第28話

 いだ海のような生活にも、少しばかりは波があった。一か月ほど経った頃、向かいの屋敷に買い取り手が見つかったんだ。伸びた庭の雑草は早々に整えられ、引越社のトラックが大量の荷物を運んできた。


 買い取ったのは何の変哲もない白髪の老夫婦で、彼女はその二人には見覚えがないと話していた。


 運び込まれる荷物はどれも巨大かつ簡素で(金持ちって奴らは、大体同じような家具を持ちたがるよな)、今回は全室にきちんとカーテンが張り巡らされた。


 毎日続けていた監視業務が唐突に終わりを告げ、彼女がこの後どうしたかっていうと、立ち上がって部屋を出たその足で、屋敷を訪ねに行ったんだ。面識もないって言ってたくせに、あの男と何か関係があるんじゃないかと考えると、居ても立っても居られなかったんだろうな。


 仕方なく俺は後ろからついて行ったけど、案の定その老夫婦は彼女の属していた組織とは全くの無関係に思えた。


 彼女の必死な訴えを見るなり怯えた様子を見せていたし、俺が取り押さえて謝ると、親切にも屋敷に上げて温かいお茶まで出してくれたんだから。


 彼女は懐かしそうに室内を眺めると、またひどく落ち込んじゃってさ、すぐにその場を後にして俺の部屋に帰った。


 屋敷の老夫婦に礼を言って出てきた俺が後からアパートに戻ると、火のついた煙草を口に咥えながら荷物をまとめていた彼女は、突然部屋を出て行くって言い始めた。行く当てはあるのかって聞くと、ひとまずホテルにでも行くって言うんだよ。


 だったら、ここにいても大して変わらないだろって俺が返すと、彼女は不機嫌な顔をしたまま無口になっちゃってさ、半ばやけになって部屋を出て行った。


 近頃はすっかり引き籠りのニートだったから、多少心配なところもあったけれど、金ならたんまり持っているらしいし、あれくらい怒れる元気があるんならきっと大丈夫だって俺は思った。


 でも、そんなプチ家出も数時間のうちにおしまいさ。しおらしい顔で部屋の呼び鈴を鳴らした彼女は、クレジットカードが全部使用停止になってたって今さら言うんだよ。


 そりゃ、奴らに支給されたカードが未だに使えたらおかしいだろ。ここに来てもう一ヵ月も経つのに、どうして今までそれに気づかなかったかね。


 仕方なくまた部屋に招き入れた俺は、彼女に一つだけ条件を出した。簡単なことさ、これからはもう少し人間らしくいてくれって言ったんだ。


 監視業務もなくなったことだし、バイトするなり、うちで飯でも食うなり好きにしてくれってさ。


 その言葉の意味を理解したのかどうかは分からないが、彼女はその日以降、ご飯をきちんと食べるようになったし、身だしなみにも少しばかり気を遣うようになった。


「空港に連れてって」


 代わりと言ってはなんだが、彼女は三日に一度は空港に連れて行くよう俺を催促してきた。いざ連れていくと、彼女はいつもあの屋上デッキに出て奴を待っていた。


 待ってると言っても奴が現れるわけはなく、隣に座った俺と一緒にサンドイッチを食べて、くだらない会話をしながら暇をつぶしていた。


 演技でも、病んでもいない自然体の彼女はこの上なく無機質で、どこか不愛想だった。口数も少なく、表情の変化が乏しいせいか、年齢のわりに幼く見えた。以前の妖艶な姿が嘘みたいだったね。まるで毒気の抜けた淫魔って感じだった。


「これは、信頼の証なの」


 通い始めて何度目だったかは忘れたが、いつも彼女が大事そうに撫でているブレスレットはやはりミカゲとお揃いのものらしかった。


 それも話を聞いていくと、奴に関わる連中はみんな同じブレスレットを身につけているそうだ。とんだ宗教じみた行為に俺には感じられたが、彼女はそれをシャワーの時ですら外さず、まるで飼いならされた犬に与えられる首輪のように思えた。


 日が暮れる前には、また車に乗って海を眺めながら家に帰った。俺はこの時間をちょっとしたドライブみたいに思うことにしていたよ。彼女と一緒に眺める海は、嫌いじゃなかったし。


 頻繁に通っているとさ、海から夏の終わりみたいなものを肌で感じ取れるんだ。頬に触れる風は徐々に冷えていき、日暮れの時間も日毎に早くなっていく。


 夏の終わりってものはどうしようもなく心に喪失感をもたらす厄介な代物だったが、俺は“しゅう”って名前を付けられただけあって、秋が来るのが待ち遠しかった。


 今年の夏は散々な目に遭ったけれど、それも季節を一つ跨げば、少しは気が晴れるんじゃないかと思っていた。彼女にとっても、そうであれば良いと思った。

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