第7話 黒い服の男

 私の口を塞いでいる男が、言った。


「大人しくしてりゃあ怪我はさせねえよ。静かについてきな!」


 不快なだみ声の臭い息が、耳にかかった。うおう、気持ち悪い! 思わず鳥肌が全身に立った私は、ずるずると引き摺られながらも抵抗を試みた。ゲシッゲシッと、男のスネを蹴り続けたのだ。


 周りの野次馬は、この男の仲間であろう別の男が構えるナイフの所為で、誰も近寄ってこない。白昼堂々ようやるわ、と思った。全然治安なんかよくないじゃないか。


「イテッ! イテテッ! 何だよお上品そうな格好してんのにお嬢様じゃねえのか!?」

「ムガアアアッムガガッ」


 そして、男の手をガブッと噛んだ。


「いてえええっ!」


 男の手が、私の口から離れた。その瞬間、私の目に飛び込んできたのは、斜め向かいの出店に吊るされていたお玉だった。


「あ! お玉!」

「ああん!?」


 なんと、横には泡立て器もあるじゃないか。私の顔に、思わず笑みが浮かんだ。すると、私を羽交い締めにしていた男が気味悪そうに言った。


「お、お前頭おかしいのか?」

「失礼ね!」


 気が狂った記憶はこれっぽっちもない私は、憤慨した。


「おらあっ! 見世物じゃねえんだよ!」


 男の仲間のちょっとオツムが足りていなそうなすきっ歯の男が、野次馬にナイフを振りかざす。キャー! という女性の叫び声が聞こえた。


 ホルガー、帰って来ないかな。ここまで人に囲まれていると、多分こいつらもここから簡単には出られないと踏んだ私は、結構冷静だった。先程の言動から分かったが、こいつらの目的は金だ。大方、さっきのスリもこの男達の仲間なんだろう。


 すると、黒い服を着た男の手が、店先のお玉を取った。


「あ! 私のお玉!」

「ああん!?」


 男は精一杯凄んでみせたが、それも一瞬だった。


 お玉を持った黒い服の男が瞬時に飛び込んできたかと思うと、野次馬にナイフを振り回していた男の手から、お玉を器用に使ってナイフを絡め取ってしまった。なんたるお玉捌きだ。


 フードを目深に被っていて顔は分からないが、ホルガーに負けない程の高身長に引き締まった涼し気な口元は見えたので、これはお約束のイケメンに違いない。


 私が感心している間に、黒い服の男はナイフを持っていた男の腕を一捻り、そして倒れかかったタイミングで思い切り背中を踏み抜いた。バキッという音がし、男の腕があり得ない方向に折れ、男が叫び声を上げた。容赦のよの字もない。


 黒い服の男が、今度はこちらに駆け寄って来たかと思うと、私を捕らえたままの息の臭い男の眉間をパッカーンッ! とお玉で思い切り打ち付けた。いい音だ。中身はスカスカに違いない。


 そこそこの衝撃だったのだろう、お玉がひしゃげた。


「ああ! お玉がっ」


 私が思わずお玉に手を伸ばしたその瞬間、黒い服の男は私のその手をぐいっと掴むと、緩んでいた男の拘束から私を引き剥がし、男の背中に豪快な蹴りを一発入れて男を吹っ飛ばした。


 店先に並んでいた鍋に男の頭が当たり、カーンッ! とまたまたいい音がした。やっぱり中身はなさそうだ。


「――来い!」

「えっ!?」


 あまり勝手にあちこちを彷徨くと、ホルガーの奴がうるさい。だがそんな私の考えなどお構いなしに、男は強引に私を引き寄せると、なんと私を肩に担いでしまった。


「ちょ、ちょっとちょっと!」

「あいつら、まだ仲間がいる様だぞ? 一旦撒いた方がいい」

「え――」


 私が群衆に視線を向けると、何人かが目を逸らしたのが分かった。おお、確かに。


「口を閉じてろ、舌を噛むぞ」


 男はそう言った直後、いきなり全速力で走り出した。野次馬が大慌てで道を開ける。


 これまで、公爵令嬢として育てられ、王太子妃候補だった私は、全速力で走ったことがない。


 前世では、学校では走った記憶が辛うじてあったが、こんなに早くは走れなかった。人生の後半はぽっちゃり女子だったので、当然走ることなどあり得ない。世の中には動けるデブという種類もいる様だが、恐らくは一般人にはあり得ない程の強靭な心臓を保有している種族なのだろう。


 人攫いの男達の姿が、どんどん離れていく。遠くの方に、ホルガーが一瞬見えた気がした。


「――あはっ」


 驚異的なスピードに思わず私が笑い声を発すると、男がボソリと呟いた。


「……頭がおかしいのか?」


 どいつもこいつも、簡単に人を狂人にし過ぎだ。


「失礼なこと言わないでよね。こんなに早く走ってるのが初めてだったから、楽しくなっちゃっただけよ」

「……」


 男はさっと細い脇道に入る。そこは、家と家の隙間に出来た細い通路だった。暫く進み、男は一軒、何の変哲もない家のドアをばっと開けて入る。


 バタン! とドアを閉めると、ようやく私を降ろした。

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