第8話
なんで彼女が、……こんなところに?
俺は心底驚いたよ。なんせ異世界の住人だと思い込んでいた女が、こんな胡散臭いクラブにいたわけだからさ。まるで夢を見ているようだった。
それというのも、彼女は目の前で騒ぎながらダンスに明け暮れる奴らを意に介さず、読書に耽っていたんだから。
暗いし、騒がしいし、字を読むにはおよそ最悪の環境が重なってるのに、彼女は澄ました顔でページを静かに捲くっていた。その堂々たる姿ときたら、やはり俺の想像の遥か先を行く自由さをありありと表現してくれる存在だと確信したよ。
思い切って、話しかけてみようか。
俺はかなり悩んだね。面倒を見ていた連中も今では羽が生えたみたいに好き勝手飛び回ってるし、俺を拘束するものは何一つない。けれど俺は、彼女を現実の世界に引き込むことをどこか恐れていた。
神秘的な存在である彼女が、俺なんかと関わった途端にくだらないものへと堕ちていってしまうんじゃないか。――そうさ。彼女は読書にご執心なんだ。だから今話しかけても、迷惑になるだけじゃないか。
自分にそう言い聞かせた俺は、カウンターの方に向き直って一人ウイスキーを煽った。
「やあ。こんちは」
グラスを片手に俺の隣に現れたのは、見知らぬ男だった。「ここ、良いかな?」
「どうぞどうぞ。ご自由に」
まるで女性をエスコートするように椅子を引いた俺は、男と目が合ってゾッとしたよ。切れ長で涼しげな目つきに整った鼻筋、程よく肉厚な唇をにんまりさせながら微笑む姿は、どこか妖しい空気を纏っていた。
……なんて、美しい男だろう。
それが男の第一印象だった。幼い顔立ちに大人の色気を程よい塩梅で混ぜ込んだ顔はただ単に甘いという印象ではなく、ぺろりと舐めれば刺激的な酸味が含まれているように感じられた。
俺の隣で美味そうにビールを流し込むそいつは、ドレッシーな長袖の黒いシャツをほんの少し腕捲りしていた。手首の辺りには金色の細いブレスレットなんかつけて、真横から眺めていると喉のシルエットが異様に色っぽかった。そのくせ飲み終えた後の吐息はこの上なく男臭くて、野性的なんだ。
“カリスマ”ってやつはこういう存在のことを言うのかと、俺は肌で実感したね。
ビールを飲み終えた男は続けてもう一杯同じものを注文すると、「何だか、浮かない顔だね」と艶っぽい声で言った。
男のその言葉に、俺はまたも驚かされた。
浮かない顔だって? 俺はここへ来る直前から上機嫌な空気をしっかりと纏わせ、一度だって仮面を外した覚えはないんだ。なのに、どうしてこの男はすぐにそれを見抜いたのか。
ひょっとすると、この男は適当に言ってるだけなのかもしれない。そう思った俺は、「それって、俺のこと言ってんの?」と自分を指差しながら冗談っぽく尋ねた。
すると真顔で頷いた奴は、「人一倍、不機嫌な空気を感じ取ったもんでね」なんて答えた。
「お邪魔だったかな?」
「いやいや、お邪魔なわけないでしょ」
俺は困惑していた。この男は見えない手で俺の仮面を剥ぎ取ろうとしている。それも力づくではなく、顔と仮面の僅かな隙間に鋭い爪の先を器用に差し込みながらスマートにそぎ落としていく。
そのあまりの正確さに、俺はすでに仮面を剥ぎ取られていたことにすら気づけないでいたのかもしれない。
俺の警戒心を敏感に察知したのか、男はカウンター越しにビールを受け取ると、グラスをこちらに向けながら、「そう怯えるなよ。僕は君のような奴がわりと好きなんだ」と言って僅かに首を傾けて笑みを浮かべた。
それはまさに、魔法と呼ぶに相応しかった。男が差し出したグラスに俺は自然と自分のグラスを当て、乾杯をしちゃったんだからさ。
男はまた色っぽい喉を見せた後、「こんなところで、君のような人に出会えるなんてね」と言って悪戯っぽく微笑んだ。
君のような人って表現がさ、普段の俺なら「こいつは何を言ってやがるんだ」とでも思ったかもしれないが、目の前の男にはそう思わせない不思議な説得力があった。奴が話す言葉はすべて事実を切り取ったスケッチで、そこに建前やお世辞なんてものはない。
だからこそ、あたかも自分を肯定してくれる存在のように感じられたんだ。
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