第29話
十月に入ると、海を訪れる連中もとうとう姿を見せなくなった。
車内から眺める海岸は、まるで忘れ去られた文明の跡地みたいだった。青々と晴れていた空も曇りの日が増え始め、海水はその輝きを失っていった。
彼女は相変わらず部屋に引き籠っていたが、俺のいない間に少しずつ家事をしてくれるようになった。ある時は食事が用意され、ある時は洗濯をして過ごしていた。
それでも彼女が世間知らずだというのは本当らしく、放っておくとすぐに霜降りの牛肉やら高いワインやらを値段も見ずに買って来た。前に俺を口説いた時はどうやっていたんだと尋ねると、連絡員の男が食材の買い出しや料理の指南を兼任していたようだ。
てっきり彼女が買いに行ってるもんだとばかり思っていた俺は、久々に彼女が作った手料理があまりにお粗末なもので驚かされたよ。
「キナリは、何でもできる人で、あの人の秘書みたいなものだったから。私も色々と教えてもらったの」
あの気取った服を着て、洒落たベンツを乗りこなしていた男の名前が”キナリ”っていう妙に締まりのない響きだったのがちょっとイメージに合わなくて、「それは、コードネームみたいなもんか?」と俺は尋ねた。
すると彼女は無表情のまま首を傾げながら、「知らない」と答えた。本当にあの娘は、何にも知らされず今まで気楽に過ごしてきたもんだね。
「キナリなら、今でも連絡ができたりしないのか?」
俺がそう言うと、彼女はまたも首を傾げながら困った表情を浮かべ、「連絡先は知ってるけど、あの日から繋がらない」と答えた。
「まぁ、そりゃそうか」
「でも、キナリはあの人と違ってよく人前に出るから、今もどこかで誰かになりすましたりしてるのかも」
「なりすましたりって……」
そんなことがこの現実世界で可能なのかとも思ったが、少なくとも潤沢な資金力と根回しさえ出来れば、やってやれないことではないように思えた。
現に俺はミカゲに騙され、その流れで得体の知れない女を部屋に置いちまってたからね。
「要は、組織的な詐欺集団ってわけか」
末端の連中には真意を伝えずに上手く操り、いざとなればトカゲの尻尾みたいにあっさりと切り捨てられる。何だって俺は、そんな連中と関わり合っちまったのかね。
「詐欺……」
彼女はその言葉に、ひどく落ち込んだ様子を見せた。そりゃ信頼して今までついてきた男に騙されれば、誰だって辛いもんだ。
どうして彼女があそこで切り捨てられたのかまでは分からないが、あちらさんもまさか、彼女と俺が再会するなんてことは想定外だったんだろうね。俺もこうして彼女が一緒に食卓を囲んでいる姿が不思議で仕方なかった。
「ほら、味噌汁こぼしてんぞ」
俺にはきっと、変な奴らを引き寄せちまう磁力が備わってるんじゃないかな。お前さんとあの時再会したのも、ひょっとしたらそういった縁によるものだったのかもしれない。
「私、キナリを探してみる」
そう言うと彼女は早々に食事を終え、後片づけを始めた。「キナリなら、あの人の居場所が分かるかもしれない」
「探すって、一体どうすんだよ?」
「それは分からない」
「あっそ」
俺としては、正直このままそっとしておいた方が良いような気もしていた。
まともな連中じゃないのは確かだったし、一時的とはいえあの屋敷を気軽に買い取るだけの金があるってことは、ミカゲ一人をどうにかすれば解決できる問題でもないように思えた。
「それも良いけど、少しはバイトでもして家賃の足しにしてくれよな。俺の貯金だって無限じゃないんだから」
キッチンに立って洗い物を手伝いながら俺がそう言うと、彼女は真剣な表情で考え込みながら、「水商売とかなら、キナリ来るかな」と呟いた。
前言撤回。この女は一人で外の世界に出しちゃいけないような気がしてきた。危なっかしくてしょうがない。
「まぁ、ひとまず今までに行ったことのある場所に出向いたりするのが鉄則じゃないか? 散歩くらいなら今まで通り俺も手伝うから、あんまり無茶なことはすんなよ」
最後の食器を洗い終えた彼女はタオルで手を拭くと、俺の言葉に反応して顔を上げ、「あなたは、どうして私に良くしてくれるの?」と尋ねた。
俺はシンクに残った洗剤の泡を流しながら、それについてどう答えたものか迷っていた。だってさ、俺にもよく分からなかったんだから。
同情とも愛情とも言えない、複雑な感情だった。事情を聞いた直後は少なからず彼女を憎んだし、今だってこれ以上深く関わりたいとは思ってない。
だからって今すぐ彼女を家から追い出そうとは考えなかったし、俺としてもそばにこいつがいると手間がかかるせいか、以前のように細かいことで悩む時間がなくなっていた。
「まぁ、あれだ。愛護団体的な?」
俺がそう答えると、彼女は瞳をじっと覗き込みながら何事かを考え込んでいるようだった。やがて目を逸らした彼女は部屋に戻り、煙草を吹かし始めた。
「……キナリを探さないと」
そう呟いてベランダに座り込んだ彼女に俺は食後の珈琲を淹れてやり、二人並んで乾いた風を感じながら秋の空を眺めていた。
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