第21話

「どうして、部屋を覗いてたのかな?」


 彼女の声は、どこか好意的だった。怒っているわけでも、責めているわけでもない。けれど、だからと言って柔らかく包み込んでくれるようなものでもなかった。


「私は、単純に知りたいの。ねぇ、教えて。どうして毎日覗いていたの?」


 声音からは本心が読み取れないものの、彼女の手つきはどこまでも卑猥だった。俺の背中を指先でさすり、そのまま太腿の辺りにまで移動させる。俺は興奮と緊張で、頭がおかしくなりそうだった。


「大丈夫だよ。私に話してみて」


 彼女はまるで、受け入れる準備はすっかり済ませているとでも言いたげに俺を誘惑していた。軽蔑なんてしないと、そう言ってくれているように思えた。だから俺は、迷った末に口を開いた。


「……明るかったんだ」


 呟くように俺がそう言うと、「明るかった」と鸚鵡おうむ返しに答えた彼女は、続きを促すように俺の首筋の辺りに吐息を寄こした。「――それは、どういうことかな?」


「メイが、羨ましかったんだ」


 君の姿が眩しかった。だからいつしか目が離せなくなって、気づいたら毎日のように君の部屋を眺めていた。


 下心も企みも、そういったものはまるでなかったと誓って言える。他人のプライベートを覗き見て癒されているなんて気味が悪いと思うかもしれないが、俺にとってはあの時間が必要だった。


 あの光景が心の支えで、中でも君の姿は俺にとって自由の象徴だった。


 一方的に俺が想いを伝えると、彼女はしばらく黙り込んだまま俺の身体を摩っていた。それから今度は頭を撫で始め、「薬は? 何のために使うものなの?」と尋ねた。


 俺はそれについても、きちんと説明をしたよ。近頃はちょっとばかし精神的に不安定なところがあって、そのせいで色々と君にも迷惑をかけたってね。


 それを聞いた彼女は、俺と顔を突き合わせて瞳の中をじっと覗き込むと、「本当に、それだけ?」と言った。「監視していたとか、あぶない薬じゃない?」


 彼女は、思いのほか真剣な顔つきだった。だから俺は、その空気に飲まれていたのかもしれない。彼女が真面目に自分の事を想ってくれる存在だと思い込んでいた。


 だが、その幻想が消え去るのは、本当に一瞬のことだった。


「誰にも頼まれてないし、あれはただの睡眠薬だよ」


 俺がそう言うと、唐突に体を離して起き上がった彼女は、ベッドに腰かけたままテーブルに置いた煙草の箱を掴み、中から一本出して咥えるとおもむろに火をつけ始めた。


「どうして、すぐに言わなかった?」


 暗闇の中に響くため息交じりのその声は、驚くほどに冷え切っていた。それに驚いた俺は彼女に続いて起き上がり、「そんなの、言えるわけないだろ」と答えた。


 軽蔑されると思ったから。あれは俺だけが見ている世界で、その行為を誰にも知られたくはなかった。


 思えば俺は、映画のスクリーンでも鑑賞するような軽い気持ちで向こう側を眺めていたが、あっちからだって俺の姿は丸見えだったんだ。外からよく見えるってことは、内側からも見えやすいってことなんだから。


「あなたは、あの部屋をただ眺めていた。誰かの指示でもなく自分の意思で、ただ眺めていた。――そういうこと?」


 彼女は確認を取るように、俺にそう言った。それはテレビドラマで見られる警察の取り調べにも等しい調子で、先ほどの熱心な誘いようからは考えられない変貌ぶりに、俺は戸惑いを隠せなかった。


「そ、そうだよ」


 ベッドに座り込んだまま俺がそう答えると、煙草を咥えた状態で立ち上がった彼女は、床に落ちていた自身のパジャマを拾い集めた。それを順番に畳み終えると、今度は私服に着替え始めた。


「そろそろ行くね」


「……行く?」


 おいおい、何を言ってんだって俺は思ったよ。今は真夜中だぜ。お前さんだって、あの状況でそんなこと言われたら、同じことを思うだろ? だから慌ててベッドから立ち上がった俺は、部屋の中を改めて眺めたんだ。


 そしたら彼女はすっかり荷造りを終えててさ、あとはキャリーケースを持てばすぐにでも出発できるようになっていた。


「出て行くのは、……明後日じゃなかったのか?」


 俺はひどく狼狽していた。半日の間、いや、ベッドで意識を失っているほんの一瞬の間に、世界がまるっと変化しちまったように感じていた。


「一日早まったの。早朝の便であの人が来るから、もう出ないと」


 そう言って俺を見つめる彼女の瞳は、この部屋で初めて見た時の姿にすっかり戻っていた。


 まるで何に対しても興味がないような、感情の乏しい虚ろな表情。今までの短い会話の中で、一体俺が何をしたって言うんだよ。


 彼女は俺と視線を交わせているが、ただそれだけだった。そこには何の感情も伺えず、距離は一向に縮まらない。俺の姿が映っているのかすら怪しいものだった。


 彼女が部屋から去っていくのを、俺は無言で見送った。廊下の方へ姿を消した彼女は玄関で靴を履き、鍵を開けた。俺は目についたピングーのぬいぐるみを掴むと、急いで後を追った。


 扉を開けてキャリーケースを外に出した彼女の後ろ姿がまだ視界に収まっている間に、俺は声を掛けた。忘れ物だって言ったよ。そしたら彼女、それをひと目見るなり皮肉った表情で口角を上げ、「荷物になるから」と答えて受け取らなかった。


「――ごめんね」


 彼女が視界から消えた後で閉じられた扉は、腹をえぐるような重たい音を響かせていた。外廊下を歩き進む彼女のコツコツという足音と、キャリーケースを引きずる音が徐々に遠のいていく。


 俺はその音を聞きながら、ただ黙って玄関に佇んでいた。

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