17 2ラウンドクリンナップ 戦闘は終了です。おめでとう

 カランビットが迫ってくるのに、ドラグノフ狙撃銃を盾にして応じる。力で押し負けたエージェントの体がよろけた瞬間、顔面に拳が落ちてきた。

 鼻血が溢れ、視界がぼやけても、ひるまず、前に進む。

 エージェントが取得している体術システマはロシア軍の技だ――日本の合気道をルーツとした痛みを感じづらくするための呼吸法が採用されたそれのおかげで今は普段以上に痛みを感じない。

 伸ばされたマスターレギオンの腕を軸に飛び、真っ直ぐに蹴りを放つ。

 マスターレギオンがぎりぎりで回避するが、エージェントは首に腕絡ませて自分の体重を利用して自分もろとも彼を地面に叩きつける。

 痛み。

 ああ、けど、こんなもの。

 痛み。

 どれだけあっても。

 後ろから羽交い絞めをした状態で、首を締め上げて落とすつもりでいるエージェントの横腹にマスターレギオンの容赦ない鉄拳がはいる。

 いくら傷ついてもエージェントは立ち上がる。

 野生の狼のように身を低く、唸りながらマスターレギオンを睨み付ける。

 マスターレギオンもまたよろけながらも油断なく睨み付けてくる。

 触れれば切れる。

 痛み。

 いっぱいの。

 痛み。

 そんなものはたいしたことない。

 だって

 だって、これがもう最後だもの

 ほんとうのほんとうに

 ――殺せ

 オリジナルが口にする。

 ほんとうにこれがさいごなら

 それが、

 それが、

 救いなら

 ほんとうに?

 迷いが膨れ上がる。

 自分の求めて救いはこれでいいのか?

 もうこれがさいごなら、ほんとうにさいごなら

 ――絶対にだめっ!

 激しい拒絶が心の底から生まれ、オリジナルを押しのけて、前に出る。

 だってこんな大切なものを他人に譲ってやる必要はない。命も、肉体も、ぜんぶ、ぜんぶあげるから、今だけは私にちょうだい。

「……っ、かはっ」

 痛みにめまいを覚えながらエージェントは彼を見る。

 深い絶望の色をした瞳。

 彼の瞳に泣き出しそうな自分の顔がある。私、こんな顔をしていつも向き合っていたのね。

「お前はいつも、私の前に立つ」

「あなたが止まらないからよ」

 皮肉。本当はそんな言葉のやりとりしたいわけじゃない。けど、思いつかない。

「あなたが一度だって止まって、振り返らないからよ」

 エージェントはアリオンに手を伸ばす。マスターレギオンがぎくりと身をかたくした。ここでアリオンがなにかすれば満身創痍の彼では対応できないからだ。

 ふっと笑ってエージェントはアリオンを外して、地面に投げ落とした。

「マスター!」

 アリオンの責め立てる声。

 うん。ごめんねと笑う。

「けど、彼は私の手で止める。そうしなくちゃいけないから」

 エージェントははじめて心から笑う。

 とびっきりの笑顔で――壊れていく自我が、とても幸せだと感じる。

 自分のなかに落とし込んだオリジナルの心をねじ伏せ、引き出された肉体の限界のその先。血が滾り、暴れまわる。今までは操り人形のようにただその暴走を、オリジナルのしたいようにさせていた。

 こんな感覚なのかと彼女は理解する。

 ああ、なんて幸せな気持ち。

 今なら死んでもいい。

 けど死ぬなら、彼のためがいい。ううん。彼のためだけに私は死ぬ! それは誰にも邪魔させない!


「お前の死者をすべて私は殺す。それがいやなら私を殺すことね」

 最高の脅し文句にマスターレギオンが血で再びカランビットを構成し、向かってきた。

 エージェントは息を整え、手のなかに銃を生み出そうとする。

 一歩早くマスターレギオンがエージェントの胸を――どうして左を狙わないのだろうとじれったくなる。

 目が合う。

 そんな泣いた瞳をしないで。絶望の先だって見たくせに。黄昏のその先を求めて、歩き続けたくせに。

 溢れる血を弾丸に変えて、彼女はマスターレギオンの喉に放つ。

 ほぼ相打ちにひとしいそれによって二人はふらふらと倒れるが、残るありったけの力で支えるようにエージェントはマスターレギオンの肉体を両腕に抱いた。

「どうして右胸なの?」

 ずるい沈黙。ひどい、ひどいと責めてやりたい。ずたずたに引き裂いて、噛みついてやりたくなる。

「ねぇ、夢は終わった? 死者はただの死者よ。死んだらもうなにもかも終わりなの。動かないの、どうしてそれがそんなにもつらいの? 死ぬことは当たり前のことでしょう?」

「うるさいっ」

 声が震えている。

「お前たちは、いつも邪魔をする」

 駄々っ子みたいな言い返し。

「だから私は、……私はすべてを否定するっ!」

 まって、まだ言ってない。私はまだ――エージェントが口を開くより先に強い力が爆ぜた。

 マスターレギオンを中心にして、彼のものではない、爆発の力――世界が真っ白に染まる。



 レネゲイドウィルスの強い力によって、全員が倒れ伏す。沈黙の世界で、エージェントはよろよろと顔をあげる。

 吹き飛ばされたエージェントが視線を向けると、ただ一人だけ、深い闇のなかでマスターレギオンが立っていた。

 せっかく、あんなにもふれあったのに、また否定された。

 拒絶に心が折れてしまいそうになる。

 彼は一人でいいという。

 死者だけでいいという。

 涙も出てこないくらい辛い現実に打ちのめされているのに、けどまだ動ける。

 不思議に思っていると自分の近くに花びらをずいぶんと減らしてぼろぼろのアリオンがいた。

「っ……平気ですか?」

「アリオン、あなた、かばってくれたの?」

 置いていった自分を。

「守らないわけにはいかないでしょ。止めたいなら、ちゃんとしてくださいよ」

 優しく、手を伸ばしてアリオンを撫でる。

 まだ立たなくちゃいけない。

 倒れた仲間たちを、振り払って。まだ、まだ、まだ――。


「……っ、は、はは! なんという再生能力だ! 我が戦友たちとこのエレウシスの秘儀があればこの世界の不平等の世界を」


「あなたにそんな命はいらない」

 冷たい声が、まるで唐突に現れた津波みたいにかかってくるのにマスターレギオンを動きを止めた。

 いつの間にか、目の前に真っ白い少女が立っている。

 ちかは静かに、静かに告げる。

 ずっと見ていた。

 戦いを。

 どうしてあんなに傷ついて、痛みを覚えても立ち上がるのかわからなかった。

 自分が傷つくよりも、ずっと辛い現実を知った。

 涙があとからあとから溢れてきた。

 マスターレギオンとエージェントの二人が倒れ伏したとき、安堵した。

 そして乱暴にすべて奪っていく男を少女は、生まれてはじめて激しく殺してやりたいと思った。

 はじめて自分の意志で殺してやりたいと思ってしまった。

 生まれ落ちた痛みのような怒りが爆発したとき、少女は自分がなんなのかを確かに思い出した。


 ――そうだよ、ペルセポネー、全部奪えばいい

 ――いいや

 ――転換させればいいだけのことだ


 ――喜べ お前の願いはすべて叶う

 ――エレウシスの秘儀、その力を示せっ!


 少女の涙から零れ落ち、生まれるのは海。

 うたかたの海は白銀に輝き、そこからぬっと現れたのは鯨の肉体を持つ化け物。

 マスターレギオンが目を見開いた。

 それはエレウシスの秘儀が生み出した怪物――移ろいゆく季節のように、命を循環する遺産。

 もともとはギリシャの死と生を繰り返す女神とその母である大地の女神を祭る秘儀。

 生は死。

 死は生。

 繰り返し、廻る、力。

 エレウシスの秘儀とは、ただ奪い取り、それを力として変換し、他者に与えるだけのもの。――だったはずなのに、今や確かな意志を持って動き始めていた。


「その命を、あの人たちに渡して」

 遺産らしい傲慢な言葉とともに化け物が襲いかかる。

「--っ」

 強大な牙が真っ直ぐに向かってくる。

 マスターレギオンは目を見開き、そして、抵抗することもできずに、肉体を貫かれた。

 ――いつか、こんな時が来ると知っていた。

 けれど、あのとき、いいや、抱きしめられた一瞬――未来が少しだけ揺らいだ気がした。ジャームなのに、絶望したくせに、犠牲の上に立つのに、なにもかも許されて彼女の横に立つことを望んだから、こんな罰が下るんだ。

 ああ自分は彼女の名前だって知らない。

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