第四章
第10話
女は服を着ておらず、布団を被った肩の辺りにはブラジャーの黒い紐が伺えた。慌てて俺は自分の下半身を覗き見たが、俺の方もズボンや靴下なんかは履いておらず、下着のみだった。
ベッドの周辺を眺めると彼女の着ていた黒いワンピースや俺の服が床の上に散らばっていて、テーブルにはビールやチューハイやらを飲んだ形跡が残されていた。
一体、どうなっていやがる……。
俺は割れるような痛みのなか頭を抱えながら、全身の血の気が引いていくのを感じた。勢いで彼女に声を掛けたのか。だが、そんな都合よく事が運ぶとも思えない。そもそもこの女が何者なのか、俺は知らない。名前すら知らないんだ。
床の上にミカゲが寝てやしないかと俺がベッドから出ようとすると、突然左の手首に触れる者があった。
「おはよう」
片目を擦りながら呑気に朝の挨拶を寄こした彼女は、左肩のブラジャーの紐が二の腕の方に落ちていた。俺にはそれが妙に無防備で卑猥に感じられたものだったが、彼女は無関心な様子で身体を大きく上に伸ばした。まるでバレリーナがポーズを取るようにしなやかで、指先まで含めて一つの生きたお人形みたいだった。
左の手首には細い金色のブレスレットをしていて、それは昨晩ミカゲが身につけていたものにとてもよく似ていた。中央についた鈴のような突起が特徴的だったから、何となく覚えていたんだ。
やがて俺を跨いでベッドから飛び降りた彼女は、尻に食い込んだサテン地の黒いパンツを指先で直しながら姿見の前に移動すると、手櫛で長い髪を整え始めた。
向かいの豪邸で行われる彼女のルーティンを間近で再現しているように感じられた俺は、目を丸くしたままその姿をじっと眺めていたよ。
「ブラシとか、置いてない?」
無表情でこっちを見ながらそう言った彼女の声は、こんなに高かったのかと思った。想像よりも可愛らしい声で、それでいてハスキーな要素を含んでいる。
瞳の色は上品な灰色で(後で聞いた話だと、それはヘーゼルとかいう色らしい)、両目が少し離れていた。小ぶりの顔に比べて口は横広で、その割に小粒の鼻。何もかもがほんの少し予想とズレていて、それがまたどこか上手く噛み合っていた。
丁寧に整えられた顔立ちというわけではないものの、構成する一つ一つの要素を組み合わせると、なぜか向かいの邸宅で眺めていた彼女の持つ妖艶さに辿り着いている。
無言で目を見開きながら頷く俺を見た彼女は、鏡の方へ向き直ると手の平で髪を撫でつけ始めた。地面に落ちた自分の服を拾ってズボンやTシャツを着ながら、俺は未だ夢見心地だった。
彼女はそばに落ちている黒いワンピースを拾って鏡の前に移動すると、虚ろな表情を浮かべながら自身の姿を眺め、鏡越しにこちらを見やりながら「ありがと」と抑揚のない声で答えた。
夢じゃない。この女は目の前に存在し、呼吸し、生きている。
それを認識した途端、彼女の裸体を直視できなくなった俺は目を逸らしながら「服、着てくれよ」と小声で言ってワンピースを差し出した。
だが、彼女はそれに応えずテーブルの上を指差すと、「あれ、取って」と言った。
指差す方へ視線を遣ると、そこには見覚えのない煙草の箱と
仕方なくワンピースを床に置いて頭を掻きながらそれを取りに行くと、振り向いた時には彼女はワンピース姿になっていた。まるでアイドルの早着替えを生で見ている感覚だったね。
真鍮のライターと煙草を受け取った彼女は、再び俺に礼を言うと早速一本咥えて火をつけ始めた。煙草を持つ指先は思いのほか長く、ちょっとした盆栽みたいな風情があった。
「一本どう?」
煙草の箱を開いた彼女は、こっちにそれを差し出した。言われるままに一本抜き出して咥えると、彼女は片手でライターの火をつけて寄こした。
その煙草の味が何とも色っぽくてさ、煙草の味に色っぽいなんて表現もどうかと思うんだけど、その時の俺には確かにそう感じられたんだ。
新鮮な果実を齧ったような甘酸っぱい味わいとでも言えばいいのか。仮に吸ったのがお前さんだったら、もっといい表現をしてくれたのかもしれないな。
「悪いんだけど、……あんたは誰だろう」
煙草を一口吸ってちょっとばかし正気を取り戻した俺は、彼女に向かってそう尋ねた。ひょっとしたら一晩を共にしたかもしれない相手に対して失礼な質問だとは思ったが、それ以外に言葉が思い浮かばなかった。
怒られても仕方がないと思いつつ顔を見遣ると、彼女はクスッと笑いながら、「君、いくつ?」と尋ね返した。
その瞬間、俺は彼女を纏う空気が一変したことを直感した。目覚めてから今までの表情を欠いた彼女の姿は唐突に生気を帯び、潤いを増していく。
まさしくお人形に魂を注入した瞬間を目の当たりにしたような気分だった俺は、その瞳の温かさに動揺を隠しきれなかった。
「……二十二だけど」
「思ったより若いんだ」
驚いたように目を見開いた彼女は、ゆっくりともう一口煙草を吸い込み、その倍ぐらい時間をかけて煙を吐き出してから床の上に自然と灰を落とした。
「結構しっかりしてたから、もっと上だと思った」
「あんたは、何で……」
「ねぇ、これを見て」
彼女が煙草を持っていない方の手首(金のブレスレットがある方だな)を捻ってこちらに見せると、そこには小さな火傷の痕があった。
それはまるで煙草の先端を押し付けたような跡で、……と、そこまで考えたところで俺は嫌な予感がした。もしかすると、酔っ払った勢いで俺が彼女にそれをやっちまったのかもってさ。
「火傷の代償に、身体で支払ったとか?」俺が気まずそうに呟くと、彼女は口を開けて高らかに笑い声を上げた。
「それは代償として、ちょっとお安いんじゃない?」
「はぁ……。まぁ、俺の身体一つでどうこうできるもんでもないよな。責任取って治療費とかは――」と俺が言いかけたところで、彼女は俺の手を取り、「違うよ」と言った。
「君が助けてくれたんじゃない」
「俺が? えっと、俺はあんたに……」と言葉に詰まっていると、彼女は俺の指をそっと撫でながら、「メイ」と答えた。
「メイ、……さん。俺があんたを助けたって言うと、その……」
頭がひどく混乱していた。なんせ途中から記憶が全くなかったからね。彼女と知り合いになったことすら信じられないっていうのに、それも根性焼き野郎の魔の手から救い出して、部屋にまで招き入れちまってるんだから。とんだ急展開だよな。
トイレから戻った時にちらっと姿を見たところまでは確かに覚えてるんだけど、それ以降がこれっぽっちも思い出せない。確かこの女は、ミカゲと会話していたような。
それにしても、何だって肝心のあいつはここに居ないんだ。朝までとことん付き合うって約束してくれたのに。
……あぁ。そうか。俺は約束なんてものをまた信じちまったのか。まるで学習しない野郎だよね、まったく。
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