第2話

 もちろん、病院には行ったさ。


 精神科の病院ってやつはどうも湿っぽくていけないね。あれは働いてる従業員のせいなのか、院長のせいなのか、はたまた精神科運営組織委員会なるものが実は存在していてそいつらが舵取りしているのかは知らないが、本当に湿っぽいんだよ。


 まるでお通夜にでも参列した気分だったね。爺ちゃんの葬儀に参加した連中の方がもう少し人間味のある表情を浮かべていた気がするよ。


 それで順番が回って来てみれば呆気なく診察は終わり。この医者は本当に他人の心を扱うつもりはあるのかって後から思ったけど、そんな被害妄想までひっくるめて全部自分のせいなんじゃないかって、その時の俺は感じてたよ。


 医者の奴は軽いうつ病だって診断を下したけど、本当のところはどうだか分からないね。なんせ湿っぽい所だったから。そのせいで病状に負荷が掛かっていたのかもしれないし、もっと前衛的ないかがわしい病だったのかもしれない。


 今は落ち着いているのかと聞かれると返答に困るところだが、飽きもせずにレディオヘッドの曲をループ再生しなくなったところは進歩と呼べなくもない。


 不眠症に悩まされていた俺には、とある習慣が身に付き始めていた。


 お前さんに話したことはなかったかもしれないが、俺の住むアパートの向かいにはとびきり大きな豪邸があるんだ。丘の上にアパートがあるからベランダのすぐ前には一階分くらい下に駐車場が広がってただろ? そっちの方向じゃなくて、小さな出窓から眺めた方角さ。


 それは恐らく角部屋にしかない出窓で、俺の部屋を含めた三部屋だけはその豪邸を眺めることができたんだが、外から確かめると他の奴らは出窓に余計なものを置きまくってやがったから、あれは窓として機能していなかったのかもしれない。


 だからこれは、俺だけが見られる特別な風景だった。誰かが俺のために用意してくれた異世界への扉。その門を開くと、真っ白な豪邸が視界の中いっぱいに広がるんだ。


 建物はずっと空き家だったが、お前さんがいなくなってしばらくした頃から誰かがそこに住み始めた。きっととんでもなく金を持て余した奴が買ったんだろうな。それくらい、ここいらじゃ滅多に見かけない瀟洒な邸宅だった。


 その時の俺は何を思ったのか、夜な夜な出窓のカーテンを僅かに開くと、飽きもせずにその家をじっと眺めていたんだ。


 元からそんな酔狂な趣味を持ち合わせていたわけじゃないんだぜ。それにもいくつか理由があってな、一つはその家がいつ眺めたって灯りがついていて、夜には来客で溢れかえっていたんだ。俺が外出している時間帯や意識を失っている間は知らないが、カーテンを開くとそこはいつも明るかった。


 大抵は夜になると小綺麗な服装を身に纏った連中が上品に酒を酌み交わし、時間帯が深くなるにつれてそいつらの行動は大胆さを増していった。


 リビングは大理石の床で、恐ろしく大きな冷蔵庫やアイランド式のキッチン、レトロなレコードプレーヤーやゆったりとしたソファが置かれていた。隣の部屋は寝室になっているらしく、そこにはゴシックな造りの黒いドレッサーと、真っ白なシーツの掛かった巨大なベッド、ご丁寧にレースの天蓋が掛かっていたよ。


 どうしてそんな事細かに部屋の様子が分かるのかって? それがもう一つの理由さ。実を言うと、その建物にはカーテンが一切取り付けられていなかったんだ。


 それでも優に二メートルは越える外壁があったから、通りを歩く連中からは敷地内が見えないようになっていたが、俺のアパートからはそれが丸見えだった。


 気づいたら俺は、その家を夢中になって眺めていた。暖色の灯りが妙に暖かく感じられたのもあるが、正直に言うと、やっぱり女が目当てだったのかもしれない。


 その女は部屋の住人らしく、寝室で過ごしている姿をよく見かけたよ。さすがに詳しい顔の作りまでは見えなかったが、額の真ん中で分けた長い髪は背中を覆うほどに伸びていて、痩せた身体によく黒いワンピースを着ていたかな。


 気怠そうにベッドから起き上がると時間をかけて髪を梳かして(漫画本が何冊か読める程度には長い間だったよ)、気まぐれにリビングに出てきては酒や果物をちびちびと口に運んでいた。夜には毎日のように入れ替わる来客を接待して、その中の誰かしらとベッドで交わった。


 そんな生活の全てが、俺だけに丸見えだったんだ。


 何が理由でその女に心惹かれるのか、あの時の俺は考えもしなかったが、家にいる時間のほとんどは半ば本能的に豪邸の暮らしぶりを眺めていた。


 そうだな。笑えばいいさ。あの時の俺はどうしようもなくおかしかった。それは認めるよ。


 でもきっと、俺はそこから見える光景に夢を見ていたんだと思う。現実世界が寝静まった時間になっても絶えず繰り広げられる浮世離れした光景。それはまるで眠らずして夢の中にいる心地だった。


 そういう意味では、俺は女の姿に惹かれていたのではなく、単に灯りを求めていたのかもしれない。


 だから出窓から見えるそれがたとえ無人のコンビニの店内でも、趣味の悪いネオンサインでも、俺は眺め続けていたに違いないんだ。

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