第11話
「昨日は、呼び捨てで呼んでくれたのにね」
考え事をする俺の思考を突き破るように彼女はそう言うと、煙草を口に咥えながら俺の手のひらに指先で円を描き始めた。それがくすぐったくて思わず手を引っ込めると、彼女はすかさずまた俺の手首を引っ張り、「飲みすぎてよく覚えてないんでしょ?」と顔を覗き込んだ。
「面目ない」
俺は素直に頭を下げた。下手なことを言うと、余計に傷つけそうだったからさ。
「そっか」
立ち上がった彼女は、俺の手首を握ったままベランダの方へ移動すると、勢いよくカーテンを開いた。眩しそうに目を細めながら窓を開けた彼女は、外から入り込む生ぬるい室外機の風を肌で感じていた。
そのままベランダの外に向かって煙草を放り投げようとしていることを何となく察した俺は、思わず手首を引きながら「捨てちゃ駄目だぞ!」と声を張り上げた。
首を傾げてこちらを振り返った彼女は、俺の瞳をじっと覗き込み、「どうして分かったの?」と笑みを浮かべた。
俺は内心でやっちまったと思ったが、そこは上手く誤魔化すことにした。
「何となく、そんな気がしただけですよ……」
「あ、急に敬語になった」
彼女に指差された俺は、咄嗟に顔を背けた。ちっとも上手い言い訳じゃなかったが、それは仕方ないだろ。俺はまだ頭が混乱していたし、彼女の行動は向かいで眺めていたものを再現しているようで、微妙にズレていたんだから。
そんなわけで、俺の調子は彼女にすっかり崩されっぱなしだった。
近くに灰皿が見当たらなかったので、目の前のテーブルから空き缶を一つ掴んだ俺はそれを彼女に差し出した。
目を丸くしながら受け取った彼女は缶を振りながら、「中身入ってないよ?」と言う始末だ。どこまでも意図した方向から外れようとしやがる。
「いや、煙草」と俺が缶を指差すと、納得したように肩を竦めた彼女は缶の中へ煙草を放り投げた。
「朝ごはん、どうしよっか」
まただよ。色んな事情を素通りして、呑気に朝飯の話なんかしちゃってさ。窓越しに眺めていたはずの彼女は目の前に現れてみると、朝の彼女ですら突拍子もない存在だった。まるで絵本の中から飛び出てきたみたいに奇想天外な思考回路を持った女だね。
「それより、あんたは何でこの部屋にいるんだろう?」
ようやく核心的な質問ができた気がしたね。色々と聞きたいことはあったが、やっぱりこの部屋に彼女がいることが一番理解不能だったからさ。
そしたら彼女、突然しゅんとしたように大人しくなってベッドに腰を下ろしたんだ。続けてなんて言ったと思う?
「あんたじゃなくて、……メイって呼んで欲しいな」
参ったね。焦点はそっちだったか。一言一句に注意を払って答えないと、正解には辿り着けないような気分だった。
「えっと、メイさんは――」
「メイ」
「…………」
意外と細かい女だよな。これは一体何の講習なんだか。俺を立派なアナウンサーにでも育てようって腹積もりかね。
「メイは、どうして俺の部屋にお泊りになったんだろうか」
俺の言葉にようやっと頷いた彼女は手首の火傷に触れると、それを愛おしそうに眺めながら、「昨日の夜に君が助けてくれたって言ったでしょ?」と言った。
「それから、あの人と三人で飲み直しながら話をして、話が上手くまとまったから私はあなたの部屋にやって来たの」
「あの人?」
「それも覚えてない?」
彼女は煙草をまた箱から一本抜き出して指に挟むと、「あなたとあの人が話してるところに、私が呼ばれたの」と言った。
「ミカゲのことか?」
彼女の口ぶりから、やはりミカゲと彼女は顔見知りらしかった。頷きながらこっちに指を突き出した彼女に俺はライターの火をつけてやりながら、「話がまとまったっていうのは、一体どういうことだ?」と続けて尋ねた。
煙草の煙を吐き出した彼女は一度目を閉じると、その余韻を噛みしめているようだった。近くから見下ろすと睫毛がやけに長い。やがてゆっくりと目を開いた彼女が「それはね――」と答えかけたところで、テーブルの上にあった俺の携帯電話が鳴り始めた。
液晶には知らない番号が表示されていて、室内には前にお前さんとふざけて設定したマイムマイムが呑気に流れていたよ。
「出ないの?」
彼女に言われて、俺はしぶしぶ携帯電話を手に取った。ようやく本来向かうべき方角に話が進み始めたところだったから、俺としては流れを止めたくはなかったんだが、こういう謎めいた着信ってどうも素通りできないタイプなんだよな。
これが田村とか三上とかだったら、間違いなく放っておくんだけど。
「やあ。こんちは」
通話ボタンを押して電話を耳に当てた途端、そんな台詞が聞こえてきた。記憶に新しいその軽やかな口調は、あの男以外にはありえなかった。
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