第八章
第25話
「ほら、髪ぐらい拭けよ」
ひとしきり泣き終えた彼女をようやく屋内駐車場まで連れて行った俺は、売店で買ったタオルを手渡した。助手席に腰かけた彼女は、それを手に持ったまま前方をじっと見つめていた。
見つめると言っても、目の前には無人の車がずらりと並んでいるばかりだったから、その瞳にはきっと何も映っちゃいなかったんだろうけどね。
「貸せ」
お飾りで持ったままのタオルを奪うと、俺は彼女の頭をゴシゴシと拭き始めた。頭頂部だけ乾かせば後は自然と乾くって聞いたことがあったから、その辺りを徹底して拭いた。
彼女は身動き一つせず、されるがままにしていた。あの時俺が通り掛らなかったら、今頃は一体どうなっていたんだろうか。
服も結構濡れちまったけど、この状態の彼女を連れて空港内を徘徊するのは難しいと思った俺は、車を発進させてひとまず自宅を目指し始めた。――まぁ夏だし、多少は濡れても大丈夫だろ。後で親父様に文句を言われるのだけは覚悟しないとだけど。
彼女は頭にタオルを被ったまま、一言も口を利かなかった。俺も黙って車を走らせ、来た道とは逆側に見える海を眺めながら、彼女を懐かしんでいた自分がすでに懐かしく感じられた。
「吸うか?」
煙草を勧めても、彼女は見向きもしなかった。仕方なく一人で勝手に吸い始めていると、俺の持っていた真鍮のライターを見るなり彼女は目の色を変えて手を伸ばし始めた。
「返して!」
突然大声を上げながら襲い掛かってくるもんだから、俺は今にもガードレールを突き破って海に落っこちてしまいそうだったけど、何とかブレーキを踏んで軽いスピンをした程度で済んだ。後続の車がなくて本当に助かったよ。
俺の手からライターを奪うなり、彼女はそれを手のひらの上に置いて大事そうに撫で始めた。大切なのはわかるけどさ、それにしたって今の豹変ぶりは正気の沙汰じゃないよな。
「そんなに大事なものなのか?」
俺がそう尋ねると、彼女は小さく首を縦に振り、「あの人がくれたの」と答えた。続けて左手首のブレスレットを撫で始めたので、「もしかして、それも?」と聞くと、彼女はまた黙って頷いた。
俺は車を発進させる前に、一度深いため息をついてから彼女の方へ向き直った。こっちだって、平常運転のふりを続けるのはさすがに限界だったからさ。
「ミカゲが兄貴じゃないって、一体どういうことだ」
彼女が質問に対して答えるまでには、随分と時間が掛かったように思う。ライターの炎を眺めながら顔を綻ばせ、また悲しげな表情に戻ったかと思えば、今度は静かに啜り泣き始めた。
忙しなく入れ替わる彼女の情動に、俺はまた腰が引けそうになったが、今回は思い切って足を一歩前に踏み出した。
「ミカゲは、あんたの恋人だったのか? 奴はどうして――」
「そんな名前じゃない」
彼女は俺の言葉を遮ると、ライターの蓋を閉めてそれを力強く握りしめた。
「あの人は、……
「情報?」
俺は咄嗟に彼女の手首を掴むと、身体をこちらに向けさせ、「情報ってどういう事だ!」とひどい剣幕で尋ねた。
「……痛い、痛いよ!」
彼女が口にした情報って言葉には、きっと俺が関わっている。そんな気がしてならなかった。
俺はあの夜からずっと考えてたんだ。どうしてあの時、彼女は突然人が変わったように冷たい目つきで俺を眺め、有無を言わさず部屋を出て行ってしまったのか。
初めは俺が何かまずいことをしでかしちまったのか、それとも、やっぱり覗きをするような奴には愛想を尽かしたのかって思ったけど、よくよく考えると、あの時の彼女は少しばかりおかしかった。
「なぁ、メイは俺のこと――」と俺が続けて言いかけた時、後方からやって来た車が道を塞ぐ俺たちにクラクションを鳴らし始めた。
仕方なくハンドルを握り直した俺は、その場から対向車線側に一度退き、相手の車が過ぎ去るのを見送ってからゆっくりと元の車線に戻って車を走らせた。
しばらくはまた、互いに黙ったままでいたが、時間を置いて観念したように深いため息を漏らした彼女は、真宙と呼ぶ男(俺にとってのミカゲだった男)との出会いについて語り始めた。
途切れ途切れに聞いた彼女の話を要約すると、あの男は俺の時と同じように突然彼女の前に現れ、急速に心を掴んで手なずけたようだった。
詳しい事情までは聞かされていないものの、彼女は奴の仕事の手伝いを任されていた。それも聞いていて反吐が出るくらいのもんでさ、俺が窓から眺めていた屋敷の中での性行為はすべて、奴の指示によって彼女が相手を誘ったものらしい。
働きに応じて彼女の口座には大金が振り込まれ、仕事を続ける限りは屋敷での優雅な生活が約束されていた。
「でも、あなたの存在で、全てが変わったの」
「俺の存在?」
ただ覗いてただけで、実害なんて何もなかったと思うんだが。そういう事を俺が言うと、彼女は弱々しく笑い声を漏らし、「それだけでも、十分に脅威だったの」と言った。
「どうしてあの部屋には、カーテンが一切なかったと思う?」
「さぁな。誰かに見せびらかせたかったんじゃねーの」
俺は冗談で言ったつもりだったが、彼女はそれに対して当然のごとく頷くと、「私たちが陰でやましい取引をしていないってことを、周囲で監視している人間に示すためだって聞いたわ」と言った。
「うちで開かれているのはただのホームパーティーで、私はその中で気に入った人とただ寝てるだけだと思わせる必要があった」
「監視?」
何だって、わざわざそんな面倒なことをする必要があるんだって思ったよ。本当にやましいことがないなら、カーテンを閉めていようが誰も文句は言わないだろ。
けど、裏を返せばそれはいかがわしい取引を隠すためのカモフラージュだったとも表現できる。
「あそこで、何があったんだ?」
俺がそう尋ねると、彼女は俯きながら「分からない」と答えた。「でもあなたは、私たちを監視する脅威対象としてマークされてた」
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