第18話

「ねぇ、これは何の薬?」


 それから二日ほど経った、バイト終わりだった。帰宅してすぐの俺に彼女は手に持った薬を見せながらそう尋ねてきた。おっちゃんから処方された薬は目につかない場所に隠しておいたはずだが、片づけが趣味の彼女にはとうとう見つかっちまった。


 彼女が来てからも、俺は眠る前にきっちり二種類欠かさず薬を飲んでいた。でもさ、彼女には何故だかその存在を言い出せなかったんだ。


 家主が精神に問題を抱えた奴だと不安がらせたくはなかったし、何より他人に同情されるような要素を曝け出すのは、俺の主義に反していた。


「ちょっと、寝つきが悪くてね」


 軽い調子で俺がそう答えると、彼女は訝しげな眼差しで顔を覗き込み、「危ない薬じゃない?」と念を押した。


 俺はそれがどうにも気に障ってさ、数日前に見た駐車場の光景のせいも少なからずあったかもしれないが、突然頭に血がのぼった。


 それでも一応、怒りを耐えようとは試みたんだ。拳を握り込んだまま大きく深呼吸して、噛みしめた奥歯や強張った表情に力を抜くよう指令を出した。


 ひとしきり落ち着いたところで俺は靴を脱ぎ、廊下を歩き始めた。そこに彼女からダメ押しの一発が来たわけよ。


「私には、何でも話してね」


 背後から彼女がそう言うのが聞こえて、俺は頭のどっかからコルク栓が飛び出していくのを感じた。


 自分だけは、特別なつもりかよ。


 たかが一週間ぽっち一緒に暮らしただけで、もうパートナー気取りか。すべて分かった風な口ぶりで話しちゃってさ。俺のことを気にかけながらも、俺がいないところでは他の男と羽目を外してるんだろ。


 別にそれは構わないんだ。俺と彼女は何の関係でもないんだから。恋人でも友達でも知り合いでもなく、ただの一時的な同居人に過ぎないんだから。彼女は彼女で好きに生きればいい。俺もそんな彼女が嫌いってわけじゃない。


 けどさ、それなら俺の中に踏み込んでこようとしないでくれ。あたかも大事な存在みたいに扱わないでくれ。嫌でも勘違いしちまうじゃないか。こっちも踏み込みたくなっちまうじゃないか。


「……関係ないだろ」


 俺が小声でそう答えると、彼女は首を傾げながらまた顔を覗き込んだ。頼むから、しばらく放っておいてほしいのに。


「どうして怒ってるの?」


 分かってないよな。分かってないよ。俺は怒ってるんじゃない。これは単なる八つ当たりなんだ。だからそっとしておいて欲しかった。彼女に対して感情が昂っている自分を早いところ抑え込みたかった。


 けど彼女は、それを許してくれないんだな。


「困っていることがあるなら、何でも言って。だって私は――」


「何だって言うんだよ! ただの居候だろ」


 つい口が滑っちまっただけなんだ。でもその時の俺は、彼女に対する苛立ちを隠しきれなかった。


 俺の言葉に傷ついたのか、「……そうだね」と答えた彼女はしおらしい顔つきで食事の準備に戻った。


 あぁ。やっちまった。どうにかしないと。


 そうは思いつつも、俺はその後の二人の関係を思うように修復することができなかった。彼女はそれ以来俺とは距離を取るようにしていたし、俺も自分の気持ちに戸惑ったままだった。


 まぁなんにせよ、これでようやく正常な家主と居候の関係性になったってことで、結果的には良かったのかもしれないな。そう思い込むことで、俺は自分の気持ちを誤魔化していた。


 そうこうする間に彼女の滞在期間はもう明後日に迫り、その日の俺は企業の内定者懇親会(今回は本物のね)に参加していた。


 会場ではいつものように賑やかしの役に徹し、先輩方と内定者たちが気さくに会話できるよう環境を整えていたが、それでも中にはおかしな奴も何人かいて、俺がせっかく温めておいた空気を一瞬にして凍らせやがるんだ。


 一人は見るからに変な奴で、もう一人は知れば知るほど変な奴だった。


 まず高坂こうさかって野郎は、企業の懇親会だっていうのにわざわざ髪を真っ赤に染め上げて来て、耳に三つもピアスをぶら下げてやがった。


 それもダメージ加工のジーンズにアロハシャツだよ。おまけにサングラスなんか額の上に掛けて来ちゃってさ、TPOって言葉を奴が知っているのかどうかは甚だ疑問だったね。


 こりゃ上司の連中には大目玉を食らうぞって思っていたら、案の定奴は隅の方に連れていかれたよ。


 それとなく聞き耳を立てていると、こいつがまた案外気弱な奴で、周りから舐められないようにそうしたって言い訳してるんだよ。悪名高い不良校への転校生じゃあるまいし、心配の仕方が完全に間違ってるよな。


 ひとまず帰らされるようなことはなかったものの、あまり派手に動き回らないように釘を刺されてたね。


 もう一人は真鍋って奴で、こいつは恐ろしく平凡な見た目をした男だったが、やけにみんなの学歴を知りたがる奴だったね。


 足を止めるとその瞬間に死ぬんじゃないかってくらいに会場の中をうろつきながら、ほとんど全員に学歴を聞いて回っていたよ。さすがに赤髪だけは避けてたけど。


 それくらいの奴なら普通に居そうだって、お前さんは思っただろうけど、奴は何かとお喋りが過ぎる奴でさ、自分は高校の頃に運動部で国体に出たって言い張ったり、絵画のコンクールで入賞したりしたとか、自慢話の多い奴だった。


 けど、何の運動部なのか尋ねても奴は頑なに答えようとしないし、絵画のコンクールに関しては、何年度の入賞だったかまで具体的な話をしたものの、実際はあれもこれも全部嘘で、入社後のマウンティング上位を狙ってそんな発言をしたのかなって俺は密かに感じてたよ。


 それにしても、まさかその年の絵画コンクール入賞者が内定者の中にいるなんて、奴は思いもよらなかったんだろうね。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る