2.羊さんたちとマジョーノイ。
仕事も順調、パイロット稼業も問題は無し、何より恋愛も上手く行っている。伝は向かいの席に座るマジョーノイを見ながら、幸せな気持ちに浸る。
だが、対面に座るマジョーノイは、伝と知り合ってから未だかつて無い葛藤に襲われていた。
あんなにふわふわもこもこした羊さんたちを食べるだなんて!
マジョーノイは先ほどまで一緒に戯れていた、羊たちのことを思い出す。思わず『さん』を付けてしまうほど、メェメェ鳴く白いもこもこをマジョーノイは気に入ったらしい。
これは、どういう仕打ちなのかしら?伝は何かを企んでいるの?それとも、これは地球人の蛮行なの?
熱せられたドーム型の鉄鍋の下部に、野菜が敷き詰められる。ニンジン、もやし、キャベツ、玉ねぎ、ニラ。じゅうっという音とともにそれらは、湯気を発する。間髪入れずに伝は、鉄鍋の上部に肉を並べる。
これがあのかわいい羊さんたちかと思うと、マジョーノイは気が遠くなりそうだった。
野菜の蒸気に蒸された肉は、次第に色を変えて行く。それは、食べごろを教えるサインでもあった。
「さあ、どうぞ!」
伝に促され、箸を持つマジョーノイの手がぴくりと動く。特に肉料理には抵抗のないマジョーノイだったが、今回はあまり動きたがらない箸と気持ちを、伝に悟られないよう、必死である。
何とか箸で肉を掴むと、受け皿のタレにつける。マジョーノイの中ではそれは、かわいそうな羊さんをタレの沼に突き落とすような気持ちだった。
意を決してマジョーノイは、肉を口に含む。そして噛みしめたとたん、彼女の中で元気に羊さんたちが飛び跳ねた。
癖がなく、臭みのない肉の旨味。それは噛むごとにマジョーノイの口に広がり、また、彼女の中で元気な羊となって飛び跳ねた。上品な油は舌を優しく包み、彼女はまるで柔らかな羊に包まれているかのような気持になる。優しく絡むタレは、けして沼などではなく、源泉かけ流しの温泉のようだ。彼女にはその温泉にメェメェつかる、羊の姿が見える。
美味しかった。
もう一つ、口に含む。二口目に感じる旨味は、疑うべくも無かった。
ほぼ無意識に、マジョーノイの手は、テーブルに置かれたジョッキへと動いた。これも伝と知り合ってから彼女が覚えた、ビールという飲み物であった。
ビールはのど越し。
伝の言っていた言葉を、マジョーノイは再確認する。
本当はまだ口の中に留めておきたい肉の旨味を、ビールはのど越しとともに連れ去っていく。ということはまさか、もう一度あの肉の旨味の感動を、一から味わえてしまうのか?
マジョーノイの箸が進む。
三度目の肉に彼女が感じたのは、ビール越しの再会であった。想像していた旨味が、羊さんが、そこで彼女を待っていた。
肉がこれほど美味しいということは。
眼鏡を直しながらマジョーノイは、箸で野菜をまとめてつまみ上げる。軽くタレをつけると、口に含んだ。
やはり。
肉の旨味を身に纏う野菜の、なんと美味しいことか。マジョーノイは己が推理の正しさを身をもって確信した。
再びビール。
肉、野菜、ビール。何度となく繰り返されるそれらのループ。マジョーノイは羊と野菜とビールが、手を繋いで自分の周りをくるくる回っているような錯覚すら覚える。
そのとき、彼女は、はっと気が付いた。
罪悪感が、消えている。
肉の美味しさに忘れてしまったのか?それともビールが流し去ってしまったのか?
いや、違う。
これは最初から想定されていたのだ。あの愛らしい羊さんを食べる。それは、自分が生きていくために、あの愛らしい羊さんを食べるという行為。そうして、命は巡り、また繋がって行く。そうだ、きっとこの美味しさの連鎖は、わたくしに命の大切さを教えているのだ。
感動し、潤んだ目で伝を見つめるマジョーノイ。
伝はわたくしに、それを伝えたかったのですね?
思ってか思わないでか、マジョーノイとの食卓を嬉しそうに堪能する伝であった。
○
マジョーノイ秘書官を見習って、もっと地球人のことを知ろう。
勝利の鍵は地球人を良く知ること。この妙な風潮はゼールズ太陽系方面攻略支店上層部でにわかに湧き上がり、現在、そのエキスパートと思われるマジョーノイに習おうということになった。白羽の矢が立ったのはギックーとリゴッシである。
で、ギックーとリゴッシはここ、日本にいた。
「分かってはいたけど、怖いよ兄さん」
アリアーシラの使う光学迷彩と同じもので髪を黒く見せている二人。だが大き過ぎるリゴッシのスーツ姿は、街並みに馴染んでいるとは言い難い。
「うむ。地球人は我らの戦闘服を日常的に仕事の際、着ているとは知っていたが、流石にこの量は恐怖を感じる」
通勤時のオフィス街で、大量のスーツ姿のサラリーマンに囲まれながらギックーは言う。彼らにはサラリーマンが、大量の戦闘員に見えてしまう。
「兄さん、なかなか僕らが地球に勝てない理由が、ここにあるんじゃないかって気がして来るよ」
「そうだな、この風景は心臓に悪いな」
日頃から、ギックーの所属する地球攻略推進部には、厄介な仕事が多い。地球攻略などと名称が付いているせいで、地球関係の雑ごとを持ち込む輩が多いからだ。
無駄にドキドキさせられる光景を見ているうちに、段々ギックーは腹が立って来た。
「大体なんだ、見習って、もっと知ろう?具体性がない!物事というのは、もっと具体性がなければならない!もっと具体的に、何をどうするかの指示が出来ていなければ企画などと呼べるか!あやふやすぎるのだよ!標語か!標語作って仕事出来た気分になってりゃ世話ねえな。やれっていうならこうやれって具体的に指示しろ。こうしろって教えろ。現場に投げるな。本人の自主性とか言って、体よく現場に投げるな!」
いつの間にかギックーとリゴッシの周りに、人垣が出来ている。ギックーの熱弁が終わると、拍手が巻き起こった。
「兄さん、何だか優しい人たちだね」
「そうだな、何だか同じ思いを持った戦友のような気持ちがする」
笑顔で拍手に答える二人。そんな二人を遠目に見る、通学者。
「見なかったことにしよう」
ぽそりと呟いて、樫太郎はカケルの腕を引く。
「あれ?あの二人、あれ?」
引かれながらカケルは、ギックーとリゴッシを指差す。
「良いから、見なかったことにしろ。面倒だ」
「あっ!あなたたち!」
ギックーとリゴッシに聞こえるくらいの声を出してしまうアリアーシラに、樫太郎は舌打ちする。案の定、アリアーシラに気が付いたギックーとリゴッシは、「姫様ぁー!」と言いながらこちらに近づいてくる。
「姫様!ご無事でしたか!」
「お元気そうで何よりです」
「どうしたのですか、二人とも、こんな所で」
アリアーシラの問いに、ギックーはため息を吐く。
「施策で、地球に頻繁に行き来しているマジョーノイを見習って、地球を見学して来いとのことになりまして」
答えるギックーに続くリゴッシ。
「マジョーノイ秘書官の行動範囲の近辺に来てみたら、姫様に会った次第です」
「マジョーノイの行動範囲?」
伝のことを思い出して、嫌な汗をかくアリアーシラ。
「おおっ!お前は!」ギックーがカケルに気が付く。「勇敢で優しいパイロットの少年ではないか!」
「先日は——」とぺこりと頭を下げるカケル。
「君がここにいるということは——」鞄で顔を隠す樫太郎を覗き込むギックー。「忘れもしない君はもしかして」
ひょいっと、リゴッシが樫太郎の鞄を取り上げる。「ああっ」と鞄を取り返そうとする樫太郎に、ギックーは確かに見覚えがあった。
「あのときの眼鏡!」
「うわーっ!ごめんなさい!」
慌てる樫太郎に鞄を返し、いきり立つギックーを抑えるリゴッシ。
「まあ、終わったことだし。大した銃の腕だったよ、パーチ君」
「あのさぁ」鈴がアリアーシラに声を掛けたが、伝とマジョーノイのことで絶賛思考混乱中の彼女からは、満足な返答が得られない。
「ねえ」鈴は対象をカケルに切り替える。「あたしにも説明してよ」
「長くなるよ」
「一限目、間に合わないくらい?」
「二限目には、間に合いたいな」
カケルはカリッと、ラムネを口に含んで噛んだ。
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