第93話 水底のデスパラダイス⑤
リヒトはすぅっと小さく息を吸った。
<シルフィードよ。この場に留まり渦と化せ>
<ウンディーネよ。我が祈りに応じて形を変えよ>
数本の太い風の柱が、吸い込まれるように水へ降りた。
その途端、今まで穏やかだった水面が騒ぎ出す。
足元が不規則に盛り上がり沈み、バランスを上手く取らないと倒れてしまいそうだ。
ザァアアアア!
その光景にあたしは唖然とする。
湖に大きな穴が出現しただと!?
いや。水を押し広げて、空間を作ったんだ。
うわぁ、ぞっとする。
こいつと本気で戦う時があるかもしれない。アニマドゥクスの対応策が必要だ。
現時点で、全く必要がない対抗策に思考を巡らせていると、リヒトがこっちを向いた。
思考がこいつの暗殺に向かっていたので、思わずドキッとする。
ばれてないよなと、思わず視線をそらすと、彼は少しだけ首を傾げた。
「なんだ?」
「べつに」
もう一度視線を戻すと、リヒトは額や頬に汗の粒を浮かばせ、やや疲労した表情をしていた。
睨んでいる瞳も、若干の倦怠感を含ませている。
そうだよな。疲れるよな。
あたしは心の中で、ごめんと謝った。
「魔王はこの真下にいる。内部の結界も貼ったから、魔王は外に逃げられない」
色々ツッコミしたかったけど、頷くだけにした。
「三つの竜巻がぶつかって、水を押し広げて空間を創りだしている。刃陣は入っていないから、中に入ってもズタズタにはならない」
「ふむふむ」
「完全な無重力ではないが、それでも重力は極端に少ないだろう。お前の運動神経なら、自由に動けるんじゃないか?」
「分かった」
「もう一つ。補助二つを同時に使って、崩れないように維持をしている。術に支障をきたすため、何か不測の事態があっても、攻撃をすることは出来ない。自分でなんとかしろ。死体が浮かんだら、放置してそのまま帰って寝る」
「どうぞご自由に」
穴へ向かって歩みを進めると、「あと……」と、リヒトが小さく続ける。
「なに?」
「日の出までには決着をつけろ。無理そうなら、仕切り直しする」
なんだよ、今日は少し優しいじゃないか。
あたしは思わず笑った。
「気遣い感謝。じゃぁ行ってくる」
あたしは駆け出した。
一度だけ後方を振り返ると、リヒトは難しそうな表情をしている。
あたしが思っている以上に、体力なり気力なりを消費するのだろう。術の維持のため、今も力を出し続けているに違いない。
そうか。
攻撃が瞬発、補助が持続と言うことか。
となれば、作用が逆なので、同時に発動したくても、制御が難しいということだろう。
瞬発よりも、維持がしんどいのはわかる。
あたしも技の中で、維持がとても難しく、現在も未収得だ。
そんな事を考えながら、水の縁からダイブして、あたしは湖の中へと落ちた。
突風が下から上へ吹き上げており、急落下はしなかった。
ぽっかりと空いた湖の穴は、直径が約十メートル。
戦闘出来るように配慮されているのか、思った以上に広い空間が作られていた。
あと、薄暗いどころじゃない。夜目が利いてもほぼ暗黒だ。殆ど何も確認できない。
真っ暗の中を降下していくのは、正直心臓に悪い。
このまま海底に激突するのではないか、と、不安もよぎる。まあ、単なる落下とは違う感触が、全身で感じ取れるのでパニックにはならない。
緩くて儚い足場がそこら中にあり、体にバシバシ当たる。
空気の塊を足場にしろ、ってことだろう。
水を押し広げている風は、乱暴で不規則だが、すぐに慣れてバランスを保てるようになった。
風の塊を足場にして、落下の速度を殺していく。
耳元で、びゅうびゅうと、鳴る風が、周りの音をかき消す。
幸いにも、落下中に敵はいなかった。
ものの数分で、あたしは海底に着地した。
空気の流れと勘で、着地すると、湿った砂地にブーツに沈む。
夜間訓練のおかげで、なんとかなったけど。
距離感掴みにくいから、明かりなしは自殺行為だ。
ともあれ、無事に着いてホッとした。
どのくらいの高さから落ちたんだろうと、何気なく見上げると。そそり立つ黒い水の壁しか分からなかった。
少しだけ恐怖を覚える。
今、術が切れたら水圧で即死だなー。
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