第15話

 それから随分と待って、先輩は会場の付近にやって来た。彼女にはその辺のカフェで待っていてもらい、俺一人で海沿いの公園に出向いて直接チケットを渡すことになった。


 もうすっかり陽が傾き始めててさ、サプライズを仕掛けるには絶好の時間帯だったかもね。


「悪いな、こんな所まで呼び出して」


 俺の姿を見た先輩は、訝しげな顔で全身を眺めた後、「もしかして、お前コンサート行くつもりだった?」と尋ねた。


 途端に申し訳なさそうな表情を浮かべた先輩を見ると、俺は自分がどうにも情けなくってさ、得意の“陽気な仮面”を被って嘘をつくわけ。


「違いますよ。これからそこのホテルで内定先の会社の懇親会があるんで、ついでにここまでチケットを持って来たんです。家で寛いでいたら、わざわざ先輩なんかのためにこんな所まで持って来るわけないじゃないすか」


「ちょ、藤沢、先輩なんかって言い方はひどくないか!」


 いつもの調子で先輩が返してきたところで、俺はポケットからチケットを取り出した。あとは最後の応援メッセージを送って、一丁上がりさ。


 ところがそこで、思いもよらぬことが起こった。


 チケットを渡すと先輩はえらく喜んでくれてさ、これから恋人と会うから花束でも買って、コンサートに誘うつもりだって張り切った様子を見せていたよ。


 その恋人さんは今回のコンサートの指揮者を敬愛しているらしくてね、チケットを見せればいちころだって話してた。それとよりを戻す話は別問題な気もするけどな。


 でかすぎる花束だとコンサートの時に迷惑ですよって俺がサービスで忠告をしてやっていると、なぜかこっちに向かって全速力で走ってくる女の姿が視界に入った。


 そいつは見覚えのある赤いワンピースを着ていてさ、化粧もばっちり決めて胸にはでかいピングーのぬいぐるみを抱えているわけ。カフェで待ってるはずなのに、どうしてこんな所を走っているのか。


 先輩は俺の方を向いていたから、背後から走ってくる彼女の姿には気づいていなかった。もうすぐそばまでやって来ていたから、先輩に何か注意を促した方が良いのかなって考えていると、胸に抱いていたピングーを片手で掴んだ彼女はそれを振りかぶると、思いっきり先輩の手元に投げつけながらタックルを食らわせたんだ。


 いやぁ、たまげたね。海沿いの手すりに凭れて立っていた先輩は危うく海に落ちそうになったけど、何とかぎりぎりで持ちこたえた。


 代わりに手元からは二枚のチケットがきれいさっぱりなくなっていて、見るとピングーと一緒に水面に浮かんでいやがった。


 水を吸って重くなったピングーのぬいぐるみは、すぐさま水の中に沈んでいった。俺と先輩はぽかんと口を開けたまま一瞬顔を見合わせた後、「前方不注意だった」だとか、「海を見てはしゃぎ過ぎていた」とか頭を上げながら訳の分からない謝罪の言葉を述べる彼女の姿を見ながら呆然としていた。


 それから先輩が突然海に飛び降りようとするもんだから、俺は必死になって止めたよ。


「止めるな藤沢! 俺には、あのチケットが必要なんだ!」


 それを聞いた俺は、気づいたら海に飛び込んでいたね。水面に揺れるチケットを二枚すくい上げて、陸に上がると当然ながら就活用のスーツは下着の中までびしょびしょになった。


 ポマードの性能ってものは驚くべきもんでね、水に塗れても髪型だけはばっちりと決まったままだったよ。


「これからコンサートに誘う人が、びしょ濡れじゃ恰好つかないでしょ」


 手すりの上から腕を伸ばした先輩に俺がそう言うと、奴は涙ぐんで喜んでいたね。こっちは会場に着いたら会社指定の制服が用意されてるから平気だとか、よくもまぁそんな嘘がすらすらと浮かんでくるもんだ。


 でも先輩はそれを普通に信じちまう人だから、早いとこ花束を買いに行くよう俺がせっつくと、素直にその場から走って消えていったよ。


「…………」


 俺たちの遣り取りを近くで聞いた彼女は、手すりに身体を寄せながら体育座りをして身を屈めていた。


「何であんなことしたんだよ」


 俺が手を伸ばすと、彼女はこっちを見上げながら納得のいかない表情を浮かべていた。


「どうして、あなたが飛び込んだの?」


 質問に質問で返すところが、妙に彼女らしいよな。だがそれについて答えるには、少しばかり骨が折れた。俺にも具体的な理由は思い浮かばなかったからさ。


 強いて言うなら、きっと社会の歯車としての本能がそうさせたんだろうね。簡単には抗えない、定められた役割をここでも俺は律儀に実行に移したってわけだ。


 そういうようなことを俺が話しても、彼女はやはり納得をしなかった。そんで言われた台詞が、「あなたも、息苦しい生き方をしてるのね」だった。今さら分かり切ったことでも、別の人間から言われると案外堪えるもんだ。


 それより俺は、どうして彼女があんな真似をしたのかってことの方が気がかりだった。すると彼女は悔しそうに瞳を潤ませながら、「……仇も情けも、我が身より出る」って小声で唱え始めた。

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