第12話
「何で、俺の番号を知ってるんだ?」
俺が尋ねると、ミカゲは電話口の向こうで小さく笑うように息を吹き出し、「君が教えてくれたんじゃないか」と言った。
「まぁ、昨日は相当羽目を外していたからね。記憶が飛んでいても無理はないか。彼女に煙草を押しつけた野郎を君がぶん殴ったのは、なかなか傑作だったよ」
「その彼女なんだが、なぜか今俺の目の前にいるんだよ。お前さんはその理由を知ってたりするか?」と俺が言うと、これ見よがしに深いため息を漏らしたミカゲは、「その件に関しては、忘れてもらっちゃ困るな」と答えた。
「その件?」
「君はとても面倒見が良さそうだったからね。妹もあれから君に懐いているみたいだし、任せるにはちょうど良いと思ったんだ。まぁ、数週間の辛抱だからよろしく頼むよ」
「妹? 数週間って……」
唐突に流れ込んできた情報に処理が追いつかない中、俺は必死にあの時の事を思い出そうとしたが、薄っすらと浮かんで来たのはミカゲの整った鼻筋と、艶っぽい瞳と、優しそうに微笑む口元だけだった。
「悪いんだが、何を言ってるのか俺には全く――」
「僕はね、引っ越しをするんだ」
奴が発した台詞は、これまでの話とはどうにも繋がらないように思えた。奴が引っ越しをするからどうだっていうんだ。
「それほど広い部屋は借りられそうにないけれど、これからは妹と二人で暮らそうと思ってる」
「じゃあ、そうすれば良いじゃないか」
それがどうして俺の部屋に彼女がいて、そのうえ面倒を見ることになるんだよ。
「けれどね、僕は仕事でしばらく日本にいないんだ。だからまだ新しい部屋も探していないし、ましてや契約なんてしているはずがないだろ?」
「だからって、彼女には彼女の家がある」
そう。彼女には馬鹿でかい豪邸があるじゃないか。何不自由ない生活を約束された空間があって、使用人みたいな奴が面倒を見てくれて、夜を共に過ごす相手も数えきれないくらいにいる。こんな狭苦しくてつまらない部屋に居るべき女じゃないんだよ。
けれど俺は、それを具体的に口に出すことが出来なかった。なんせこっそりと覗き見て知った情報だからね。話せば不審者扱いを受けて通報されるか、良くても軽蔑されるのがオチだ。
「彼女はすでに、家を引き払ったよ」
奴は落ち着いた口調でそう答えた。引き払った? 「この男は何を言ってるんだ?」って、その時ばかりは思ったね。現に向かいには彼女の部屋が――。
そこで俺は、部屋の中を歩き回る振りをして出窓のカーテンを僅かに開いた。彼女は煙草を吸いながらベランダの外を眺めていたから、こっちには注目してなかった。
「…………」
窓越しに見える邸宅の室内には、昨日までは確かに見られたはずの家具が一切なくなっていた。いつもは途絶えることのない灯りも、今はすべて消え去っている。
「彼女は僕の仕事の予定をつい勘違いしてしまってね」
ミカゲは電話口の向こうで僅かに笑い声を漏らすと、続けて一度小さく咳払いをしてから、「彼女は本当に行く当てがないんだよ」と言った。
「だから頼む。しばらくの間でいいから、彼女をそこに置いてやってくれないか」
「しばらくって言うと、お前さんが帰って来るまでか?」
「二週間後には帰国する予定だから、戻ったらすぐに彼女を引き取らせてもらうよ。彼女は少しばかり世間知らずな所があるから、一人で部屋を探そうにも問題が多そうだからさ」
「二週間……」
「駄目かな?」
ミカゲは深刻そうな声で俺にそう言った。するとあの美しい顔が途端に浮かんできやがってさ、そんな顔が湿っぽい表情をするところは、あまり見たいと思えなかったんだよ。
「まぁ、昨日の俺が了承しちまったことだから、仕方ないか」
ため息交じりに俺がそう答えると、恐らくミカゲはあの肉厚な唇をニヤつかせていたんだろう。鼻で笑うような音が微かに聞こえると、そのすぐ後に「君が話の分かる奴で助かるよ」と言った。
「で、荷物は?」
「僕がまとめて貸しスペースに預けてあるから、何も心配はいらない」
「預けてるって……。じゃあ、あの子は今、何も持ってないのか?」
「彼女に代わってもらえるかな」
俺は言われるまま、携帯電話を彼女に差し出した。まったく。兄妹揃って人の話を聞かない奴らだよ。
ベランダに足を伸ばして座りながら煙草をふかしていた彼女は、俺から電話を受け取ると嬉しそうにそれを耳に当て、しばらくの間ミカゲと遣り取りをしていた。
彼女はほとんど頷くか「うん」としか答えなかったから、会話の内容はさっぱりだったが、どうせ「裸で寝るなよ」とか「死体ごっこはよせ」とか言われてるんだろうさ。
俺は出窓の向こうでもぬけの殻になった邸宅をこっそり見つめながら、とても残念な気分だった。最近の俺にとって、あれだけが心の救いだったからさ。
それにしても、あの邸宅が彼女の住んでいた家なら使用人は一体どうしちまったんだ。でもそれを尋ねたら俺が覗き見ていたことがすぐにバレちまうし、俺が彼女の立場なら、きっとそれを気味悪がるだろう。
下心や企みがあって眺めていた訳ではないってことを、お前さんだけは分かってくれているが、それを長い時間かけて彼女に説明するのはなかなか骨の折れる作業だと感じた俺は、ひとまず彼女の家については触れないでおくことに決めた。
出窓のカーテンを閉じて振り返ると、そこにはいつの間にか通話を終えた彼女が立っていた。携帯電話を片手に笑みを浮かべ、俺をじっと見上げている。
「ミカゲはなんて?」
「なにも。君によろしくだって」
よろしくって言われても、困っちゃうよな。どこまで彼女の面倒を見てやればいいのかも分からないし、荷物がないって問題はどう解決するつもりなんだろうか。
けどさ、彼女はもうすでにミカゲとの通話を終えちまってたし、俺は二日酔いで頭が割れそうだったんだ。気づいたら腹も減ってたし、とにかく今は彼女を部屋に置いてやればそれでいいのかなってことくらいしか考えられなかった。
「朝めしでも食うか」
携帯電話を受け取った俺がそう言うと、頷いた彼女はその場でくるりと回転してから丁寧にお辞儀し、「これから、よろしくね」と言って笑顔を寄こした。
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