第5話

「――これでよし」


 田村は本社にメールを打ち終えたにも関わらず、未だ椅子に座ったままだった。それで首だけをこっちに向けながら、「藤沢くんって、今日通しだっけ?」なんて話題を振る始末だ。


「えーと、今日は、早番っすね!」


 ちなみに俺は、いつも早番なんだよ。一日通しでシフトに入る奴なんてこの店では社員とフリーターの連中だけだ。俺は夜になったら他のバイトに行くこともあるし、そもそも遅番を希望する奴らがやたらと多いからね。夜の方が暇で、時給が高いこともあるんだろうけど。


 それでも奴さんは、毎回懲りずに「通し?」なんて聞いてきやがる。それに対して俺は少しばかり間を置いて、笑顔を浮かべて、気づいたようにはきはきと「早番です!」って答えるんだ。


 何でそんな面倒なことをするのかっていうと、何度訂正しても無意味だと分かっているからさ。田村の頭の中には店長以外のシフトを入れるための器が用意されていないんだ。


 ひょっとしたらあるにはあるのかもしれないが、それには大きな穴が空いてるんだな。きっと。その穴まで埋めることは、さすがの俺にも出来そうにない。


「早番かぁ。良いよね、帰る頃にはまだ日が暮れてないんだろ? 俺はもうどれくらい夕陽を拝んでいないかな」


「社員さんは通しばっかりで大変ですもんね」


 社員の拘束時間が長いことに関しては同情するけどさ、田村に限っては長い時間をいかにサボって過ごすかってことしか頭にないんだから、素直に思い遣れないよね。


 よく考えるよ。こいつがいない方が、実は上手く店が回るんじゃないかってさ。その分の給料を皆に分配してもいくらかお釣りがくるかもしれない。


「正直言って、社員になんてなるもんじゃないよ」


 また始まった。田村のショータイムさ。


 こいつはね、不幸自慢が大好きなんだ。いかに自分が不遇で、恵まれない環境下に置かれているのかを毎度俺に語って聞かすんだ。そのくせ本人は人の話を全く聞きやしないし、努力する気配を見せた試しがないんだから。


「ここの連中にも問題があるよな。みんな俺のこと使えない奴だって思ってるかもしれないけど、それは間違った物の見方なんだ。どんなに高性能な機械だって、適した環境でなかったり、使い方を誤ったりしたらただのガラクタとしか扱われない。俺は今そういう立場に陥っているのさ」


 田村はパソコンの上に置かれた棚の上からバインダーを一つ取り出すと、それに挟まった紙をぱらぱらと捲りながら、「君だけは、少し違った見方ができる子だと思っているけどね」


「いえいえ、そんな……」


 こいつはさ、語り出すと途端に人のことを“君”なんて呼び始めるんだ。参っちゃうよな。こちとら寝不足続きで頭も働かないっていうのに。自然な眠気が襲った時くらい安らかに眠らせてくれよ。笑顔で返事するのもなかなかの労力なんだから。


「その点、君のように商社が就職先なら、きっと話は違うと思うよ。そういうちゃんとしたところの社員なら、こんな馬鹿みたいな拘束時間にもならないだろうし、正当な評価がされるに違いない」


 田村は大学を出ていないせいか、大学や公務員なんかをユートピアのようなものだと勘違いしているんだ。俺に言わせれば、どこへ行ったって本質は大して変わらないはずなのにさ。


「ほんと、羨ましいよ」


 奴は俺の椅子に腰かけたままバインダーに挟まった紙を行ったり来たり何度も捲り続けていたが、突然顔を上げてこっちを見ると、「そういえば、聞いたかい? 店長が結婚退職するって話」と言った。


 奴の眠たげな目つきは黒目がどんよりと淀んでいて、ドブの中みたいに汚らしい印象を与えるんだ。話題を唐突に切り替えるのも、この男の十八番おはこだね。


「はい。聞きました」


「次の店長はやっぱり俺になるのかなぁ。この忙しい時期に辞められても面倒だよな、まったく」


 田村は深いため息を漏らしながら嘘くさい口調でそう言ったが、密かに胸躍っている姿を隠しきれない様子だった。


 俺としては本社の目利きに期待したいところだが、どこも人手不足と来ているもんだから、今の店長がいなくなれば、わざわざ別の店舗から新しい人材を寄こさず田村を新しくその任につけ兼ねない。


 そうなるとこの店の評判は急暴落するだろうし、さすがにそうなる前には手を打ってもらいたいもんだね。


「あぁ、そうだ」


 思い出したように手に持っていたバインダーに視線を戻した田村は、それを俺の方に寄こすと、「藤沢くん、今日は早番だろ? 俺の代わりに発注しといてくれないかな」と言った。「――他の人には、これでさ」


 口の前で人差し指を立てたあいつは、愛嬌たっぷりの表情を浮かべているつもりかもしれないが、それがまた気持ち悪いんだ。


 あたかも片目にゴミが入って開けていられないとでもいった風に閉じた顔でさ、こいつに覗き込まれる鏡が気の毒で仕方ないよ。


「あ、……はい。任せてくださいっす!」


 まぁ、それでも俺がやった方が百倍は早いし、発注数の桁を間違えられても後で困るからね。素直に引き受けるわけ。


 前にじゃがいもが三十箱も来た時の光景はある意味壮観だったね。この狭くて細長い部屋の中には引っ越し前みたいに段ボール箱が積まれてて、賄いがしばらくの間じゃがいも三昧だったよ。


「ありがと。もうじき俺が店長になったら、君には楽な仕事を回すと必ず


 そう言ってニヤついた表情を浮かべた田村は、立ち上がってようやく俺の椅子から離れると、しっかりと冷凍庫の中を覗いてから部屋を後にした。


 約束だとか、必ずとか、そういった言葉が何の役にも立たないことを俺はよく知ってるよ。心にもないことを言う奴ほど、そういった表現を使いたがるからさ。


 これで分かったかな? あの男が休憩時間になるとわざわざ俺に会いに来る理由が。そうだよ、田村は端から発注を押し付けるために忙しい間を縫って俺の前に現れるんだ。


 この店は基本的に社員以外のスタッフが発注を行うことを禁じているから、奴は隠れてこっそりそれを実行に移してるわけ。


 もちろん相手を選んでね。俺以外にも一人その役のバイトがいるみたいだけど、あいつはまだまだ甘いな。発注が完璧すぎるんだ。田村の振りをするのなら一つや二つゆとりを持たせておかないとさ。


 もちろん、営業に支障が出ない程度にって話だけど。


 ここまでは、まぁ言ってしまえば日常茶飯事って具合だったんだけどね、その日はもう一つ面倒なことがあった。

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