第16話 コドク

 蟲毒こどく。—―蠱毒(こどく)は、古代中国において用いられた呪術を言う。動物を使うもので、中国華南の少数民族の間で受け継がれている[1]。蠱道(こどう)、蠱術(こじゅつ)、巫蠱(ふこ)などともいう。


                      ウィキペディア(Wikipedia)参照


 入れ物の中に百匹の毒虫(蛙、蜥蜴、蛇も可)を入れ、それを何日も放っておくと、入れ物の虫たちは互いを食べて、やがて最後に一匹が残る。

 その一匹が最強の呪術道具となり、呪術者は呪う相手に使用して殺害する。あまりの呪力ゆえ、古代中国では造ることを禁止され、処罰の対象とされたという。


 *       *       *


 矢代弓子やしろゆみこ二十九歳が出社してくると、課内の同僚社員たちが嘲笑しながら視線をおくる。大きな不織布マスクに白の手袋、防塵メガネを付け、おかっぱ頭の彼女は、同僚の蔑視べっしもどこ吹く風で自分のデスクにつく。

「矢代さん」

 そんな彼女を部屋の隅から呼んだのは、上司の御手洗燈子みたらいとうこ四十一歳であった。身長百七十はありそうな長身で、不惑と思えないほど若々しい雰囲気をしている。

 弓子は御手洗の元へ向かう。すると、いきなり書類を弓子の前に突きつけいった。

「あなた、これはどういうこと?計算が違っているじゃない?こんなこともまともにできないの?」

「……」

 弓子は防塵メガネの奥から、御手洗を見つめる。

「返事は?」

「……すみませんでした」

 消え入りそうな声でいう。

「ああっ?聞こえない。すぐにやり直して持ってきなさい」

 と書類を突き返した。

「また矢代が課長にダメ出し食らっているよ」

 ヒソヒソと隣の女子社員に囁くのは、三村五郎みむらごろう三十二歳である。どこにでもいそうな平凡なサラリーマンといった風貌である。

 三村の隣で、弓子が猫背を丸めてデスクに戻っていく様をジッと見つめるのは、滝川薫子たきがわかおるこ二十六歳であった。

 わざとワンサイズ小さな制服を着ているのか、はち切れんばかりに体のラインを強調していて、厚い唇に真っ赤な口紅がテカテカと光っている。

「あの人、何でこんなに人をイライラさせるのかしら?」

 と薫子は鼻を鳴らした。

 御手洗のデスクの上の電話が鳴って、受話器をとる。

「……はい。……はい……ええっ、わかりました」

 電話を切ると、御手洗は立ち上がり総務課内に響き渡る声でいった。

「みんな聞いて。竜崎さんが遺体で見つかったみたい。今日、これから警察の人間が事情を聴きにくるから、午前中は会社にいるように」

 課内の数十人の人間は仕事の手を止め、静まり返る。

「あの、警察が来るってことは殺されたんですか?」

 三村が訊いた。

「それを調べに来るのよ」

 御手洗は諭すようにいった。



 竜崎虎子りゅうざきとらこ三十八歳の遺体が海岸に打ち上げられているのが発見されたのは、昨日の早朝。腐敗がひどく、解剖の結果、死後一週間くらいであると断定された。目立った外傷はなく、自殺と他殺の両面で捜査が開始された。

 身元を示すものは持っていなかったが、彼女の身体的特徴が身元特定に大いに役立った。竜崎虎子は身長二メートルを超す体格の持ち主で、元女子ボクシングのヘビー級日本チャンピンで知られていた。しかし、数年前に様々な問題を起こし引退し、コネで現在の会社に就職したという。

 会社に刑事二人がやってきたのは正午ごろであった。

「竜崎さんは先週から無断欠勤していて、連絡もつかなくて心配していたんですけど……まさか、こんな結果になるとは……」

 応接室で二人の刑事に事情聴取を受けた御手洗はいった。

「誰か恨みを持っている人など、居ませんでしたか?」

「さあ?うちの課はアットホームでやっているので、まったく分かりません」


「竜崎さんのことはあまり知りませんね、歳も離れていますし。彼女が入ってきたのが私より後なので一応、私の方が先輩なんです。もっとも彼女、そんなことまったく気にしてませんでしたけど」

 薫子が腕を組んで、胸を強調しながら質問に答える。

「誰か恨みを持っている人など、居ませんでしたか?」

「わかりませんが、矢代さんがもしかしたら、根に持っていたかもしれません」

「というと?」

「よく仕事を丸投げされてましたから……」


「知りません」

 弓子は俯いたまま答える。

 刑事たちは目の前に座る細身で小さな弓子を見て、互いに顔を見合わせた。

「先月の二十九日の晩はどこで何をしていましたか?」

「家にいました」

「それを証明する人は?」

「いません」


 その日、弓子は一人残業のため遅くなり、終電間際に帰路についていた。

 住宅街の人気のない歩道を歩いていると、後ろから足音が付いてくるのに気づいた。

 歩調を速める弓子。すると、相手も同じようについてきた。

 弓子は角を曲がり、右手にある公園へと入っていった。樹木が生い茂る都会の中の公園に二つの足音が響き渡る。追跡者は途中で目出し帽を被り、ナイフを取り出した。

 振り返った弓子に、いきなりナイフを振り払った。

 弓子は首をすくめ、それをかわす。

 目出し帽を被った不審者は、なおも容赦のない攻撃を続け、弓子に襲い掛かる。弓子は必死に逃げまどっていただけだが、すると突然、不審者が苦しみだしてその場に卒倒した。

 弓子は地面に倒れ、泡を吹いている不審者の目出し帽をとって顔を見た。それは同僚の三村五郎であった。


 翌日、三村五郎と隣の滝川薫子の席が空席になっていた。

「矢代さん、ちょっと」

 御手洗が弓子を呼ぶ。

「三村君と滝川さんが欠勤だから、あなた今日も残業して二人の穴を埋めてね」

 とだけいって、返事も待たずに手を翻した。

 その日は終業時間が過ぎて、深夜零時になっても総務課には弓子ひとりが残っていた。

 すると、暗闇の廊下に足音が響き渡る。

「あ、まだ居りましたか?そろそろ、閉めますんで」

 年配の警備員が顔を出し、弓子にいった。

「……はい」

 警備員の足音が遠ざかっていくのを聞いていた弓子であったが、突然、空気を切り裂く音を聞いて、椅子から飛び出した。

 細い金属が部屋の明かりに反射してきらりと光って飛んでいく。

「やっぱりね、只者じゃない」

 暗闇から声が響く。

「……」

 弓子はデスクに身を屈め、針が飛んできた方向を見つめる。

「あんたかい?あの竜崎デカブツを殺したのは?」

「……」

「滝川の三村どうぐったのかい?」

「……」

 弓子はデスクの下を移動しながら、声の位置を判断していく。デスクが規則正しく並んだ室内の奥は消灯していて、薄暗い。

「……なあ?モノは相談だが、殺しあうのは止めにしないか?大体、何で殺し合わなくてはいけない?お前はあの殺人狂たちとは違うだろ?」

「あんただろう?一番の殺人狂は」

「……なあ、聴いているのか?」

 弓子の表情がわずかに動いた。

「どうやってった?あの滝川メギツネを……」

 弓子は暗闇に向かって声を掛ける。

「仲良くやろうじゃないか、平和に暮らしたくないかい?」

 弓子の言葉を無視するように御手洗の声が響く。

 天井をヤモリのようにゆっくりと移動している御手洗。白いタイツを着て天井の色と同化している。

 それが弓子の頭上に到達した瞬間、剥がれ落ちるように落下してきた。

 弓子は手袋を外し、御手洗が落ちてくるのに合わせて手刀を真上に突き上げた。

 御手洗のナイフが弓子の肩口に刺さり、弓子の手刀が御手洗の頬を切り裂いた。

 御手洗は弓子から離れて、切られた頬に手をやった。

「古い手だ。テープレコーダーでも仕込んであるのか?」

 弓子が肩口を抑えながら、部屋の隅に視線を送る。

「き、貴様、その手は、まさか……」

 御手洗は弓子の手を見つめて驚愕していた。弓子の手は爪の先までどす黒く染まっていた。

「気づくべきだった……毒手とはな」

 御手洗はその場に突っ伏し、体を痙攣させた。続いて、弓子が膝をつき、倒れこんだ。


 その様子を複数の監視カメラのモニターで、人差し指を噛みながら男が見つめる。

 警備員の格好をしたその男こそ、「株式会社KODOKU」の社長、古藤邦夫こどうくにお六十五歳であった。

「チッ、失敗か」

古藤は忌々いまいましそうにつぶやいた。

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