第8話 レオン
男に降ろされた私は、部屋の中をぐるりと見渡した。
ごくごく一般的な家なのだろう、居間が一部屋、奥にキッチンと寝室らしき場所が見える程度で、以上だ。この世界の庶民の家に入るのはこれが初めてなので、これが平均なのか以下なのか以上なのかは定かではなかったが、日本の一人暮らしの家よりかは全然広い。
小さなテーブルに二脚の椅子。男はその椅子のひとつにガタンッと腰掛けると、羽織っていた短めのマントを取った。中から出てきたのは、予想通りイケメンだった。しかも、かなりの。
胸まである黒髪を一つに束ねている。切れ長の瞳は青く、鼻筋も通っていて、ホルガーよりは線が太い。ホルガーが柔和な雰囲気を持つイケメンなのとは反対に、この男は無愛想というか冷たそうな印象だ。とりあえず鼻毛は出てはいない。あの鼻毛の長さは、王家の遺伝なのかもしれなかった。
「あの……助けていただき、ありがとうございました」
とりあえず助けてもらったのは事実だ。ここは一体どこだろうかという疑問はあったが、まずは礼を言うのが先だろう。私が小さくお辞儀もすると、男は眉間に皺を寄せつつ人の顔をじっと見つめている。
「……どっかで見た顔の様な……」
「どこか? じゃああなた養鶏場の人?」
「はあ?」
この街に来てから行ったのは、今日を除けば養鶏場しかない。
「お前、名前は?」
男が、愛想ゼロな態度で聞いてきた。そしてふと気が付いたかの様に、手に持っていたひしゃげたお玉をテーブルの上に置いた。
「私はナタ。ナタ・スチュワートよ。貴方は?」
「スチュワート……」
男は私の質問には答えず、腕組みと足組みをして眉間の皺を更に深くしつつ、考え込み始めた。人の話は、あまり聞かない
「こっちに来たのは最近で、それまでは王都にいたから、見間違いじゃない?」
すると、男が「ああ!」と声を上げた。
「婚約破棄の!」
「おい」
思わずドスの利いた声が出た。男は空耳だと思ったのか、辺りをキョロキョロと見渡した。というか、どうしてこんな片田舎の一般ピープルが住んでいる様な場所にいる男が、私の顔と婚約破棄のことを知っているのか。
「人が忘れようとしている忌まわしい過去を、ペラっと口にしないでくれる?」
「済まなかった」
男は素直に謝ったが、口の端が笑っている。性格が悪いのだろう。
「まあ、とにかく助けてもらってありがとう。連れも探しているだろうし、私はそろそろ戻るわ」
私がそう言って玄関のドアに向かおうとすると、男は慌てて立ち上がるとドアを開けさせまいと手で押さえてしまった。
「待て、待て待て。今戻ったら同じことになるだけだ」
「だって探してるだろうし」
「だってじゃない!」
いわゆる壁ドン状態になってしまっているが、私の頭の中は先程見かけた泡立て器で一杯になっていた。あと、片隅にホルガーの顔。
「泡立て器も欲しいし」
「泡立て器い?」
男の端正な顔が、思い切り歪んだ。
「ケーキでも作るのか?」
「そんな可愛らしい物なんて作らないわよ」
マヨネーズケーキなんてものがあったら、案外美味しいかもしれないが。
「じゃあ何を作るんだ?」
男がしつこく尋ねてくる。面倒臭いので、私は素直に答えることにした。
「幻の調味料、マヨネーズよ」
「……幻?」
私は大きく頷いた。
「こってりとしていてまろやかで、ほんのり感じる酸味。魚料理は勿論、肉料理にだって野菜にだって合う、最高の調味料よ」
「……なかなかうまそうだな」
男が興味を示した。
「これから実験をして、昔食べた味を再現するのよ」
「成程」
男が薄っすらと笑った。笑うと、思ったよりも幼く見える。見た目よりも、実は若いのかもしれない。
私は続けた。
「だから、泡立て器とお玉が欲しいのよ。さっき貴方がその」
私はテーブルの上のひしゃげたお玉を指差した。
「――お玉を取った店にあったから、あそこまで戻らないと。それとも、貴方」
「レオンだ」
男がようやく名乗った。
「そう、レオンていうのね。レオンがあそこまで送ってくれる? ホルガーってば心配性だから、きっと今頃大騒ぎしてるだろうし」
「ホルガー?」
「私の従兄弟よ」
「……ああ、王太子に噛み付いたあれか」
「何で知ってるのよ? こんな田舎にまで噂が広がってるの? ああやだやだ」
私がそう言うと、男が楽しそうに小さく笑った。失礼な奴だ。
「とにかく、早く戻らないとなのよ」
私がそう言うと、レオンは椅子の上に投げ出されていた黒いマントを持ってくると、ふわりと私に掛けた。
「フードを深く被っておけよ」
「あ、まさか送ってくれるの?」
「そうしなきゃ今にも出て行きそうだからな」
レオンは肩を竦めてそう言うと、私の肩に手を乗せて身体を引き寄せた。耳元で、低めのいい声で告げる。
「いいか、俺から離れるなよ」
「分かったわ」
私だってまた拐われそうになりたくはない。だけど、泡立て器と、あとホルガーのことを思うと、今すぐにでも戻りたかった。
レオンの腕の中に納まる様な格好で、私達は元来た道を戻り始めた。泡立て器さえ手に入れたら、明日からいよいよ作業開始だ。私はわくわくを抑えることが出来なかった。
マヨネーズ作成がうまくいった暁には、まずはディップからいこう。ああ、でも魚にオンしてオーブン焼きも捨てがたい。ええい、全部一度にやってしまおう。鮭とブロッコリーのマヨネーズ焼きに、豚肉と玉ねぎのマヨネーズ炒め。焼きそばにマヨネーズを掛けまくる、青のりとのコラボレーションも大好物だ。つくづく、この世界には醤油がないのが悔やまれる。
うふうふと食べたい料理を考えていると、自然と足取りが軽やかになった。レオンが、そんな私を呆れた様に見て言った。
「……変わったお嬢様だな」
「うるさいわね、放っておいて頂戴。どうせあんな振られ方したらもう結婚相手なんて後妻とか年寄り相手じゃないと国内は無理だろうし、そんなんだったら一生結婚しないで好きに生きるんだから」
「公爵令嬢が、結婚しないなんて出来るのか?」
男が馬鹿にした様に笑う。私は鼻をフン、と鳴らすと、凄みのある笑みを返してやった。
「為せばなる、為さねばならぬ、何事も」
「……へえ、変わったお嬢様だな」
「もう窮屈な生活からは脱却するのよ、放っておいて頂戴」
「はいはい」
レオンは、私の言葉にははっと笑った。
先日ホルガーにも伝えた私の決意を、何故か今日会ったばかりの人間に話している今日の私は、ちょっと変だ。
泡立て器発見で、浮かれてしまっているのかもしれなかった。
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