第七章
第22話
「藤沢がいて、ほんと助かったわ」
助手席に座った石原奈央は、手を伸ばして勝手に空調の温度を下げ始めた。
「そりゃ、どういたしまして」
運転席からそれとなく風向きを調整した俺は、後部座席に座っていた吉田
「ううん、大丈夫。ごめんね」
ごめんね……か。何も謝ることなんてないのにさ。
前々から思っていたが、この子は自分を低く見過ぎなんだよ。淑やかで気立てが良くて、顔だって悪くないのに、何せいつもいつも謝罪ばかりをして過ごしてるんだ。そういう業でも背負って生まれて来たのかね。
「それにしても、こんな早朝によく起きてたわね」
「早起きは三文の徳って言うだろ」
隣でぱたぱたとシャツを扇ぎながら汗を垂れ流す石原は、中学時代から続いている唯一の交友関係とでも言えようか。とはいえ、あいつが勝手に連絡を寄こすから相手をしているだけで、俺としては友人と呼んでいいのか難しいところだった。
お前さんは知らないだろうけど、この女はとにかく人使いが荒いんだ。今日だって早朝に突然連絡を寄こしたかと思えば、「空港まで車を出して!」ってせがむんだぜ。俺を専属の召使いか何かと勘違いしてるんじゃないだろうか。
聞けばこれから大事な旅行に行くのに、電車の時間を間違えて乗り過ごしたって言うし、偶然にも俺が
「何だかげっそりして見えるけど、寝てないんじゃないですか?」
吉田はそう言うと、後部座席から俺に飲み物を渡してきた。「これ、飲みかけで申し訳ないんですけど、良ければどうぞ」
「おう。ありがとう」
彼女に礼を言って俺が受け取った紅茶を飲んでいると、石原は相変わらずの強気な口調で、「そんな身体で空港まで運転できるわけ? 事故とか起こさないでよね」と横から口を出した。
それでも心配はしているようで、「チョコあるけど、食べる?」なんてお節介を焼くもんだ。
「いやいや。変な時間に昼寝しただけだから、心配いらないよ」
吉田という女は、石原には勿体ないくらいによく気の付く人だね。俺がいくら体裁を取り繕っても、どこかで見破られているような気がしてならない。
この子とはさほど面識があるわけでもなかったけど、よく石原に連れられて行動を共にしているようだった。
以前に石原の誘いでバーベキューに参加した時、彼女に連れられてやってきたのが吉田舞香だった。俺たちよりも一つ年下の彼女は団体行動が不慣れなようで、人目の付かない所で一人後片付けや細々とした雑用を引き受けてくれていた。
俺は吉田のそんな行動がどうにも気の毒に思えてさ、みんなには気づかれないようにこっそりと手を貸してたんだ。声を大にして他の奴らに訴えても、却って彼女が気まずい思いをするんじゃないかと思ったからさ。
その日以降、吉田とは時々顔を合わせるようになった。彼女はいつも俺に謝罪の言葉を述べながら、体調を気に掛けてくれている気がするよ。体調といっても、あの子の場合は俺が精神的に無理をしてるんじゃないかって勝手に思い込んでてさ、何かと手伝おうとするんだ。
恐らく自分が溜め込んでしまうタイプだから、俺もそうじゃないかって思ったんだろうね。まぁ、その勘は間違ってないけど。
おかげで助かることは多いんだが、気を使うならもう少し器用にやってほしいもんだよな。周りの連中に俺が作り物だってことがバレたら、それこそマズいことになるんだからさ。
俺は運転席から見える海を眺めながら、メイのことを考えていた。彼女が部屋を去った夜から、もう一週間が経っていた。
あの日、長い間玄関に座り込んでいた俺は、部屋に戻ると妙に寒々しい感覚に陥った。僅かばかりの荷物と、小柄な彼女がいなくなっただけなのに、やけに広く感じちゃってさ。
カーテンを開いて夜空を見上げると、雲が掛かって月の姿は窺えなかった。けれど雲の輪郭が薄っすらと光を帯び、その向こうに月が存在するのだということだけは分かっていた。
テーブルの近くに何か落ちているのに気づいて拾い上げると、それは彼女が使っていた真鍮のライターだった。あれほど大事に扱っていたのに、最後に置き忘れるとは間抜けなことをしたもんだよ。
ベッドに横になった俺は、彼女のライターを使って煙草を一本吸った。ライターにはくすみが見られ、程よく使い込まれた跡があった。
そのままずっと眠れずにベッドの上で過ごした俺は、ほとんど一日中ライターの火をつけたり消したりしていた。朝に見る炎と、夕暮れを浴びながら燃える炎、それに闇の中で揺れる炎は、どれも趣が異なっていた。
着火を繰り返し続けたせいか、丸一日経つ頃にはライターの火が付かなくなった。仕方なく近所のコンビニに出向いた俺は、少量の食料と共にオイルと替えのフリントを買った。
部屋に戻るとすぐにライターをキャップから外し、オイルを入れた。それだけでも再び点火することは出来たが、せっかくなので摩耗したフリントも新しいものと入れ替えることにした。
このライターは、彼女がこの部屋に存在した証だ。ひどく濃密な二週間足らずだったが、それも過ぎ去ってしまえばあっという間だったように思えた。
二週間も共に生活をしたのに、俺は彼女の連絡先一つ知りやしない。ミカゲから連絡が来ればそれを知る機会もあるのかもしれないが、あの日以来ずっと海外に出ているのか、何度かけても奴には繋がらなかった。
思えばミカゲはどこに住んでいて、何の仕事に就いているのだろうか。
妹を前にしてそんな質問が一つも出てこなかったことに、俺は今さらながら驚いていた。会話のほとんどが彼女のペースで進み、俺はそれに答えていたばかりで、彼らのことをほとんど何も知らない。
彼女にまた会いたいと願ったところで、今の俺にはどうすることもできなかった。
忘れるしかない。自由で奔放な彼女は、一か所に留まることを嫌い、風の流れに身を任せて転々と渡り歩くのだろう。俺にはそんな真似はできない。地べたを這いつくばって決められた道をうろうろ歩き回るだけの俺に、彼女を追う資格はなかった。
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