第31話

 キナリが建物から出て来たのは、他の社員連中が残らず出てきてからしばらく経った頃だった。


 いかにも平凡なサラリーマンを装った奴は、夜の繁華街を他の黒服どもに紛れて通り抜けていった。


 適度に距離を保って後を追うと、しばらくして有料のパーキングに入った奴は、これまた何の変哲もないトヨタのカローラに乗り込んだ。


 馬鹿なことに車で来ていることを全く予期していなかった俺は、車が発進する直前に慌ててその辺を通ったタクシーを捕まえ、後をつけるよう運転手にお願いした。


「そういうドラマみたいなこと言う人、ほんとにいるんだなぁ」


 白髪頭をした運転手の男は驚いたようにそう言うと、すぐに車を発進させた。


「よくある車だから、見失っても責任は持てませんよ」


「大丈夫です。お願いします」


 そう言うわりに運転手は意外と乗り気な様子で、上手く車間距離を保ったまま奴の運転する車の後を追った。


 三十分ほど走らせた先で、今度は砂利を敷き詰めた屋根のない月極駐車場に車を停車させたキナリは、車から降りると徒歩で住宅街を歩き始めた。


 運転手に素早く料金を支払った俺はタクシーを降り、再び歩いてキナリの後を追った。


 その尾行も案外すぐに終わり、駐車場から目と鼻の先にあるマンションのエントランスに奴は入っていった。


 すぐさま後を追ってエントランスに入り込んだ俺は、上昇するエレベーターが止まった五階まで階段を急いで駆け上がったが、そこはやはり上手くいかず、どの部屋に入ったのかまでは特定することが出来なかった。


 それでも、初めての尾行にしてはまずまずの成果といったところだった。自宅のアパートは突き止められたし、これだけ分かっただけでもまだ手の打ちようがある。


 アパートから出た俺は、これ以上はお金が勿体ないので近くの駅まで歩いてから電車に乗って自宅に帰った。


「遅かったね」


 帰宅すると、彼女は待ちかねたように玄関まで迎えに出てきた。


 同期たちと少しばかり飲みに行ってきたと俺が答えると、彼女は少し怒ったように文句を言ってから部屋に戻り、一人で食事の準備を始めた。


 てっきり先に済ましているものかと予想していたが、こんな日に限って待っているとは悪いことをしたな。


「飲んで来たにしては、あんまりお酒臭くない」


 彼女は俺の方へ近寄るとくんくん匂いを嗅ぎながら、そんなことを言った。意外と目ざとい奴だよね。


「酒の飲めない奴がいたから、俺もそいつに付き合って今日はよしておいたんだ」


「ふうん」


 彼女はしばしの間俺の顔をじっと見つめた後、ほんの少し口元を緩め、「また酔いつぶれて意識を失っても、大変だもんね」と小さな皮肉を寄こした。


 まったく。お前がそれを言うかね。


 肩を竦めてシャワーを浴びに行った俺は、この日の出来事について彼女には話さなかった。


 もう少し、奴に繋がる確実な方法を探し出してから、まとめて話すことにしよう。


 そう思った俺は、内定式で会って来た奴らの当り障りのない話をして、その夜を過ごした。


 翌日、早朝に目を覚ました俺はそそくさと出かける準備を済ませた。


 物音を聞いて眠たげに目を細めながら上半身を起こした彼女は、私服に着替える俺の姿を眺めながら「どこ行くの?」と問いかけてきた。


「ちょっと友達に呼び出されてね」


「こんなに朝早く?」


 そう言うと彼女は膨れた顔でこちらを睨みつけ、「今日は空港に連れて行く約束なのに」と言った。


「悪いな。明日には連れて行ってやるから」


 彼女の次の言葉を待たずして、俺は素早く部屋を後にした。その足で親父様に借りっぱなしのシビックに乗り込むと、昨晩後をつけたキナリのマンションに向けて車を走らせた。


 通勤ラッシュにはまだ早い時間帯に目的地に到着した俺は、エントランスが見える位置に車を停めて奴が建物から出てくるのを待った。


 会社のそばで待っていても良かったが、この方が確実だし、行きがけにミカゲと会わないとも限らない。


 エントランスからキナリが顔を見せたのは、他の住人がまとめて何人か出て来た後のことだった。車で出社するから、幾分か時間に余裕があるのかもしれない。


 案の定昨晩と同じカローラに乗り込んだ奴は、駐車場から車を発進させた。俺は昨日の運転手を見習い、距離を保ちながら後に続いた。


 キナリが向かった先は、会社のある方とはまるで違う方角だった。


 大通りを中心に走ってくれたおかげで後をつけやすくはあったが、それでも見失わないように追うのは苦労した。


 やがてキナリが車から降りたのは、とある雑居ビルの前だった。中に入った奴を表から車に乗ったまま見張っていたのだが、キナリは長い間そこから姿を現さなかった。


 あまりに長い間出てこなかったためしびれを切らした俺は、車から降りてビルの入口に向かった。


 入口を潜った右側の壁には各階ごとのテナントの案内板が見られたが、その向かい側に並んだ小汚い郵便ポストを見ると、ほとんどはポストの口がテープで塞がれていたり、店名にバツ印がつけられていた。


 閉店状態の店が多いのだろうか。


 狭い廊下の突き当りには狭いエレベーターが見られ、そのすぐ左の扉を開くと階段があった。エレベーターの現在位置は三階部分が表示されていた。


 奴が中に入ってから建物に出入りする者は見られなかったため、恐らくあの男は三階にいるはずだった。


 俺は上の階でキナリと鉢合わせることを避けるため、階段を使って三階を目指した。


 階段は建物の内部に設置されたもので、普段は使われていないのか妙に埃っぽかった。


 三階に来たところで慎重に扉を開くと、廊下が左右に伸びていた。階の中でもいくつか部屋が分かれているようで、迷った末に俺は廊下を左に進んでいった。


 突き当りをまた左に曲がる形になっており、その先の廊下を覗くと奥に見える部屋の扉が僅かに開いていて、隙間から灯りが漏れ出ていた。俺は引き寄せられるようにその部屋の方へ足を向けた。


 扉のそばで聞き耳を立ててみるものの、音や気配は感じられない。


 思い切って中を覗いてみると、部屋の右側の一面が窓になっており、太陽光が差し込んでいた。


 その手前には窓を背にしてデスクが一つと、中央のスペースに応接用らしきソファが二つ、それに挟まれるような形でローテーブルが置かれていた。


 扉と対面側には書類棚が設置され、何かの事務所として使用されているようだった。


 部屋の中を見回してみたが、そこには誰の姿も見当たらない。


 入って窓際に歩いていくと、その場所からは路上に停めた俺の車が見下ろせた。


 これはまずいことをしちまったかもしれないと俺が感づいた瞬間、背後で扉を閉める音が聞こえた。


 びくりとしながら振り返ると、扉の前には先ほどこの建物に入っていったキナリの姿があった。

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