第九章

第27話

 彼女とはその後、再び共同生活をすることになったんだが、その頃に経験した数か月は、初めに暮らした二週間の濃密さには遠く及ばなかった。


 内容は希薄で、時間が過ぎるのもあっという間だった。


 彼女は基本的に部屋に籠ったまま、出窓の付近に座って屋敷を一日中眺めていた。俺の言った台詞が気になったのか、奴らが再びあの屋敷を活用する機会をじっと待っているようだった。


 その後ろ姿はまるで、以前の自分を見ているようで何だか心苦しかった。


 俺の方は九月中に卒論のテーマを教授に発表して、あとは秋頃に題目を提出、一月の期限日までに書き上げて提出さえすれば、晴れて大学を卒業、社会人の仲間入りって流れだった。


 そうそう。夏休みの間に旅行に行ってた石原と吉田だけど、帰国してすぐにちゃんとお土産を渡してきたよ。


 二人が選んだ品は、結局はモンサンミッシェルと何の関わりもないただのクッキーだったが、嬉しいことに吉田は個人的に香水を買って来てくれたんだ。それがまたあの子らしくてさ、さっぱりとした良い香りだったよ。


「……良かった。旅行に行く前はまるで死人の顔つきで心配してたけど、今は血色も良いみたい」


 吉田は笑みを浮かべてそう言うと、自分の手首に別の香水をひと吹きし、それを俺の方に差し出した。


「私はこれを買ってきたの。良い匂いでしょ」


「どれどれ」


 それは俺が彼女に抱いていた爽やかな匂いとは違い、どこか大人びた甘い花のようにエキゾチックな香りだった。


 悪くないんじゃないかと俺が答えると、彼女は目を細めて笑い、「これが私の香りだから、ちゃんと覚えておいてね」と言って去っていった。


 彼女が何を伝えたいのか、その時の俺にはいまいちよく分からなかったが、人は皆、恋をすると人格まで変わっちまうもんだな。


 前にクラシックコンサートに行った先輩は、運よく彼女とよりを戻せたみたいで、もっと稼ぎの良い仕事に転職するんだって店長と一緒に辞めていったよ。


 前向きな奴らは、放っておいても前に進んでいくもんだ。それに比べ、俺たちみたいに下を向いてる奴らは、いつまで経ってもその場をぐるぐると回りながら振り出しに戻り続けている。


 カセットテープのA面から、B面を通り、またA面のスタート地点に。その繰り返しさ。


 あと他に変化があったことと言えば、店長とフリーターの先輩の二人が抜けたバイト先に、夏休みが明けてすぐ新しい店長がやって来たことかな。田村は裏で怒り狂っていたが、俺は本部の判断にひと安心したよ。


 またその人が、なかなかのやり手でね、売上は毎日右肩上がりさ。あの忙しさは、俺にとっても心地よかったな。何も考えずに身体を動かしてる方が、気分が楽だったから。


「ほら、飯だぞ」


 それでも部屋に帰ると、魂の抜け殻みたいになった彼女が出窓の外を向いてじっと佇んでいた。


 思えばその頃の俺は、この子の世話を焼くことで人並みの生活を維持していたのかもしれない。自分のささやかなネガティブ思考を遥かに上回る悲観的な存在を目の当たりにするとさ、途端に目が冷めちまうものなんだよ。


「食べたくない」


 彼女は、だいたい初めはそう答えた。だから俺は無理やりにでもテーブルの前に座らせて、作った飯を口に運んでやった。


 まるで介護士の気分だったね。昼間は作っておいた飯にも手をつけていなかったから、彼女は日毎にみるみる痩せていった。


 以前にうちにやって来た頃の彼女とはまるで別人で、間違ってもご飯の準備や家事を担ってはくれなかったし、俺もそれについては無理強いしなかった。


「今回は、結構自信作なんだけどな」


 俺は能天気の仮面を被り続けた。彼女が悲観的な存在であればあるほど、俺も破滅的なまでに思考回路が鈍っていった。彼女の世話を焼くことで自身に規律を与え、社会に適応された俺でいられる。そうやって本質から目を逸らし続けていた。


 向かいの空き家は、なかなか買い手が見つからなかった。


 それもそのはずで、その屋敷は一般人が買えるような売値じゃなかったんだ。日が経つにつれて庭の雑草は背が伸び、廃屋の趣を増していった。


 それは彼女にとっても言えることで、夜中でもベッドに入らず出窓にべったりとへばりついていた彼女は、気がつくと意識を失っていることがあり、首を上下に動かしながらうつらうつらしていることがあった。


 俺はそんな彼女に、後ろから毛布を掛けてやることくらいしかできなかったよ。


 少し前まで自由の化身のように思っていた彼女は、本当の意味で作り物だった。彼女の本来の姿はまるで水槽の中を泳ぐ観賞用の魚で、突然広い海に放り出されてもどのように生きれば良いのか分からず、今はなき元の飼い主の幻想に縋るよりほかに仕方がなかった。


 以前に彼女は海に飛び込んだ俺に向かい、「あなたも、息苦しい生き方をしてるのね」と口にしていたが、その意味がようやく分かってきた。


 彼女のそれは、息苦しいなんてものじゃなくて、まさしく糸人形だった。舞台の上から繋がれた糸で誰かが操作しない限り、彼女は役者としての活動を行えない。


 ミカゲというあるじを失った今の彼女は、舞台上で無残に崩れ落ちた状態のまま、次の主を待つしかなかったんだ。


 そういう意味では、俺の憧れだった彼女は俺自身に等しかった。仕組まれた輪の中で道具として用いられ、その役目を終えるまでひたすら回り続ける。そんな彼女の介護を一種の栄養剤のように活用しながら、その頃の俺の正常は維持されていた。


 まったく。おかしな関係性だったよな。

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