第24話

 彼女らを見送った俺は、ひとまず腹ごしらえをしてから帰ろうと駐車場に車を停めて空港内に入った。


 中には結構な数の飲食店が見られたが、店内は案外込み合っていたから、テイクアウトでサンドイッチとアイス珈琲を注文した俺は、展望デッキに向かった。


 デッキに出ると太陽は雲に覆われ、直射日光は避けられたものの、外で過ごすには少しばかり湿気を多く含み過ぎていた。


 それでも、混み合った店内で過ごすよりはマシな気分だった。暑さのためか人の姿は見られず、フェンス付近に並んだ望遠鏡が寂しげに空を見上げていた。


 雨が降る前に飯を済ましてしまいたいと思った俺は、適当なベンチに腰かけて珈琲を飲みながらだだっ広いデッキを眺めた。


 すると、隅の方の離れたベンチに、一人の女が俯いて座っているのが見えた。


 目の前に置いたキャリーケースにうつ伏せになったその女は、長い髪が顔全体を覆い隠していたが、その姿には明らかに見覚えがあった。


 薄暗がりの中で見た緑色のワンピース。コツコツと踵を鳴らしながら扉の向こうへ歩き去った赤いヒールのサンダル。シルバーのキャリーケースに項垂れるあの長い髪と、それに、……華奢な体つき。


 気づけば俺は、彼女の方に歩き始めていた。近づくにつれて確認できた左手首のブレスレットから、俺は確信へと至った。


「メイ……」


 あの夜、あの時、あの姿で出て行ったきり、彼女の姿は何一つ変わっちゃいなかった。一週間も前に姿を消したのに、彼女は今さっきここに到着したように見えた。


 俺の声で顔を上げると、彼女は慌てて周辺を見回した。よく見ると髪はぼさぼさに傷み、表情はげっそりしていた。近くに立つ俺に気づいた彼女は、目を見開いたまましばらく固まっていたが、やがて虚ろな瞳に戻ると肩を落としながら項垂れた。


 何がどうして、彼女はこんな姿のままでいるのか。


 俺が今までに見てきた彼女はいつも清潔感に溢れ、それでいてあでやかで、心に余裕のある存在だった。それが今は乞食のように汚らしく、餓えた獣のように殺気立っている。


「……ミカゲは?」


 あの日、彼女は言ったんだ。ミカゲが早朝の便で帰って来るって。だから、あいつがそばにいなきゃおかしいんだよ。それなのに彼女は一人で項垂れていた。


「ミカゲはどこだよ? 帰ってきたんだろ?」


 もう一度俺が問いかけると、彼女は弱々しく左右に首を振りながら、「まだ」と答えた。


「まだって……」


 彼女は、あれから何日経ったか分かっているのか。もう一週間だぞ。一週間もの間、何の連絡もなく空港にも姿を現さないなんて。しかもそれを、彼女はずっと待ち続けているっていうのか。


 ポケットから携帯電話を取り出した俺は、ミカゲに電話をかけた。だがそれには相変わらず応答がなく、次第に無機質なアナウンスが流れ始めた。


 頬に何か冷たいものが当たったかと思えば、とうとう降り出してきやがった。俺は彼女の腕を掴むと片手にキャリーケースを引き、ひとまず屋内に避難しようと思った。


 けれど彼女はそれを力一杯に拒みながら、「待ってろって言われたの!」と言って椅子に座り直した。


「……何、言ってんだよ」


 言われた場所に一週間も現れないってことは、何かあったに違いない。ミカゲほどの男が妹をほったらかしてそのままにしておくはずがないんだ。


 「ミカゲと連絡は? 兄貴なんだから、滞在先に連絡すれば繋いでくれるかもしれないだろ」


 俺がそう言うと、彼女はまたも左右に首を振りながら、「駄目なの」と言った。


 何が駄目なんだって俺は当然尋ねたさ。でも彼女はずっと首を振りながら、「こっちから連絡をすることは許されない」って言うんだ。それは兄妹の関係性として、いささかおかしく感じられた。


 しかも彼女はその言いつけを従順に守り続けて、何日もこの場を動かずに待ってるってことだろ。それって、やっぱり異常だよ。


「あんたら兄妹の間でどんな決め事があるのか知らないけどさ、今はあいつにとって非常事態かもしれないだろ。せめてこっちから兄貴の滞在先や仕事先に連絡を取って、無事かどうか――」


「知らない」


 彼女はそう呟くと、顔を上げて俺を真っすぐに見つめ始めた。


「……私、あの人の滞在先なんて知らない」


「…………」


 知らないってことはないだろ。仮にも兄妹で、家族で、一緒に住もうと思ってる妹に滞在先を教えないなんて、そんなことはありえない。


 手首に巻かれた金のブレスレットを撫でつけた彼女は、「だって、あの人は私の、……兄じゃないから」


 静かに呟くと、口元に笑みを浮かべて涙を流し始めた。溢れ出たその雫は勢いを増し始める雨と混ざり合い、頬を伝って地面に降り注いだ。


 でもさ、こういう時の涙ってもんは、嫌でも区別がついちまうもんだね。その時の俺には、全然色が違って見えた。ひときわ悲しそうに流れる涙の筋は、何だか光って思えたんだ。


 困惑した顔で俺が見下ろしていると、彼女は震える指先で俺の手を取り、「……ごめんね。……ごめんね」と何度も呟いた。


 その感触は、真夏の昼間だっていうのに、やけに冷え切っていた。

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