第20話
俺は悪い形で酒の回った身体をふらつかせながら、自宅に戻った。アパートの近くまでやって来ると、いつものように部屋の窓から灯りが漏れ出ていた。
この光は少し前まで、俺の新たな救いだった。それも今では少しばかり眩しすぎて、手を伸ばそうにも近寄りがたい存在に感じられていたけどね。
彼女なら、たとえ他人にブチ切れたりした後でも、何にも気にしないのかもしれない。でも、俺にはそれが耐えられなかった。恥じらいすら感じていたよ。他人に本心を知られたくなかった。知られた途端に、俺が俺でなくなっちまう。
「おかえりなさい」
玄関の前で佇んでいると、扉を開いた彼女が俺を出迎えてきた。心配するように見つめるその瞳は、真っすぐに俺だけを向いていて、俺だけを想っているように感じられた。
「何か、あった?」
「…………」
その時の俺は、想像以上に参ってたんだろうな。いい奴の振りをして周囲に溶け込むことだけが取り柄の俺が、それすらも失おうとしている。仮面を半分だけ被ったまま、中途半端な善意で他人も自分も傷つけている。
そのせいかどうかは分からないが、俺は彼女の声を聞くなり強く抱きしめていた。その瞬間彼女は少し戸惑ったように身体を強張らせたが、すぐにそれに応えて俺の背中を擦り始めた。
お恥ずかしながら、その時の俺は泣いていたかもしれない。さっきも言ったが、この頃は感情の起伏が激しくってさ、エアコンの風に吹かれながら、とっても爽やかな気分で笑い声を上げていたかと思えば、煙草の灰が床に落ちるのを見てどうしようもなく悲しい気持ちがこみ上げりしていた。
それくらい参ってたんだよ。
根気よく背中を擦ってくれた彼女は、部屋の中に俺を招き入れるとひとまずベッドで横になるように言った。
俺は言われるままベッドに寝転がると、久々のふんわりとしたマットレスの感覚に眠気が襲ってきて、そのまま少しの間意識を失っていた。
目が覚めたら部屋の灯りが消えていて、窓から差し込む月明かりが仄かに室内を彩っていた。隣には彼女が横になっていて、下着の上に肌触りのいいキャミソールを着ていた。
俺が目覚めたことに気づくと、彼女は身体を密着させて二の腕の辺りを指先でゆっくりとなぞり始めた。
「少しは落ち着いた?」
優しい口調でそう問われた俺は、その場で向きを変えて暗闇の中彼女の姿を眺めた。酒で火照った身体は、彼女をひどく欲していた。渇いた口元は彼女の唇の潤いを奪いたいという衝動に駆られていた。
このまま彼女に、どこまでも甘えてしまいたい。たとえ明後日にはいなくなってしまうとしても、他に男がいたとしても、彼女に惹かれる気持ちが抑えられそうになかった。
腕を伸ばして彼女を抱き寄せると、長い髪からシャンプーの香りが漂ってきた。同じシャンプーを使っているはずなのに、彼女が纏うとこうも印象が違うものか。
艶やかな髪の香りに、柔らかで弾力のある肌、それに温かな吐息。近づけば近づくほど、彼女に対する理性は失われていった。
抱き寄せた腕の力を緩め、再び顔を突き合わせると彼女は静かに目を閉じた。俺は彼女の唇に自分の唇を重ね、そのまましばしの間大人の口づけを交わした。それはまったりと舌が絡みつく濃密なキスで、仄かに色っぽい煙草の匂いがした。
いよいよ、彼女に心を奪われちまった。
さて、この次はどうしたら良いのやらと柄にもなく照れた様子を俺が見せると、向かい合った彼女もまんざらでもなさそうな顔をしてたんだ。
こりゃ、後でミカゲに謝るしかないなって反省しながらもう一度顔を近づけると、彼女は小声で囁くように、「ねぇ、教えて」って言ったんだ。
今さら何を教えて欲しいって言うんだろうかって疑問に思いつつ、俺は見つめ合ったまま続きを待った。今なら観念して懺悔くらいしちまいそうだった。
自分の脆いところや、苛立ちの原因まで話しても良いような気がしていた。それくらい彼女には心を許していたし、俺にとってそういう相手になるべき存在だと思えたんだ。
「どうして、私に隠したままでいるのかな」
「な、何も隠してないだろ」
本心なら、今の行為でもう十分に伝わったと思うんだけどね。
今日は一体何があったのか、この前はどうして不機嫌な態度を取っちまったのか、この際だから何でも話してやろうって、俺は腹を括っていた。けど、次に彼女が発した台詞は、やっぱり俺の予想を遥かに超えるものだったんだ。
耳元にそっと口を近づけた彼女は、絶えず俺の身体をエロティックに触れながら、「出窓から見える、向かいのお屋敷のことだよ」と吐息交じりに囁いた。
「…………」
俺は途端に、心臓がばくばくと激しく音を立て始めるのを感じた。すぐ向かいにあるもんだから、いつかは彼女が「あれが私の家だった」と話を切り出すんじゃないかと思っていたが、それについて俺が隠していることと言えば、一つしか思い当たらなかった。
「屋敷が、……どうしたって?」
まだ核心には至っていないはずだった。彼女が屋敷の住人だったことを俺が知っているにも関わらず、何も言い出さなかったことを咎めているんだしても、それはプライベートなことに首を突っ込まないようにしていただけだと言い訳が出来る。
けど、そんな駆け引きはそもそも無意味だった。
「君の視線、いつも感じてたよ」
彼女は、とっくに気づいていたんだ。気づいた上で、ずっと俺と同じように知らない振りを装っていた。俺が夜な夜な他人の部屋を覗き見るような変質者で、寂しい野郎だってことを彼女はすっかりお見通しだった。
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