第三章

第4話

 定期試験を終え、夏休みに入って一週間ほど経った頃だった。その日の俺は随分と荒れていたよ。昼間にバイト先で少しばかり不愉快な気分になったのもあるが、それ以外にも色々と厄介な日だった。


 お前さんは、俺のバイト先に来たことがなかったよな。カフェで働いてるなんて言うと、大抵の奴には優雅だとか楽そうだとか、随分と洒落た印象を持たれるもんだが、実際は軍事演習にでも参加してる気分だよ。


 客の見てない所では、みんな必死な顔して駆けまわりながら提供用の飲み物や食べ物なんかを用意してる。特に俺が働いてるような中堅どころだと、待遇はひどいもんだ。大量の仕込みが必要なわりに工場生産をするほどの予算はないし、休憩時間にいざ裏で休み始めても、厨房の声は薄い壁の向こうから丸聞こえだ。


 あれが足りない、あれはまだかといかにも人手が足りない現状を嘆くような声が響いてきて、心は一切休まらない。賄いを食べたら眠気に任せて少しでも仮眠を取っておきたいところだが、そういう訳にもいかないんだ。


 何たって、この店にはあいつがいるからね。


「よう、藤沢くん」


 薄ら笑いを浮かべながら裏に顔を出したのは、社員の田村だった。あいつは俺が休憩に入ると決まって裏にやって来やがるんだ。一人減って忙しいって時に限ってだよ。


 田村は色白でひょろっとした男なんだけど、こいつが本当に厄介な奴でね、社員のくせしてまともにレジも打てないんだ。他にも卓番は間違えるし、注文の取り間違えは多いし、そのうえ期限切れの物を片っ端から冷凍庫に放り込むんだ。


 冷凍庫の奥はまるで未知の採掘場だよ。店長や本社の連中に何度注意されても駄目なんだ。治る気配がない。もう癖になっているのか、奴にはあれがごみ箱にでも見えているのか、裏に来ると必ず冷凍庫を開けて何かを放り込む。そういう奴さ。


「あっ、お疲れ様っす!」


 それでも俺にとっては一応先輩でだからさ、顔を出した時にはわざわざ椅子から立ち上がって元気な挨拶を返すわけよ。


 スタッフの中には素っ気ない態度を取る奴がいない訳でもないんだけど、お前さんも知っての通り、俺はどこまでも平和主義で外面を良く見せるところがあるから、そういう役回りではないわけだ。


 そいつがどうして、俺が一人でいる時に限って裏にやって来るのかと言うと、間違っても気に入られてるからって訳じゃないよ。その逆ともまた言い難いけれど。


 実際、嫌われてはないんだろうな。他人に嫌われないことにかけては、俺は一級品だから。


「昨日の売上を本社にメールするの、すっかり忘れててさ」


 俺が座って賄いを食べる机には、目の前に一台のパソコンが置かれている。空いた時間にはよく店長が売上や発注のデータを打ち込んだり、本社とやり取りをしたりするのを見かけるよ。


 ここ以外には椅子も机も用意されてないから、スタッフはキーボードを少しばかり横に退けて、必ずこの机で食事をするわけ。


「パソコン使いますよね!」


 ところが俺の休憩時間にはかなりの確率で田村がやって来るから、少なく見積もっても二回に一回は立ったまま食事をすることになるんだ。五分もずらしてくれりゃ、完食できる自信はあるっていうのにさ。


「店長にはまだバレてないみたいだから、来る前に送っちゃえば大丈夫だよね」


 優雅に提供用の珈琲を啜りながら冷凍庫の蓋を開いた田村は、中を一度覗き込んでから狭苦しい室内で俺と入れ替わって椅子に腰掛けた。


 こいつはスタッフのシフトなんてまるで把握するつもりもないくせに、店長のシフトだけはしっかり頭に入っていやがる。その辺のずる賢さと口八丁だけは持ち合わせているんだな。


 だから本部の連中には妙に気に入られてるし、店長からはお茶目な奴だということで抜けてるところも含めて色々と許されてる。そいつの穴埋めを誰がするのかっていうと、言わなくても分かるよな。


「藤沢くん。悪いんだけど、出品数を順に読み上げてもらっても構わないかな。その方が、自分で見ながら打つよりも効率的だし」


「了解っす!」


 ちなみにその時の俺は絶賛食事中だったわけだけど、こういうのをすっぱり断ることがどうにもできないんだよな。遺伝子レベルで細工でも施されているんじゃないかってくらいに、あらがえないんだ。


 まぁ、そこには早いところこいつに立ち去って欲しいという思いと、この男に任せていたんじゃまたミスが出て、店長が閉店後に残業する羽目になるのを回避しようっていう打算的な目論みもあったわけだから、完全なる服従というわけではなかったけど、それでも俺は従順なふりをして周囲に尽くす自分自身がとても憎かったよ。

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