第十章

第30話

「それ、私が買ってあげたスーツじゃないね」


 鏡の前で俺が身だしなみを整えていると、後ろから彼女がそう言って覗き込んできた。


 クリーニングに回してすっかり元通りになったリクルートスーツを着た俺は、極力地味目な色のネクタイを選びながら、「あれだと、ちょっと目立つからな」と答えた。


 内定式にあんなブランドスーツなんて着て行ったら、絶対浮くに決まってる。同期からは奇異な目で見られそうだし、先輩たちからは煙たがられるかもしれない。


 俺はそういう視線にはひどく敏感だから、人一倍注意を払って今まで生きてきた。内定式さえ済んじまえば、後は年が明けた後の内定者研修までまたゆっくりとバイトができる。


 さほど金がかからないとはいえ、二人分の生活費を補うのはなかなかに苦労するもんだね。


「そのネクタイも、ダサい」


「こういう式典はな、ちょっとダサいくらいで良いんだよ。その方が目立たないし」


「でも、華があった方が異性に好感を持たれるって聞いた」


 そういえば彼女は、類まれな感性と人目を惹く姿で相手の男を落とすのが以前の仕事だったか。そんな彼女にとっては、一般社会の常識なんて理解できないだろうね。


「華があっちゃ駄目なんだよ。これは潜入捜査みたいなもんなんだから。いかに周囲に溶け込むことが出来るかを試されてるわけ」


 その解答には納得したのか、彼女は俺が手に持った地味なネクタイを奪い取ると、それを巻いてくれた。


「それくらい、自分で出来るんだけど」


 向かい合ってネクタイを巻く彼女の姿を見ていると、やっぱり悪くないなって思えてきちゃうんだな。長い髪は綺麗だし、色白の肌は透き通るみたいに澄んでいやがる。


 以前に比べると随分ラフな格好で過ごすようになったけど、それはそれで妙な色気があった。


「はい。できた」


「どれどれ」


 鏡の前で出来栄えを確認すると、いやに凝った巻き方をされちまった。まぁ、これくらいならさほど目立つこともないのかな。


「髪型は悪くないね」


「そう?」


 内定式の時期に合わせたわけじゃなかったが、少し気分を変えたくなった俺は髪を短めに切った。彼女が言うには、まるで別人みたいに爽やかになったらしい。


 今までもそんなに爽やかさから縁遠い髪型だったとは思わないが、彼女の言葉を聞いた俺はひとまず切って良かったんだと前向きに捉えることにした。


「それじゃ、行ってくるから留守番よろしくな」


「分かった」


 そう言って玄関先から送り出す彼女が、最近は一人で出歩いているのを俺は知っていた。


 以前に三上から呼び出されて行ったクラブがあるだろ。そう。俺がミカゲに会って、彼女をお持ち帰りしたあのクラブさ。


 ある日の昼間に俺が偶然その前を通りかかったら、中から彼女が出てくるのを見ちまったんだ。


 パーカーを適当に着こなしたラフな格好だったから、きっと遊びに出向いたんじゃなくて、キナリって奴を探して街をうろついてるんだとすぐに分かったよ。


 一人ではあまり出歩くなって言ったのに、彼女は本当に落ち着きがないんだから。


 それでも俺は、一応知らぬふりをしていた。気が済むまで勝手に動けばいつかは諦めるだろうって、そう思っていた。


「藤沢くん、それどうやって結んだの?」


 俺のネクタイを見た連中は、俺の顔よりもネクタイの方に目が行ってるようだった。


 やっぱり目立ってる。彼女の選択はいつだって人目を惹くみたいだな。


「あはは。適当に巻いてたら、こんな感じに……」


 悪い意味では見られていないようだったし、別に構わないかと思いながら内定式をつつがなくこなしていると、最後に人事の担当者と会って必要書類を記載するよう指示された。


 内定者は順番に別室へと移動し、しばらくすると俺の番も回ってきた。


「じゃあ、これに必要情報を記入してね。筆記用具は持ってる?」


「あ、はい。持って来てます」


 そう言って俺が席に座ると、机を挟んで向かいに座っていた男は見覚えのある顔だった。


 ありがちな顔だから他人のそら似かとも思ったが、袖の辺りにちらちら見える金のブレスレットは俺が毎日眺めている彼女のものと全く同じだったことから、その男がキナリであると確信を持つことが出来た。


「…………」


 その瞬間、俺はひどく動揺していた。


 彼女が必死になって探し求めている相手が目の前にいる。


 どうして内定先の会社で人事の担当者なんてやる必要があるのかは不明だが、この男がミカゲに繋がっていることは明らかだった。


「どうしたの? 手が止まっているけど」


 キナリはそう言うと、不思議そうな顔でこちらを見つめていた。


 気づいていない。


 髪型が変わったせいか、奇抜なネクタイの巻き方に気を取られているせいか、それとも端から連絡員だったから俺の顔を見た覚えがないのか、奴は俺に気づいていないようだった。


「すみません。給与振込のために新しく作ったカードを家に忘れて来てしまったようで、口座番号が分からなくて……」


 俺は咄嗟に嘘をついた。本当は財布の中にしっかりとカードは入っていたし、念のため鞄には通帳だって入れて来ていた。


 でも、動揺した姿を何か別のことで誤魔化したくて、思わず嘘をついた。


「そうか。まぁ年明けには内定者研修もあるし、その時でも構わないよ。心配なら郵送でもできるか今から総務の方に確認を――」


「いえ。内定者研修の時には必ず持っていきますので。すみません」


 そう言うと俺はその他の必要事項を埋め、(住所は念のため、実家の方にしておいたよ)速やかに席を立った。


「ありがとうございました」


「いえいえ。来年から頑張ってね」


 笑顔で見送るキナリに一礼し、俺は部屋を後にした。


 その後俺が何をしたかって言うと、間違ってもすぐには彼女に連絡をしなかった。そんなことをすれば彼女は飛んで来ただろうけど、それではミカゲに届かない。


 だから俺は、内定式が終わった後でこっそりとキナリを尾行することにした。


 ひょっとしたらこの後ミカゲと会うかもしれなかったし、最低でも奴の住所くらいは突き止めておきたかった。そうすればいつでも彼女と一緒に奴のところへ乗り込むことが出来る。


 今考えれば、そんな真似はよしておけば良かったんだろうな。すぐに彼女に知らせるか、それとも見なかった振りをして、心の奥にそっとしまっておけばよかったんだ。

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