第二章

第3話

 女はベッドから起き上がると、太陽の光を忌み嫌うように手をかざし、いつものようにドレッサーの前に移動して髪を整え始めた。


 それが終わると煙草を一本吹かし、半分も吸い終わらないうちに庭へ投げ捨てる。窓際で外を眺める彼女は、せっかく整えた髪を風になびかせつつ物思いに耽っているようだった。


 しばらくすると部屋に朝食が運び込まれたが、それを見て左右に首を振った彼女はどこか怒ったように部屋を出て行った。続いてリビングに姿を現した彼女の後を追うように、使用人らしき男はトレイに乗せた朝食をダイニングテーブルに並べ始めた。


 足を組んでソファに凭れる彼女は再び外を眺め、何度か使用人に呼ばれてようやくそちらを振り向くと、ふいに右手を掲げた。


 人差し指と中指の間に先ほどとはまた違った色合いの煙草(葉巻か?)が使用人の手によって差し込まれ、続けて彼が用意したライターの火に向かって顔を近づけながら彼女は煙草に火をつけた。


 吸い込んだ煙をゆっくりと吐き出した彼女は、煙草を持った手の指先で相手が部屋から退出するように促している。


 男が去ってリビングで一人きりになった彼女は、レコードプレーヤーの前に移動するとそれを流し始めた。音楽に合わせて身体を揺らす彼女は徐々に本格的なダンスへとシフトさせていき、気づけば夢中になってステップを踏んでいる。


 恐らくは一曲を通して踊り続けたのだろう。それが終わると彼女は一度髪をかき上げ、気が晴れたようにうきうきとした動作でダイニングテーブルの前まで走っていくと、ミニトマトを一つ口に運んで部屋を出て行った。


 その後シャワーを浴び、頭にタオルを巻いたまま食事を始めるまでが彼女の朝のルーティンのようだった。


 俺はそんな彼女の動向の一部始終を毎日のように眺めていたもんだから、たとえそれがバイトの日で朝の準備をしている時ですら、彼女が今は何をしている時か想像することができた。


 午前中の彼女は、振る舞い自体は多少変わっているにせよどこか機械的で、正確に時を刻む番人のような存在に思われた。しかしながら、夜の彼女はこれまた一風変わった行動を取ることには違いないのだが、陽光が差し込んでいる時の彼女とは決定的に異なっていた。


 夜の彼女は誰よりも発想が自由で、振る舞いの予測がつかない人だった。ある時なんかは部屋中にトマトジュースを撒き散らして、その上に寝転がりながら死体ごっこをしてみたりだとか(あくまでもその行為が死体ごっこだというのは、俺の推測だが)、ワインの空き瓶を並べ、それをめがけて西瓜を転がしてみたりだとかしていた。


 無邪気に跳ね回る彼女をたしなめる男どもは時に参加を希望し、時に困った表情を浮かべ、最後にはそのうちの誰かと二人でベッドに移動して夜を共に過ごした。


 朝と夜に見る彼女の温度差が、俺にはとても愉快だった。特に夜の彼女はこの上なく魅力的で、窓辺に腰かけた俺はビールを片手にユーチューブでも鑑賞するように、次の企画はどういったものかと期待に胸を膨らませながら彼女を眺めていたもんだよ。


 夜の営みに関しては、半分以上が天蓋に隠れて見えなくなっていたが、俺にとってはかえってそれくらいの方が良かった。あまりに見えすぎると気分が悪くなりそうだったからね。そういうことで、双眼鏡やその手の類の道具を使って眺めたことはない。全ては肉眼で見える程度に留めていたよ。


 彼女は本当に自由な人だった。気分一つで物事をごっそりと入れ替え、細部にまで拘りを見せてくれた。その生き生きとした姿が目に焼き付いてしまうと、いざカーテンを閉めて自分の部屋を眺めた瞬間、俺は何だかどうしようもなくつまらないものに囲まれているような気分になるんだ。


 お前さんは生活感があって良いと言ってくれたが、あの時の俺は自分に属する何もかもが気に入らなかった。彼女のように自由に生きられれば、俺の人生はどれほど輝かしいものになるだろうかってね。


 彼女はまさしく輝いていた。何よりも輝いていた。太陽を眩しがっている姿さえ、俺にとっては太陽よりも眩しかった。俺は朝っぱらから目を細めてそんな彼女の姿を眺め、昼間はバイトに行き、夕方に酒を飲み、夜にはまた彼女の姿をそっと眺めていた。


 これは間違っても恋なんかじゃないよ。言ってしまえば、一種の憧れに近かったかもしれない。俺には到底届くことのできない自由な領域。そんな場所へ軽々と足を踏み入れる彼女が羨ましくて仕方なかった。


 だからきっと、目が離せなかったんだ。


 自分にもいつか、あの子のように羽ばたける日が来るだろうか。そんなことを想像すると、俺は背筋が冷える思いだった。途端に恐怖心が襲ってきた。胸の動悸が心臓を突き破るほどに激しくなり、俺は暗い部屋の中で震えながら体育座りをして身を抱いていた。


 けどね、ある時ふと思ったんだ。何かきっかけさえあれば、自分だってあんな風に自由の化身へと生まれ変われるんじゃないだろうかってね。


 そんな話を精神科のおっちゃんにしたらさ(個人的には、心の中で担当医のことをおっちゃんって呼んでるんだ。少しは親しみが湧くと思ってね)、奴さんは何て言ったと思う?


「薬の種類を増やしましょうか」って言ったんだよ。


 他にも「眠れていますか?」だとか、「朝晩のリズムは崩さないように」だとか言われたような気もするけど、まるで頭に入って来なかった。


 結局奴らは、言葉より薬に頼ることを選んだんだよ。


 なぁ、お前さんも、誰かに救いを求めるのは間違っていると思うか? 自分自身が変わらなきゃ、前に進めないのは分かっているさ。けどさ、少しくらい誰かの手助けが欲しいって思ったっていいじゃないか。


 話し相手が欲しいと願ったって、……いいじゃないか。


 俺は何種類かの薬を処方された。睡眠薬や精神安定剤、その他にもビタミン剤やら何やらとおっちゃんからそれらを有難く頂戴したが、これ以上話しても無駄だということが分かったね。


 だから俺は薬を補充したい時にだけ訪ねることに決めた。次に来るのは何週間後かね。日によって飲む薬の量にもバラつきがあったから、ひょっとしたら意外と早くにおっちゃんのところを訪れるかもしれないし、運よく永久に顔を見ずに済むなんてことも可能性としてなくはない。


 でもさ、やっぱり本音を話すことは馬鹿馬鹿しく思えたんだ。お前さんがそばにいれば、もう少しまともな俺でいられたのかな? それも今となっては、後の祭りだけどね。

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