに感じられた。彼女はちびちびと珈琲を口に含みながら、俺の身体にくっついて来た。
触れ合った部分は互いの体温で熱を帯び、まるでそこだけ二人の身体が繋がっているみたいだった。
「あ、また降りてきた」
上空の飛行機を指差した彼女は、ミカゲに対して想いを馳せているのか、灰色の瞳には少しばかりの潤いと、煌びやかな輝きがあった。
視界から飛行機が消えると、また珈琲を一口含んだ彼女は俯いて黙り込んだ。
こんな時はいつも俺の方から何かしらの話題を提供してやり過ごしていたが、今日は珍しく彼女の方から口を開いた。
「旅行、行きたいね」
「旅行?」
この場で彼女の方から会話を始めることすら滅多にないことだったのに、その話題はさらに俺を驚かせた。
家に引き籠って空港との行き来以外はほとんど外に出ようとしない彼女の口から、旅行なんて言葉が出てくるとは思わなかった。
「どこに行きたい?」
「うーん。ハワイとか」
「ハワイ?」
こりゃまた、全然似合わない選択をしたもんだよね。彼女のことだから静かな山荘だとかそういう閑静な場所を言い出すんじゃないかと思っていたけど、意外とアウトドアな旅行がしたいんだな。
「ハワイなら、高校の時に卒業旅行で行ったことがあるよ」
俺がそう言うと、彼女はこちらを見上げながら興味津々な顔つきで、「どうだった?」と尋ねた。
「そうだなぁ。海も綺麗だったし、本来、酒を飲みながら何にもせずに寛ぐにはちょうどいい場所なんだろうな」
「寛げなかったの?」
「友達と一緒だと、一人で寛いでるわけにもいかないからな。マリンスポーツやらショッピングやら、忙しなく観光してたよ。それも楽しくはあったけど」
そう言って思い出話を語る俺の姿を見つめながら、「私は一度だけ仕事でハワイに行ったことがあるの」と彼女は言った。
「その時もずっとホテルの中だったから、どういう所か気になってた」
彼女の仕事といえば、きっと男の相手なのだろうと予想した俺は、途端に切ない気持ちになった。
まるで道具のように扱われ、本人の意思なんてものは何一つ尊重されない。そういう面では、やはり彼女は自分と似ているように思えた。
目の前の抗いようのない現実に妥協点を見出しながら、その一部としての人生を送っている。彼女はその任から解放されてもなお、未だその影に囚われていた。
「ビーチを見渡せる場所に、美味い店があるんだよ」
俺は自分の手に持ったまますっかり冷めちまった珈琲を一息に飲み干し、「夕陽の沈む海を眺めながら酒を飲んで、美味いもん食って、気まぐれに海に入る。そんな気楽な旅行がしてみたいもんだな」と言った。
「それって、ハワイっぽいかも」
俯いた彼女は、少しばかり顔をにやけさせた。
「悪くないだろ?」
彼女の冷えた手にそっと触れた俺は、こちらを向いた灰色の瞳をじっと見つめ、「いつか、一緒に行くか」と言った。
大きく見開かれたその瞳には、先ほどとはまた違った輝きが宿ったように、俺には思えた。
「……旅行の費用が出来たら」
そう答えて目を逸らした彼女はほんのり頬を赤らめると、また黙って上空に浮かぶ飛行機を眺めた。
「約束ね」
「ああ、約束だ」
俺は彼女の手に触れたまま、同じように空を見上げた。そこに浮かぶ雲が妙に綺麗に思えたのが、いつまでも印象に残っていた。
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