第9話

 男の名前はミカゲというらしかった。それも相当な杯数を重ねてからようやく聞かされた名前だったから、御影なのか、三影なのか、はたまた三日月なのか正しい漢字までは聞けなかった。


 いつの間にこれだけ酒を飲まされたのかと思うほど、あいつは飲ませ上手だったね。それもえらく話の通じる奴で、ひと目で俺の仮面を見抜いたのも嘘じゃないらしかった。


 他に覚えている情報としては、ミカゲはうちの大学の院生だったということと、俺よりもわりと歳が上だってことだった気がするな。


 情報が曖昧で非常に申し訳ないんだが、あの時は相当酔ってたんだよ。それに俺としては、目の前の相手がたとえ二十個上だろうと百個上だろうと構いはしなかった。


 それくらい奴には親近感を覚えたんだ。お前さんを見た時にも近い感覚だったが、今回のそれは、どこか衝撃的だった。


 ミカゲは俺のことを面白い奴だと連呼していたけれど、俺からすれば奴さんの方が断然面白くて魅力的だった。


「あの子さ――」と言って奴が指差したのは、俺をイベントに誘っておきながら女に声を掛けまくってる三上だった。


 何を意図して指差したのかは知らないが、そいつは俺の友達だと教えてやると、ミカゲはゆっくり首を横に振りながら、「嘘だね」と答えた。


「君はあいつが嫌いだろ? だって、僕はあいつが嫌いだから」


 笑えるだろ。こいつは俺の分身じゃないのかって思ったよ。奴とは心がぴったり重ね合ってるように感じられた。そのせいか俺は嬉しくなって深酒したうえ、普段は人前で絶対に口にしないようなことを漏らし始めたんだ。


 口が軽そうに見えて俺が慎重なタイプだってことは、お前さんもよく知ってるだろ? だからいつも酒は飲んでも必ず正気を保っていたし、初対面の相手に心を許すなんて、俺にとってはほとんどないことなんだ。


 だが、その牙城は呆気なく崩されちまった。俺は自分のことをみっともない奴だってぼやきながらカウンターに項垂れて、奴に悩みを打ち明け始めた。


 まるで懺悔室にいるような心地だったよ。奴は俺の話をしばらく黙って聞き、「分かるよ」って時々相槌を打った。それこそ、牧師みたいに温かな笑みを浮かべながらね。


「お先真っ暗なんだよ」


 虚ろな目つきで酒を煽る俺は、相当厄介な酔っ払いだったんじゃないかと自分でも思うよ。けど奴は、そんな俺に向かって杯を交わし、根気よく話を聞いてくれた。


 ミカゲが話した言葉の中で最も印象的だったのは、この後だった。


「君は、自分を部品や何かと勘違いしてるんじゃないのか?」


「勘違い……」


「君は一本の釘やネジじゃなく、一人の人間だ。それこそ、意思を持った人間だ。理性的で心に一本芯の通った男だ。そんな自分を自ら卑下しちゃいけない。君が本当に部品なら、一人では容易に取り外すことが出来ないかもしれない。だが善意のもとで人の支えに収まっている人間は、いざとなれば自分の意思でそこから抜け出すことが出来る。


 君という支えにすっかり甘えてきた連中は、その存在を失えばドミノ倒しが起きたみたいに一斉に倒れてしまうかもしれない。――けどね、それがどうしたって言うんだ。人は人で、勝手に立ち上がるべきなんだよ。それは君に限った話じゃなく、あそこの軽薄な小僧にも言えることだ」


 そう言ってミカゲは俺の手を取ると、「ほら、こんなにも温かい手が、ただのネジ一本ってわけがないだろ」と笑みを浮かべ、こっちを覗き込んだ。


 同性だっていうのに、俺はその時妙に気恥ずかしかったね。魔性ってものに性別は関係ないんだって、思い知らされたよ。柄にもなく胸が高鳴ってさ、頬っぺただって何だか熱いんだ。


 すると今度は思わず涙が出そうになって来て、さすがにそれだけは見せたくなかったから、俺は慌ててトイレに駆け込んだよ。


 便所の扉を開けると、すぐ近くの大便器に向かって吐しゃ物を吐き出している奴の背中が見えて、俺は思わずその個室の扉を閉めてやった。わざわざ人に見せびらかしながらするもんでもないからね。


 それは羽目を外した羊のうちの誰かだったような気もしたけど、その辺の記憶はあやふやだった。


 膀胱の中身が空になると、ひどく寒気を覚えた。それでも身体の表面は熱を帯びていて、まるで風邪をひいたみたいに突然具合が悪くなってきやがった。


 足元はおぼつかず、身体は鉛のように重い。俺はどんな顔をしてる、きちんと手は洗ったのか、その辺の記憶もすっ飛ばして席に戻ると、ミカゲの隣には見知った女が立っていた。


 その女は長い黒髪で、額で二つに分けて、見覚えのある黒いワンピースを……。


 ――プツン。


 一日のテレビ放送が終わりを告げる時のように、俺の記憶はそれ以降が真っ白な砂嵐になっていた。


 あれからミカゲとは何の話をしたのか、隣にはなぜあの女が立っていたのか。俺はどうやって家まで帰ったのか。そんな記憶が、まるっと消えていた。


 目が覚めると、俺は自分の部屋のベッドで眠っていて、カーテンの隙間から陽が差し込んでいた。割れるような頭の痛みに顔を歪めながら目を開くと、なぜか上半身が裸だった。


 冷房をつけたまま眠ったのか室内にはひんやりとした空気が漂い、寒気を覚えて布団を引っ張ろうとすると、二の腕に何か温かいものを感じた。


 首を傾けてそっちに視線を遣ると、なんと俺の左隣には昨晩見かけたあの女が眠っていた。

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