第9話 ああ愛しの泡立て器

「ホルガー!」


 出店が並ぶ先程の近くでホルガーを見つけた私は、大きく手を振った。


「――ナタ!」


 泣きそうな表情で髪を振り乱して走っていたホルガーは、私を見ると崩れ落ちそうになった。


「よかった……!」


 今度は安堵の表情を浮かべると、初めて気が付いたかの様に、私の肩に手を置くレオンを見、思い切り眉間に皺を寄せた。仮にも恩人に、遠慮もくそもないこの態度。アルフレッドに物申すだけのことはある。


「……ええと、どちら様?」


 確かに、それはそうだろう。私はレオンを紹介することにした。


「さっき、人攫いに遭った時に助けてくれたのよ。レオンっていうの」

「助けた風の男が担いでどこかに行ったって聞いたから、俺はもう気が気じゃなくて……! そうか、そうか、無事だったか!」


 ホルガーは私に駆け寄ると、私をレオンから奪い去るように腕の中に納めた。レオンが「おや」と言ったが、どういう意味だろうか。


「まだ複数人仲間が潜んでいた様だったから、一旦俺の滞在している住処に保護した。本当はもう少し落ち着いてから戻った方がいいと思ったんだけどな、こいつが」


 レオンは私を指差す。そういえば、公爵令嬢だと分かっても態度ひとつ変えない。並大抵の度胸ではないようだ。


「……こいつ?」


 ホルガーが、低い声でぼそりと呟いた。すると、それが聞こえたのだろう、レオンが臆することなく言った。


「ああ済まん、公爵令嬢にこいつはないか。ナタがどうしても泡立て器を買いたいっていうから」

「……ナタ? 呼び捨て?」


 ホルガーのこめかみがピキピキいっている。普段の温厚なお前はどこにいった。私はホルガーの胸に手を当て、上目遣いでホルガーに言った。


「ホルガー、恩人だから」

「いや、そうだけど」

「いいから! それよりも泡立て器!」


 私がそう言うと、レオンが拳を口に当て、ブッと吹いた。クツクツと笑っている姿は、一般庶民よりも品がある様に見えた。なんというか、所作が洗練されているのだ。


 もしかして、あの時王城にいた? 


 ふと、そんな可能性を思いついたが、レオンの顔には見覚えがない。国内の大抵の貴族は王太子妃候補の立場から記憶していたし、そもそもこんなイケメンだったら忘れる筈がない。


 つまり、会ったことはない。


「さっきのお店はどこだったかしら? レオン、分かる?」

「ああ、それならあそこだ」


 レオンは私達を先導すると、先程お玉があった店の前まで連れて行ってくれた。愛想は悪くそこそこ態度も横柄な奴ではあるが、人攫いから助け出したりこうやってホルガーの元まで送ってくれる辺り、根は親切な人なのだろう。


「ああ、あそこね! ありがとう!」


 私がこれ以上ない位の笑顔になってその調理道具屋のラインナップを覗くと。


「――泡立て器が、ない!」


 先程まであった泡立て器が、こつ然と消えてしまっているではないか。私は店員のおじさんに、物凄い勢いで問い詰めた。


「おじさん! 泡立て器はどこにいっちゃったのよ!」


 ビクッとしたおじさんだったが、それでも答えてくれた。


「なんか、王城で新しい王太子妃候補のお方との婚約パーティーを盛大に行なうらしくてね。巨大なデコレーションケーキを作るからって、国中の新品の泡立て器を王城に献上しろと先程お達しが来たんだよ。なんでも、古いのは捨てて新しくするんだと王太子が息巻いているんだとかで。だからこの街には、今は泡立て器はないよ」


 古いのを捨てて新しいものに乗り換える。正に先日奴がやった行為そのものの指示に、私の怒髪が天を衝き、そして。


「ナタ!?」


 ホルガーが、慌ててポケットのハンカチを取り出して私の涙を拭き始めた。私の奥歯が、ギリ、と音を立てる。あのアホ王子、一体どこまで人から夢を奪えば気が済むのか。鼻毛の分際で。


 私の拳はブルブルと震え、ホルガーが抱き寄せて頭を撫でてくれても、私の怒りは治まらなかった。


 この恨み、晴らさで置くものか!!


 と思ったところで、相手は王太子。どうしようもない。


「うわああああんっ」


 結果として、情けなく泣くしかなくなった私は、とりあえず代わりにホルガーの胸を拳でガンガン叩き続けることにした。だが、別に大して痛くもないらしい。それはそれで腹が立つ。


「よしよし、もう泣け泣け、とことん泣け」

「あの馬鹿やろーっ!!」

「うんうん、馬鹿だよなああいつ。本当に馬鹿だ」


 私のマヨネーズが遠のいていく。悲しみ混じりの怒りをひたすらホルガーにぶつけていると。


「おーい」

「……ん?」


 まだいたのか、という顔で、ホルガーがレオンを見た。


「何だ?」

「いや、さっきからずっと話しかけてたんだが、二人の世界に入り込んでて聞こえてなかった様なんでな」


 きまり悪そうにレオンが頭を掻く。


「で? まだ何か用か?」

「……性格悪いなお前……」

「何か言ったか?」

「いや。――泡立て器なんだが」


 ぴくり、と私の耳が反応した。涙は瞬時に引っ込み、レオンを見つめる。泡立て器がどうした。何だ? 朗報か? 


 絶望に染まっていた私の心に、一筋の光が差し込んだ。


「さっきの家は期間借りしてるんだが、そこの家に泡立て器があった、と思う」

「レオン! 本当!?」


 私はホルガーをドン! と突き飛ばすと、急ぎレオンの元に向かった。レオンの両腕を掴み、前後に振る。


「泡立て器、あるのね!?」


 レオンは前後にガクガク揺れながらも、頷いてみせた。


「だけど、やることは出来ないぞ。備え付けの調理道具だからな」


 つまり、持ち出し不可。となれば、結論はひとつだ。


「レオン!」

「お、おう」


 私は、心の底から懇願した。


「お願い! レオンの家の台所を、開発期間の間、貸して下さい!」

「え……ナタ、本気でそれ言ってんのか?」


 ホルガーは嫌そうだが、今はホルガーよりも泡立て器だ。従って、私はホルガーをまるっと無視することにした。


「お願い! レオンのお願いは何でも聞くから!」

「別に礼なんていいさ」


 レオンはあっさりと言った。


「え? でも、何もないのも悪いし」

「お前といると退屈しなそうだからなあ」


 さらっと失礼なことを言っているが、今は私のプライドよりも泡立て器だ。


 すると、レオンが興味津々といった笑いを浮かべ、提案してきた。


「じゃあ、俺にもその開発を手伝わせてくれ。そのマヨネーズ? てやつ、うまそうだしな」

「是非! 喜んでえええええっ!」

「ははっなんだそれ」


 私はがっくがっくとレオンを前後に揺さぶると、レオンは意外にも人懐こそうな笑顔を見せたのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る