第3話
伏見兄妹曰く、マヨイを倒すには己の中にある迷いや不安、恐れを完全に断ち切ることが重要なのだという。
「迷いや不安、それに恐れ? それを完全に断ち切るっていっても、どうやって断ち切るんですか? 専用の武器とか道具とか、あるんですか?」
夕美が尋ねる。彼女はロールプレイングゲームが大好きなので、マヨイを倒すにはそういった物が必要だと思ったらしい。妖怪を倒すのだから、そういった物は必要だろう――透真も同じ意見だった。
「確かに。そういったものはないんですか?」
「そういう物があるかと言われれば、ある。ただ、取りに行くのが非常に難しいんだ。許可もいるしな」
「あれはいよいよという時でなければ、使ってはいけないということになってるんだけど。今回は使わないといけないかもしれないわね……複数体いるし」
桐子たちの口ぶりから推察するに、それは滅多なことでは使わないものであるらしい。だから、それを使うのには許可がいるし、安置されている所まで取りに行くのが難しいのだろう。
「それは一体、どういうものなんですか?」
彩瀬は口を開いて何かを言いかけたが、口ごもってしまった。他の者たちも、どこか気まずそうにしている。何かまずいことを言ってしまったのだろうか? 透真たちは顔を見合わせた。
五人が黙り込んでから、果たしてどれくらいの時間が経過しただろうか。ほんの数十秒間のことだったかもしれないし、一時間はゆうに超えていたかもしれない。どちらにしても、透真たちにとっては永遠とも思えるような時間である。
重苦しい空気が支配する中、口を開いたのは桐子だった。
「どういうものかと言われると……それは私たちにもよく分からないの。今まで使ったことがないから、見たことがないのよ。あるっていうのを、聞いたことがあるだけ。分かっているのは使うには許可がいることと、取りに行くのがとても難しいということ。それだけ」
それはあってないようなものではないか。透真はなんだか肩透かしを食らったような気分だった。それは姉妹も同じだったらしく、二人とも呆れた様子で五人を見つめている。
再び気まずい沈黙が落ちた。
五人がどうすべきか話し合っている最中、透真はマヨイを生んでしまった原因を考えてみる。
あれを生んだのが己の中にある迷いや不安だとするのなら、やはり父親や家族との関係だろう。それ以外に思い当たる節がない。姉妹に関しても、やはり家族――特に祖父の言動に悩まされている。他には継母に関すること。本当は邪魔だと思われていないかという不安が常に付き纏っている。それが、彼女たちがマヨイを生んでしまう原因となったのだろう。
「……それについては心配いらないよ。俺のばあちゃんなら、きっとそれについて詳しく知ってると思うからさ。ああ、ばあちゃんは猫又一族を束ねる長老で、めちゃくちゃ物知りなんだ。俺なんか到底、足もとにも及ばないくらい凄い」
大河曰く、今回の件はその祖母が一番最初にマヨイの存在に気がついたという。
「そうだな。八千代さんなら何か知っているだろう。なにせ、この町が出来た頃から生きているんだから。明日にでも聞きに行ってみた方がいいな」
「根津さん、俺もそう思います。本格的に対策を練るのは、それからでも遅くはない。相手は複数体ですから」
「それじゃあ、決まりだな。明日、俺ん家に三人を連れてくるってことで。あ、なるべく早く来た方がいいかも。ばあちゃん、最近居眠りしてることが多くてさ。午前のうちなら起きてるから」
「桐子、案内にはお前が行っておあげなさい。店の方は兄さんと私で何とかしますから」
桐子は心得たと言わんばかりに頷く。
透真たち三人を置き去りにして、五人の話はどんどん進んでいく。まるで三人の存在そのものを忘れてしまっているかのようだった。
「あの、すみません!」
朝美の呼びかけで、五人はようやく話を止め、三人の方を見た。鋭い視線を一身に受け、朝美は思わずたじろぐ。
「あの、私たち、帰るまで何処で寝泊まりすればいいんでしょうか? ホテルとか、旅館とか……そういう場所はありませんか? なければ、その……」
野宿、という単語が透真の脳裏をよぎる。だが、この五人が行く当てもない者たちを見捨てるようには見えなかった。
「それについては心配いらない。この店の二階に使っていない部屋がひとつある。帰るまではそこを使うといい。掃除はこまめにしてあるから、安心しろ」
「この場所はもともとそういう場所なんです。マヨイの生み主を保護して、助けるためにあるんですよ。だから、野宿しようなんて危険なことは考えないでくださいね。マヨイは生み主が一番無防備な睡眠時を狙いますから」
兄弟の発言は、まるで三人の考えを見抜いているかのようだった。
「じゃあ、俺は帰るよ。ばあちゃんに今日のことと、明日のことを話しておかないといけないからさ。三人とも、マヨイに食われないように気をつけな」
「あら、それは私たちがいるから大丈夫よ。心配しないでちょうだい。三人のこと、絶対に守るんだから」
おお、怖い怖いと言いながら大河は休憩室を後にする。
彩瀬と涼音は仕込みに戻っていく。根津は彩瀬に予約の弁当を配達してほしいと頼まれて、兄弟に続いて休憩室を出た。
「根津さんって、このお店で働いているんですね」
「毎日ってわけじゃないけどね。店が忙しくて、私たちだけじゃどうにもならない時に来てもらっているのよ……さぁ、二階に案内するわ。ついて来て」
※
透真たちが案内された部屋は、道路に面した十畳ほどの和室。部屋の中央に卓袱台と座布団が置かれている以外には、壁に古びた時計がかかっているくらいで特に何もない、殺風景な部屋だった。
確かに彩瀬の言っていた通りこまめに掃除はされているようで、空気は澱んでいないし、埃も溜まっていない。
桐子が窓を開けると、爽やかな風が部屋に吹き込んでくる。
「今日からしばらくの間、ここがあなたたちの部屋よ。ちょっと狭いかもしれないけど、我慢してちょうだいね。本当にごめんなさい、ここしか空いてなくて」
「いえ、寝泊まり出来るところがあるだけで充分です! 本当にありがとうございます」
「布団は押し入れの中に入っているわ。それじゃ、後で来るからそれまでゆっくり休んでいてね」
そう言い残し、桐子は兄たちの手伝いをするために急いで階下へと降りていく。
残された透真たち三人は何をするでもなく外を眺める。スマートフォンは通信不可能だし、写真を取ろうとしても、何故かカメラが動かない。だから外を眺めるくらいしかすることがなかった。
窓の外から広がる景色は、人間の世界とほとんど一緒だった。眼下には商店街があり、その先には住宅地が広がっている。
「妖怪しかいないっていうけど、こうして見てみると町の雰囲気は私たち人間の町とほとんど変わらないわね。ちょっと時代が古いけど」
「やっぱり本当のことだったんだね、おばあちゃんが言ってたこと。妖怪たちしかいない町って、嘘じゃなかったんだ」
空は既に濃いオレンジ色をしており、遠くからカラスの鳴き声や住人たちの話し声が聞こえてくる。
透真が古びた壁掛け時計を見上げると、時計の針は午後六時半ちょうどをさしていた。
そう言えば、伯父たちは今頃どうしているだろうか? 透真は上条家のことが心配になった。午後五時半には帰ってくると言って姉妹と一緒に家を出た。今午後六時半ということは、約束した時間から一時間は経過していることになる。なかなか帰ってこないので、心配しているのではないだろうか?
「マヨイを倒すまではあっちには帰れないって、あの人たちは言ってよな?」
「うん、そうだね」
「奴らを倒すのなんて、一日や二日で終わるような簡単なものじゃないだろう? 伯父さんたち、今ごろ心配しているんじゃないかな。俺たちが帰ってこなくて」
その言葉に、姉妹は深くうなだれる。
「そうなのよね……父さんは心配してると思うよ。きっとね」
「でも、おじいちゃんと義母さんはどうなんだろうね……心配してくれてるのかな? 分からないわ」
二人がそう思うのも無理はない。透真には彼女たちの気持ちが痛いほどよく分かる。
「じいちゃんはともかく、伯母さんは心配してくれてると思うよ。だからあんな奴らさっさと倒して、早く帰ろう」
「うん、そうだね……」
「倒す? お前たちが私たちを倒すなんて出来ないよ。不可能だよ、そんなこと。出来っこないよ、絶対に。ヒヒヒヒッ!」
気味の悪い声と共に、開け放たれた窓から突然、マヨイが一体顔を覗かせた。真っ黒い顔の中にある白い眼と口が歪んでいる。
いきなり現れたマヨイに姉妹は同時にかん高い悲鳴を上げると、慌てて窓の傍から離れ、部屋の隅に逃げる。透真は悲鳴を上げるのをどうにかこらえ、姉妹を守るためにマヨイの前に立ちはだかる。
「な、なんでこんなところにいるんだ! お前たちは根津さんが足止めしたはずなのに!」
「ヒヒヒヒヒ、あんな弱々しい結界なんて、長時間効くわけがないだろう。あの案内人も馬鹿だよなぁ、こうなることは分かっていただろうに」
「本当にそうだよね、馬鹿みたい。ヒヒヒ」
残り二人のマヨイが笑いながら姿を現した。三人が最初に見た時よりも、格段に色が濃くなっている。
マヨイたちが部屋に足を踏み入れようとした、まさにその瞬間。桐子が物凄い速さで間に割って入った。
「こうなることはお見通しよ。この三人に危害を加えるなんてこと、私がさせないわ。しばらく動けないように、強い結界で封じ込めてあげるから」
「き、貴様ァ! 謀ったな! この私たちを陥れようとは、何とも小賢しいことをしてくれる、許さんぞ!」
「それはこちらのせりふだ。下等な妖怪風情が、私たち空狐に盾突くことなぞ百年早いわ!」
二度も邪魔されたことにマヨイたちは怒り狂い、凄まじい叫び声を上げる。透真たちはその大音声に耳を塞いだが、焼け石に水。全く効果がない。
その一方で、桐子は平然としている。彼女は何事かを唱えると、マヨイたちを指さした。するとあれだけうるさかったマヨイたちが一瞬、静かになった。が、今度は喉を押さえて苦しみ始めた。
「貴様、一体なにをする……ぐッ、や、止めてくれ!」
「く、苦しい……喉が焼けそう……痛い、痛い! 今すぐ止めてちょうだい!」
しばらくマヨイたちはもがき苦しんでいたが、桐子が指さすのを止めたと同時に跡形もなく消え失せてしまった。
部屋に再び静寂が訪れる。僅かに聞こえるのは、透馬たち三人の荒い息遣いだけ。
桐子が急いで窓とカーテンを閉めて透真たちの方に向き直る。しかし、カーテンの隙間から漏れる夕陽のせいで、透真たちのいる側からは彼女の表情はうまく読み取れない。
「ごめんなさい、怖い思いをさせてしまったわね。もうここにあいつらが来ることはないわ。大丈夫よ」
ここならマヨイたちは来ないから絶対に安全だと、涼音は確かにそう言っていた。それなのに、何故マヨイたちはこの店に近づくことが出来たのか。結界に守られているのではないのか。嘘をつかれたようで、透真は無性に腹が立った。
「なんであいつら、ここに来れたんですか? ここなら大丈夫だって……安全だってそう言ったじゃないですか」
非難めいた透真の言葉に、桐子は申し訳なさそうに頭を下げる。
「マヨイたちの力を少しでも削ぐために、わざと結界を弱めておいたの。本当にごめんなさい。私がちゃんと奴らの力を削いで、結界の強さをもとに戻しておいたから。ここにいる時は絶対にあいつらは近寄ったりしないわ」
「信じていいんですか? それ? 嘘じゃないですよね」
「嘘じゃないわ、本当よ。信じてちょうだい」
真剣な眼差しに、透真たちはそれ以上何も言えなくなる。頼れる者は他にいなかった。だから今は彼女を信じるしかない。
それから三十分後。
卓袱台の上には山のような食事が並んでいた。そのどれもが階下の惣菜屋で作られたものばかり。全体的に揚げ物が多いような気もするが、透真たちはあまり気にならなかった。それくらい疲れていたし、空腹だった。
夕食には仕事を終えた根津が同席してくれた。仕事後で疲れているのか、透真には昼間よりもくたびれた感じに拍車がかかっているように見える。顔に生気が見られない。
食事は今まで食べた物とは比べものにならないくらい美味しく、特に茶碗蒸しが絶品だった。祖母の言っていた通り、この店の物は美味しいと、透真たちは感心する。
「根津さん、聞いてくださいよ。実はさっき……」
皿の上の料理が半分ほどになった頃、朝美が例のマヨイたちの事を根津に話した。彼はイカの刺身をつつきながら、口を一切挟むことなくその話に耳を傾ける。なので、朝美は調子に乗ってどんどん話す。根津の表情が険しくなっているのにも、透真や夕美が止めろと目配せしたり、脇腹を小突いてみても気づく気配すらない。
やがて根津は刺身を食べるのを止め、やや乱暴に箸を置く。それでようやく、朝美の話が止まった。彼が苛立っているのに気がついたのだろう。朝美の顔がサーッと青くなり、身体が小刻みに震えだす。
「朝美さん。彼女のこと、どうか悪く言わないでくれないかな。結界を勝手に弱めて黙っていたことは、確かに悪いことだ。だけど、君たちをもとの世界に返すのに彼女も必死なんだ。それだけはどうか分かってあげてほしい」
根津の静かな怒りに、朝美だけでなく透真と夕美もすくんでしまう。
「は、はい……すいませんでした。もう言いません」
「うん。それならいいんだ。ほら、冷めないうちに食べなさい。せっかくの食事が不味くなってしまうよ」
透真が風呂から上がると、既に布団が敷かれていた。
先に風呂から上がっていた姉妹は布団の上に寝転んで、タオルケットもかけずにうとうとしていた。透真は唯一空いていた窓際の布団に陣取ると、彼女たちと同じように横になる。
今日は本当に色々あった、と透真は思う。次から次へと、有り得ない事ばかり起こる。まるで、夢の中で起こった出来事としか言いようがない。
そうだ、これは夢なんだ。俺は今、夢の中にいるんだ。だから有り得ない事ばかり起こるんだろう。目が覚めたら、きっと上条家の母さんの部屋だ――
透真は急いで目を瞑り、勢いよく目を開く。
しかし、目の前に広がるのは見慣れた母の部屋の天井ではなく、妖狐の営む惣菜屋の一室のシミだらけの天井だった。これが夢ではなく現実だと思い知らされ、透真は酷く落胆した。
「はぁ……やっぱり夢じゃなかったか」
「ねぇ、透真、何か言った?」
「いや、何も言ってない。それより夕美、タオルケットをかけずに寝たら風邪ひくぞ。朝美もな」
はーい、と眠たげな返事をひとつして、姉妹は勢いよくタオルケットを自身の身体に巻きつけた。程なくして二人の静かな寝息が聞こえてくる。
明日からどうなるのだろうと一抹の不安を抱えながら、透真も眠りに落ちていく。環境が違うせいなのか、透真は珍しく夢を見た。
※
「これは一体どういうことなんだ? え? なんだこの進路調査票は。何故、美術大学や芸術大学ばかりなんだ?」
テーブルの向かいに座る父から突き出された用紙――進路調査票には第一希望から第三希望の大学まで全て芸術系の大学で埋まっていた。絵の勉強をしたいがために、そう書いたのだ。他の進路――特に教師など、今の透真にはとても考えられない。
「おい、透真。黙っていないで何か言ったらどうなんだ?」
「……俺、絵の勉強がしたいんだ。だから、芸術系の大学ばかり書いた」
父親の表情がほんの一瞬、怒りに歪んだ。が、すぐにもとの表情に戻る。
透真は知っている。父親がどう思っているのか。
芸術に触れることは大事だと言いつつも、本心は全くそう思っておらず、画家や音楽家といった芸術に関する職業を見下し、酷く軽蔑している。そして、もしも子どもたちがそのような下賤な職業に就きたいと言い出したら勘当してやると親戚中に言いふらしていたことも。全て知っているのだ。気づかれていないと思っているのは、当の父親のみ。
「お前は美術科の教師になりたいのか? そのために、第三希望まで全て美術や芸術系の大学を書いたんだな?」
父親は自分の都合のいいように解釈している。そんな父親に、透真は心の底から腹が立った。この世のどこに子どもの職業を勝手に決める親がいるだろうか?
「悪いけど、俺は教師にはならないよ。どうしても絵の仕事がしたいんだ」
「ふざけるな! うちは代々教育者を輩出してきた家系なんだぞ? お前はそれに泥を塗るつもりなのか! 父さんが恥をかいてもいいのか、この親不孝者めが! 不安定な職にだけは就くなと口を酸っぱくして言っていたのに!」
父親は怒鳴ると、調査票をぐしゃぐしゃに丸め、透真に向かって勢いよく投げつける。
「……ふざけてんのはどっちだよ! 親が子どもの職業を勝手に決めるなんて、どう考えたっておかしいだろ! 有り得ないよ、こんなこと」
「親に向かってその口の聞き方は何だ! お前のことを思って言ってるんだぞ、それが分からないのか? 父さんは絶対に認めないからな、考え直せ!」
「考え直すも何も、俺は教師になるつもりはないって言ってるだろう! そっちの意見ばかり押し付けないでくれよ!」
父親は顔を真っ赤にしながら、今度は自身の隣に座る妻――透真の母親に向かって怒鳴り散らす。
「透真がこうなったのは全てお前の教育が悪いからだ。お前がもっとしっかりしていれば、こんなクズに育つこともなかっただろうに。お前の責任だからな!」
父親の罵詈雑言に、母親はただただすいませんと謝るばかり。透真の隣に座っている兄は止めるわけでもなく、面倒くさそうにしている。
母親が父親に意見したことなど、透真はほとんど見たことがない。夫の言うことに唯々諾々と従う様はまるで操り人形のようであり、夫に何も言い返せないそんな母親を透真はいつも歯痒く思っていた。
――あの人に意見したり、考えを否定しようものなら何をされるか分かったものではないわ。だから、従うしかないのよ。言っていることが間違っていたとしてもね。
と、母親は常日頃から透真や兄にそう言い聞かせていた。それこそ、耳にタコが出来るほど。
そんな母親は一度だけ、父親に意見したのを透真は見たことがある。それは兄に関することで、内容は透真と同じく進路調査について。その時透真はたまたまその場に居た。
こういう大事なことは家族全員で話し合うというしきたりのようなものが桂木家には存在し、何を置いても必ず参加しなければならない。
あの時も今回と同じように、兄の進路のことで揉めていた。彼の偏差値であればもっといい大学に進学出来るのに、父親は自身や一族が多数在籍していたという理由で、兄の希望している大学や学校が奨める大学よりも数ランク下の大学を奨めてきた。ここなら、父さんが口利きしてやるから、と。要するに裏口入学させてやるから進路を変えろということである。
流石にこの時ばかりは母親も怒った。怒って当然である。自分の息子を裏口入学させるなど、一番愚かで最低な行為だし、そもそも教師がしていい発言ではない。
――そんな卑怯なことをしなくても、この子の実力ならもっといい大学に入れます! 教師の端くれともあろう人が、何てことを言っているんですか! ふざけたことを言わないでください!
――し、しかし……俺はこの子のことを思ってだな……
――裏口入学させることのどこが、この子のことを思っているんですか! 発覚したらどうするんですか?
この時は珍しく父親が折れた。兄は第一希望の大学に無事合格し首席で卒業、今では母校の中学校で数学を教えている。
兄の時は思う通りにいかなかったので、今度こそと父親は思っているのだろう。だが、透真は父親の言いなりになるつもりは微塵もない。
「誰が何と言おうと、俺は教師にはならないよ。親の言いなりになるなんて、ごめんだからね」
「父さんの言うことを聞けないのなら、この家から今すぐ出て行け! ……はぁ、こんな出来損ないのクズなんて、存在しなければ良かったのにな。お前は失敗作だ、我が一族の面汚しめ」
存在しなければ良かった、失敗作、面汚し。
その言葉の数々に、透真の堪忍袋の尾が切れた。
透真はキッチンから包丁を持ち出すと、母親と兄の制止を振り払って、父親目がけて包丁を振り上げ……。
※
「放せっ、放してくれ……!」
自分の声で透真は目を覚ました。消すのを忘れてつけたままにしていた蛍光灯が眩しい。
「なんだ、夢だったのか……」
あの時兄が包丁を取り上げていなかったら、本当に父親を刺し殺しているところだった。でも、そうしたくなるくらい、父親の言動には腹が立っていた。
そしてあの一件から、もともと冷たかった父親の態度は更に冷たくなり、会話もなくなった。それから何かにつけては失敗作だの死んでしまえだのと言ってくる。母親も兄も、止めてくれない。
そんな父親に耐えかねて母親の実家に逃げてきたというのに、向き合わなくてはならないとは。とことんツイてない、と透真は自分の運命を呪った。
「本当、ツイてないよな。俺って……」
蛍光灯の灯りを消し、透真は再び目を閉じる。今度は夢を見ることはなかった。
※※
「何故、この家には将来の跡取りとなる男子がいないのだろうな? 女ばかり二人も……しかも双子ときている。何とも汚らわしいことだ。あんな女、しかも双子を産むような嫁など、死んで当然だったな」
祖父が朝美と夕美に向かってそんな事を言ったのは、彼女たちの実母の葬式が終わったその日の、夕食の席でのことだった。
姉妹は祖父が何を言っているのか、一瞬、分からなかった。ひとつだけ分かるのは、祖父は自分たちの母親の死を喜んでいるということだけ。
「父さん、子どもたちの前で何て酷いことを言うんだ、止めてくれないか! 妹たちも来ているんだぞ?」
夕食には祖父母や父親の他に叔母夫婦と従兄たちも同席していた。従兄たちはきょとんとしていたが、叔母夫婦は気まずそうに祖父から目を逸らしている。
「あなた、そんな事を仰らないでくださいな。一番辛い思いをしているのは、朝美と夕美なんですよ? こんなに早くに母親を亡くして……そんな子どもたちにかける言葉がそれですか。本当に情けないですよ、私は」
祖母の言葉に、祖父はそれ以上何も言わなかった。決まり悪そうに黙り込み、再び食べ物を口に運ぶ。
それ以降、祖父が朝美と夕美に対して嫌味を言うことはなかった。少なくとも、父親が再婚して弟の優太が生まれるまでは。
優太が生まれてしばらく経った頃、祖父は朝美と夕美に対して信じがたいことを口走った。
「これで跡取りについては心配いらないな。お前たち二人は中学を出たらすぐに働け。そして、十六になったら結婚してさっさとこの家から出ていけ。お前たちのような女など、無価値だからな。住まわせてもらっているだけありがたいと思えよ」
祖父が継母に抱かれている優太の顔を見ながら言い放ったその言葉に、その場にいた全員、開いた口が塞がらなかった。特に大人たちは、この期に及んでまだそんな時代遅れなことを言うのか――と言いたげな表情をしている。
そんな中、ぐずる優太をあやしながら、継母が祖父に抗議した。
「お、お義父さん……それはいくらなんでもあんまりじゃありませんか。酷いですよ。朝美ちゃんと夕美ちゃんが可哀相です。中学を卒業したらすぐ働いて、結婚して家から出ていけだなんて。一体、いつの時代の話ですか」
「そうだよ、父さん。どうして二人を厄介者扱いするの? それに今のご時世、高校を出ても就職するのに難儀するっていうのに、中学を出てすぐに働けというのは……」
父親もそれに同調して抗議する。
「女なら身体を売るなり何なり、いくらでもやりようがあるだろう。それに女に学なんていらん! あの女みたいに、東大だかなんだか知らんがいい大学を出たからと言って偉そうにされても困るからな。さっさと結婚して、子どもを生めばいいんだ」
「あなた、何てことを言うんですか! その発言、今すぐ撤回してください! そして、朝美と夕美に謝罪してください」
祖母は怒ったが、祖父は意にも介していないようだった。謝ろうともしない。
その時からだった。朝美と夕美が、自分たちの存在を否定する祖父に殺意を覚えたのは。
二人を守ってくれていた祖母も、彼女たちが高校に上がる一年前に亡くなってしまった。それから祖父の態度は悪化の一途を辿っていった。
「儂があれほど言ったのに、高校にいくとはどういうことだ! 中学を出たらさっさと働けと言っただろう、このっ、――穀潰しどもめが!」
祖父は亡くなった祖母に見せるために仏間に飾ってあった朝美と夕美の制服をハンガーから引きずり降ろすと、足で乱暴に何度も踏みつける。
「止めて! お願いだから止めて!!」
「うるさいっ! 邪魔だ!」
老人とは思えないほどの力で、朝美は仏間の壁に叩きつけられる。
薄れていく意識の中で聞こえてきたのは、祖父の高笑いと継母と妹の悲鳴だった。
※※
朝美と夕美はほとんど同時に目を覚ました。いつの間にか灯りは消され、豆球の灯りだけになっている。
二人は向かい合って寝ていたので、お互いの様子は豆球のぼんやりとした明るさの中でも一目瞭然だった。悪い夢でも見て、うなされていたのだと。その証拠に、どちらも汗をかいており、髪の毛が頬や額に張り付いている。
「朝美、大丈夫? すごい汗びっしょりだけど……まるで悪い夢でも見たみたい」
「夕美こそ……ひどい有り様じゃないのよ。大丈夫? どうせヘンな夢でも見たんでしょう?」
まぁね、と夕美はそう言いながら額の汗を手で拭う。
「今まで言われてきた嫌味が夢に出てきたわ。存在を否定されて……制服を踏みつけられてさ……本ッ当に、嫌になるわ。思い出しただけで、胸糞悪くなってきた」
「私も全く同じ夢を見たのよ。朝美が突き飛ばされた時は、どうしようかと思ったもの。制服、一度袖を通しただけでもうクリーニングに出さなきゃいけなくて……ああ、本当に胸糞悪いったらない」
入学式まであまり日がなく、それに間に合うように制服をクリーニングしてくれる店を探すのに苦労したことを思い出す。当然、祖父は謝りもせず、クリーニング代も出してはくれなかった。
朝美と夕美は壁掛け時計を見上げる。豆球のぼんやりとした灯りの中では目を凝らさないと見えなかったが、時計の針は午前二時ちょうどをさしていた。まだ深夜だったが、二人は二度寝しようという気には到底なれなかった。もう一度寝てしまったら、同じような夢を見てしまいそうだったから。
二人は透真の方を見てみる。薄暗くてよく見えないが、どうやら彼はうなされているらしい。身体を丸め、小声で何かを呟いている。寝言だろうか? その声があまりにも小さいので、朝美たちの位置からでも彼の声は聞き取れない。
「透真、何て言ってるんだろうね? 小さすぎて聞き取れないわ」
「私にも分からない。でもこの状態だと、きっとさっきの私たちみたいに悪い夢でも見てるんじゃないかしら」
「うん、そうかもね……」
その後、二人は一応寝ようと努力はしてみたものの、結局、どちらも一睡も出来なかった。
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