18 そのあとの処理


「だめぇえええええ!」

 悲鳴が、諦めを殴りつけるように、破壊する。

 赤い鮮血が宙に舞う。

 真っ赤な髪が揺れる。

「あ」

 彼は小さな絶望の声を漏らす。

 自分の前に躍り出た赤毛の女が、自分を庇ったと理解するには、どうしても時間が必要だったのに。

 あのときと、すべてが同じ――いいや違う。だからこそ目が覚めた。

「隊長っ!」

 悲鳴をあげて、腕を伸ばして、彼女と一緒に地面に転がり化け物から逃げていた。

 二人は地面にしたたか肉体を打ち付け、荒い息を繰り返す。

 彼女の上に庇う様に覆いかぶさった男は息を整え、吠えた。

「どうして、また庇った! ……っ、隊長っ!」

「……知っていたの?」

 力なく、問いかける。

「俺が、俺が……わからないと思ったのかっ!」

 絞り出す声は震えていた。

「あんな風に庇う人は、隊長以外いないだろうっ……あんな風に戦う人は、私を求めてくれるのは」

 涙と震えにまみれて、後悔と失望を孕んだ声は、確かに、正常者のものだった。

 だからエージェントも光を取り戻して、言い返す。

「だって、あなたが死んでしまうものっ」

「死んでいいんだ。私は……私はっ」

「あなたが死ぬことを私が許すと思っているのっ」

 エージェントは叫んでいた。

 魂の限り、心が裂けるように。

「私はあなたのために生まれたの。あなたを救いたいと願った人がいたの。そうよ、いるのよ、この世に一人は、いいえ、私を合わせたら二人はいる! あなたが絶望して堕ちてしまったから……、あなたは気が付いてなくて、いっぱい殺されて、傷ついて、けど、あなたを止めようと」

 手を、伸ばして触れる。土埃にまみれた頬は、痩せごけてひどく頼りない。

「あなたをずっとずっと追いかけてきた。私は、あなたを止めるためにきたの。ううん。あなたを生かすために……そう、ようやく結論が出た」

 かすみが問いかけてくれたから、ちよが言葉をくれたから、椿が時間を作ってくれて、高見が決断を迫ってくれたから。

 ずっとずっと自分を殺して、道具だからと逃げてきた。

「あなたはマスターレギオンじゃない、ヴァシリオス・ガウラスよ。覚えてる? 自分の名前を」

 震える唇から、どうしてか笑みが溢れた。

「あなたを生かすために私は色んな人に頼んだの。ここにいる人たちは、あなたを受け止めてくれるわ。差別しない、不平等もここにはないわ。けど、あなたが自分の憎悪を終わらせることができないなら、あなたが望めば、あなたを殺す。あなたを一人で逝かせない。私も死ぬわ。あなたがジャームとして戦うというなら私もジャームになって戦う。あなた以外はいないから……ああ、ごめんなさい。いっぱい考えたのにうまくいえないの。私、馬鹿だから」

 涙がどうしてか溢れてくる。

 希望も絶望もすぐそばにいるのに怖いとも、嬉しいとも思わない。ただ、こうして触れ合える奇跡を、ぬくもりを確かめることのできる一瞬がなによりも嬉しい。

「もう、あなたはなにも諦めなくていいのよ」

 触れ合う。

 祈るように願う。

 笑って告げる。

「私がいる。あなたを独りぼっちになんてさせないわ。あなたの望みは全部叶うわ。私が叶える」

「……っ、……」

 マスターレギオンは――ヴァシリオスは声にならない声で、首を横に振って否定でも、寛容でもなくて、ただただ見つめあう。

 いくつも涙が溢れて、零れて、重なり合って、いく。

 永遠に等しい一瞬を破ったのは、獣の雄たけびだ。


「許さない! 許していいわけがない!」

 悲痛な声。

「あなたなんていらない! みんなを傷つけて、ひどいことをしたのに!」

 はっきりとした声で、それは憎悪を告げる。

 冷たく、どこまでも深い海の底のような声で。

 真っ白い少女が憎悪に染まった瞳で睨みつけて吐き捨てると影から四足歩行の馬面の化け物が現れて、嘶いた。

「化け物じゃないわ……ケートスって名前もあるのよ」

 嬉しそうに微笑んで、化け物は――ケートスと言われたそれは真っすぐに向かってくる。

 傷ついたヴァシリオスが動けないのに、エージェントが片腕を伸ばした。

 左腕に、毛のような柔らかく、けれど頑丈な無数の牙が食いついた。

「あっ」

 エージェントは小さな声を漏らす。このまま全身が食われると思ったとき、後ろから抱きしめられた。

「っ」

 ヴァシリオスがエージェントを抱きしめると同時にケートスが大きく首を横にふり、肉と骨が折れる音が響く。

 ぶちり、と肉が飛び、血が溢れる。

「ああああああああああああっ」

 ほとんど本能のままエージェントは悲鳴をあげる。今までのどの痛みとは違うものが全身に広がる。

「急いで再生を」

「っ、……しようとしてる、けど、できない。くぅ」

 激痛に暴れるエージェントを抱えて、ヴァシリオスは自分の上着をとると血の噴き出る左腕にあてた。

「再生できないなら血を、血をとめろ。このままだと、出血死するぞっ」

「あ、あああっ」

 力なく声を漏らし、必死に胸の中に崩れるエージェントをヴァシリオスは抱えて少女を見る。

「……エレウシスの秘儀……怒りで暴走したか」

 何も言わず、ただ見つめる少女にヴァシリオスはすぐに決意する。

 彼はためらいなく、敵に背を向けて逃げ出した。

 もうすでに力のほとんどは奪われたヴァシリオスにはこれ以外の方法でエージェントが死なない方法を思いつかなった。

 こんなみっともないことまでして生きようとする。

 なにもかも諦めたくせに今更。

 背後から迫ってくるケートスの牙に奥歯を噛みしてヴァシリオスが覚悟を決めたとき

「しっかり抱えてろ。大馬鹿者っ」

 怒気を孕んだ声に振り返れば、黒馬が迫り来るケートスを容赦なく前足で頭を砕いて身を翻したと思えばヴァシリオスの首根っこを掴んで背中に投げた。

「マスターを離すなよ。離したらお前を殺すからなっ」

「お前、彼女の相棒の」

「アリオンだ!」

 噛みつくようにアリオンは叫び、地面を蹴めと大きく飛躍し、手前のビルの上へと逃げるとさらに宙に舞うように駆ける。それでも乗り手が落ちないように細心の注意を払っているのだろう。でなければ瀕死の自分も彼女も今頃落ちていたはずだ。

 ヴァシリオスは振り返る。

 真っ白い少女が静かに目を伏せる。

 ――きれいなままでいれたら、どんなに良かっただろう

 祈るような声がヴァシリオスの鼓膜をひっかいた。

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