第六章

第17話

 彼女がうちに来て一週間が経った日の夜、隣で一緒に寝ないかと彼女は暗闇の中で俺に言った。眠る段になると彼女はいつも先にベッドに入り、壁際に寄ってわざと隣のスペースを空けていたわけだが、その日はとうとうお声掛けまでしてきたわけだ。


 正直、この時点で俺はちょっとばかし彼女に惹かれ始めていたが、ミカゲから大事な妹を任されている立場としては、容易に誘いに乗るべきではないと思った。奴がどういうつもりで俺に彼女を預けたのかは知らないが、軽い気持ちで一線を越えてしまっては信用問題に関わる。


 それに俺は、彼女の方から注がれる愛情が今ひとつ腑に落ちなかったんだ。やっぱりこれは俺個人にではなく、近くにいる誰かに向けられた執着にも等しい何かなんじゃないのか。


 だから彼女がたとえ俺に対して盲目的に惚れ込んでいるにせよ、弄ぼうとしているにせよ、それは正しい方向の恋愛感情ではないように思えた。


「悪い、やっぱりちょっと、今日は床で寝るわ」


「……そっか」


 彼女は壁に向かって寝返りを打つと、そのまま暗闇に同化するように静かになった。


 翌日、ようやく彼女との同居生活が折り返しを迎えた俺は、夜間の警備バイトが当日になってキャンセルを食らった。


 たまにあることだけど、現場に行ってから知ったのはこの日が初めてだったね。一斉メンテナンスがあるなら、もっと前から知らせることができただろって話だよ。


 だから俺は、仕方なく夕方のバイトが終わるとすぐに帰宅することになっちまったわけ。


 部屋の合鍵は渡してあったが、彼女のことだから相変わらず部屋から一歩も出ず家事に勤しんでいるんじゃないかと予想した俺は、駅前のケーキ屋でショートケーキとチョコレートケーキを一つずつ買って行った。


 味の好みが分からなかったこともあるが、何故だか彼女には、この二つが相応しいような気がしてならなかった。


 白と黒。一見して両極端な存在に思える要素を彼女は同時に含んでいる。一方では天使の羽のようにやわらかな包容力を秘め、それでいてどこか猟奇的とも呼べる爆発力を発揮する時がある。


 それらを本能的に使い分ける彼女はどこまでも自由で、俺にとっては理想ともいえる人間らしい存在に思われた。


 アパートの近くまで来た俺がいつものように建物を見上げると、今日は部屋のカーテンが閉め切られていた。掃除中なら窓くらいは開けていそうなものだが、もう日も暮れかけていることだし、今は料理や部屋の片づけをしているのかもしれない。


 彼女は部屋の片づけが本当に大好きみたいでさ、同居して三日もしないうちに大抵の物はどこにあるのか把握しちまったよ。でも、ひょっとしたら俺がいない間は意外と怠惰に過ごしていて、絶賛昼寝中ってことも考えられるよな。


 だから俺が帰る時間を事前に把握して、だらしないところを見せないようにしてたとかさ。それはそれで健気な気もしないではないけど。


 そういう俺の希望的観測をすべて覆すように、鍵を開けて入った部屋の中は静まり返っていた。電気も消えていて、室内に人の気配はなかった。


 ひとまずケーキの箱を冷蔵庫にしまった俺は、出窓の前に来ると反射的に少しばかりカーテンを開き、今では誰の姿も見られない邸宅を久々に眺めた。


 灯りも人の動きもない邸宅は、物悲しいただのがらんどうだ。俺に夢を見せてくれたあの光景は、あの日を境に消えてしまった。


 出窓から離れた俺はふと太陽が恋しくなって、部屋の奥まで進むとベランダのカーテンを開いた。室内には夕陽の眩い光が差し込み、ベッドのシーツや壁紙が一瞬にして橙色に彩られた。


 目を細めて沈みかけの太陽を眺めていた俺は、視界の中に二つの人影を見つけてそちらにふと視線を移した。


 眼下の駐車場では二人の男女が立ち話をしていて、そのうちの一人はなんと彼女だった。余所行きの着飾った黒いドレスにピンヒールのサンダルを履き、後頭部の上で髪をまとめ上げている。


 いかにも仕立ての良さそうなスーツを身に纏った相手の男は、洒落た中折れハットなんか被っちゃってさ、彼女の肩を抱きながら身体を寄せ合っていたんだ。


 しばらく経って彼女から離れた男は白いベンツのヴィンテージカーに颯爽と乗り込むと、一人でそれを運転して去っていった。


「…………」


 俺は煙草を口に咥えたまま、その光景をじっと眺めていた。


 やっぱり彼女は、あの家にいた夜の彼女だった。自分だけを見ているなんて馬鹿な妄想に取りつかれてさ、俺はすっかり本質を見落としていたよ。


 そうさ。彼女は俺に好感を持ってくれてはいるが、外には相手を望む男が何人もいて、俺一人の前に留めておくにはあまりに自由すぎる存在なんだ。掴んだかと思えば砂のように指の隙間からすり抜けて、どこまでも流れ続けていく。


 そんな彼女に改めて憧れの念を抱きながら、やはり俺は心が冷えていくのを感じた。


 カーテンを閉めた俺は、太陽の光を徐々に失っていく室内で煙草を弄びながら姿見に映った自身の姿を眺めた。


 表情が強張っている。違う、そんなはずはないんだよ。


 彼女は俺にとって単なる憧れで、夢で、灯りなんだから。胸にこみ上げてくるもやもやした感情は、決して嫉妬なんかじゃなかった。そう思いたいもんだね。


 やがて部屋に戻って来た彼女は、薄暗い室内で俺が項垂れているのを見つけるとひどく驚いた様子を見せたが、ついさっき帰ったところだと話すと、「私はちょっとした買い物に出ていた」といらぬ説明を寄こした。


 買い物袋はどうしたんだよ。捨てて来たのか? それとも、あのレトロなベンツの中に置き忘れて来たのか。


 煙草に火をつけた俺が再びカーテンを開くと、そこにはすでに太陽の姿はなく、真っ暗な闇が視界を覆っていた。

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