第14話
「髪のセットには、良ければこれを使って」
就活用に買った黒いリクルーツスーツしか持ち合わせがなかった俺が、その一張羅を纏って出かける準備をしていると、真っ赤なレースのワンピースを着た彼女はポマードを渡してきた。
俺はいつも針金みたいな直毛をそのまま下ろしてるから、たまには髪をアップにしてみてはどうかって言うんだよ。教えられた通りにセットすると、こりゃローマの休日みたいだなって思ったよ。それくらい決まった頭になった。
髪のセットが終わると香水はこれを合わせろだとか、ネクタイが気に入らないから早めに家を出て買いに行こうだとか言ってくるしさ、とにかく張り切ってるんだよな、彼女。
「早く早く」
長い髪を後ろで一つに束ねた彼女は、軽やかな足取りで玄関を出た。高そうなネックレスやイヤリングなんかもつけて華やかな装いをしていたけど、左の手首にはいつものようにお気に入りの金のブレスレットが巻かれていた。
彼女の通り過ぎた後には新しく買ったらしい香水の余韻が感じられ、それを嗅いだ途端に俺はどういうわけか気分が高鳴ってきちゃってさ、エアコンを消したかどうかの最終確認もせずに靴を履いて外に出たよ。
その日は夏のわりに、風が強かった。それも湿気を含んでいやがるもんだから、いくら吹いても涼しくはならないんだな。
開演の時間より随分早く目的地に到着した俺たちは、コンサートホールの真裏にある海沿いの公園を散歩したり、ショッピングモールで新しいネクタイを選んだりして過ごした。
「お、懐かしいな」
ショッピングモールの地下にはアーケードのゲーム機やクレーンゲームが並んでてさ、夏休みの時期だからか結構賑わってたよ。
さすがにちょっとばかしドレスコードがズレてるようにも感じたけど、こう見えて俺は中学時代まで“クレーンゲームの申し子”って異名をつけられるほどゲームセンターに足繁く通ったもんだ。
「どれでも取れるの?」
多少見栄を張ったこともあったが、そう言われて引き下がるわけにもいかないだろ。だから彼女が指定してきた馬鹿でかいピングーのぬいぐるみにも、俺は果敢に挑んださ。
三回もあれば余裕で取れる気はしていたんだが、嫌がらせかってくらいにアームが緩んでて、結局七回も挑戦する羽目になっちまった。それでも取れた時には周りにちょっとした野次馬が群がるくらいには盛り上がってたよ。
彼女にそれをやると思いのほか感激してくれたけど、あまりに大きいもんだからこのままコンサートに持って行っても大丈夫かなって心配になったね。コインロッカーに入れておくのも手かと思ったんだが、彼女はそれを胸に抱いたまま離そうとしないもんだから、俺は仕方なくそのままにしておくことにした。
「抱いていれば邪魔にならないよ」
「はいはい。もう勝手にしてくれ」
不貞腐れた顔でそう言いながら、俺はちょっと気分が良かったんだよな。なんせ彼女はすごい喜びようだったから。俺が触ろうとしても嫌がるくらいだし、相当気に入ってたんだろ。
まだまだ開演までには時間があったから、その辺で少し休むかって話をしていたら、ちょうどチケットを譲ってくれた先輩から携帯電話に着信があった。
とうとうあの田村が食中毒の事故でも起こしたかなって思いながら電話に出ると、
突然何事だと思って事情を聞いてみると、何でも恋人とよりが戻せそうだからサプライズでそのコンサートに誘いたいんだって。そういう計画性のなさと、独りよがりの発想が恋人には負担だったんじゃないかって思ったけど、俺はその話をついつい了承しちまった。
お前さんも、「そのチケットに俺の人生がかかってるんだ!」とか必死な声で言われてごらんよ。そこまでして行きたいコンサートなのかって聞かれると、素直に首を縦には振れないんだよな。
「悪い、コンサートには行けなくなった」
俺は正直に話したよ。まぁ、元々は貰いもののチケットだったし、俺としては彼女とこうして外を出歩いているだけでも十分に楽しかったから。服装も決めて来てたから多少は残念なところもあったけど、それでも彼女は納得してくれるんじゃないかって思ってた。
でも、予想に反して彼女はひどく落ち込んだ様子を見せちゃってさ、「そんなに楽しみだったか?」って俺が尋ねたら、彼女は項垂れたまま首を横に振るんだ。
じゃあ、どうしてそんなに悲しそうなんだって続けて聞いたら、彼女こう言ったんだ。
「だって、君が楽しみにしていたから、悲しくって」
…………。
さすがにそれは胸に刺さったね。代わりに悲しんでくれるっていう発想が俺にはそもそもなかったからさ、彼女の言葉を聞いた俺はたいそう驚かされたよ。それに、素直に嬉しかった。
でも大丈夫。俺はこういう案件には慣れているし、人には迷惑を掛けられるのが生きていくうえで当然の事だと思ってるんだから。
いや、……それはきっと強がりだな。
彼女には笑いながら平気なふりをしたが、俺は結局、周囲に振り回されて良い奴を演じ続ける自分に失望していたんだ。
本音を言うと、彼女がホールの椅子に座りながら馬鹿でかいピングーを邪魔くさそうにするところを見たいと思っていたし、途中からそのぬいぐるみを引き受ける心の準備すら出来てたんだ。
今さら返せないって、突っぱねても良かったのかもしれない。だが俺は、もうすでに返事をしちまったんだ。頑張ってくださいって心にもないエールまで送ってさ。
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