第13話 死が二人を別つまで
ラウンジの壁掛け時計は二時五十五分を指していた。
しきりに腕時計を気にする男。
「遅い……」
つぶやいて、テーブルの上に置いてあるスマホを取って、どこかに電話を掛ける。
「……ああ、もしもし、渡辺ですが……はい。……相手の女性がまだ来ないんですが、どうなっているのでしょうか?」
「え?約束の時間って、三時ではなかったですか?」
受話器の向こうから、甲高い声が返ってくる。
「ですから、お電話しているんです。もうすぐ三時になろうとしているのに、現れないとはどういうことですか?」
「そうですか……では、確認してみますので、少々お待ちください」
「頼みますよ」
電話を切り、「フン」と鼻を鳴らす。
渡辺というこの男、きっちりとした仕立てのいいスーツを着込み、歳は四十代前半くらいか、神経質そうな銀縁メガネをかけ、前頭部が若干禿げてきている髪を七三に分けている。
一人の女性が、先ほどからラウンジ内を周囲の男性を気にしながら歩いていた。歳のころは三十代後半から四十代前半くらいか。紺のブレザーに白のブラウス、紺のスカートで、セレモニースーツのようないで立ちである。
彼女が渡辺に気づき、近づいてくる。
「……あのぉ、エスコートの渡辺さんですか?」
「はい」
渡辺はチラッと彼女に振り返る。
「あ、グッドマッチの伊東です。どうも」
「あ、はい」
「お待ちになりました?」
「……」
すると、伊東の携帯が同時に鳴り出した。
「す、すみません。ちょっと……」
伊東と名乗った女性は鞄からスマホを取り出しながら、渡辺に背を向けて歩きだした。
「もしもし?……あ、どうも。……はい、ホテルにいます。……ええ、会えました。たった今っ……」
振り返った伊東は言葉を止めた。さっきまで居たはずの渡辺の姿がどこにも見当たらないのだ。
ラウンジ内を見回すが、どこにも渡辺の姿はない。
「もしもし、伊東さん?どうかされました?伊東さん……?」
電話の声が虚しく響く。
「約束の時間、五分前に来ているのが普通でしょう。それが社会の常識というものではないですか?」
渡辺はメガネをクイッとあげて目の前の女性にいった。
「お相手の伊東さんは十分前にホテルについていたそうですが、初めてのホテルで、場所を探すのに手間取ってしまったそうです。それで約束の時間、五分前までに間に合わなかったのではないですか?」
「そんな言い訳……場所がわかっているんだから、事前に下調べしておくのが常識でしょう。そんな非常識な相手とはこれ以上、仮交際を続けていけません」
「……そうですか。それなら仕方ないですが、このケースだと違約金が発生しますがいいですか?」
「違約金?」
「はい。当サロンでは、仮交際に入ったお相手とは一か月間の交際期間を設けています。一か月の間に一度も会わずに交際を断るということは違約金が発生するケースなります。契約した時に言いましたよね?」
「それはおかしい。悪いのは相手のほうなのに、なぜ私が金を払わないといけないんだ?それに一度会ったし、会った上で断っているんだから、払う必要はないだろう?」
「会うとは、席につき一定時間を過ごすということです。今回の場合は会ったとは言えませんよ」
「それはそっちの言い分だ。とにかく、違約金など払いつもりはないので。それと、大金を取っているんだから、もっとちゃんとした良識のある女性を紹介してもらいたいものですね」
と渡辺は鼻を鳴らした。
「たく、また渡辺がごねやがって、今回で何度目か?」
渡辺を見送ったあと、
彼女は個人で「エスコート」という男性専用の結婚相談所を経営しており、従業員を五人雇うほどのやり手である。
しかし、彼女でも手を焼く会員というのがたまにいる。
勝手に退会したり、規則を破ったり、音信不通になったりという会員がいるのだが、現在はダントツに渡辺一人に手を焼いていた。
「五回目です」
アシスタントの
最初の面談で聞いた話では、今まで独身を通してきたが、一年前に課長に昇進したことで「世間体を考えて、結婚でもしたらどうか?」と上司に言われ、美晴の結婚相談所を訪ねた、とのことであった。
この渡辺、お見合い相手には苦労しなかった。
四十代で髪は薄くなってきているが、年収は平均より上だし、身長も170㎝あり、細身。なにより、地元で名の通った企業で役職についていることから、真面目な印象を与えるようだ。
お見合いでも、最初はいつも好印象である。
きちんとした身なりで、清潔感があり、受け答えもしっかりしている。お見合い相手の女性は、その第一印象にすんなり仮交際に進んでくれる。
だが、仮交際に入った途端、彼は豹変する。
相手のことを根掘り葉掘りと質問攻めにしたり、デートの途中で相手を批難して泣かせたり、自分の立てたデートの日取りに女性が都合が悪いと断れば、逆上してこの人とは合わないと仮交際を断る始末であった。
半年間で、五人の相手を紹介して、相手に断られたのが三件、自分で断ったのが二件あった。しかも、決して自分の非を認めないのだから、美晴もいよいよ嫌気がさしてきた。
「言いたくないけど、マジで退会してほしいわ」
マンションに帰り、風呂に入った後、ビールを片手にPCの前に座る
結婚相談所「エスコート」に入会して、半年が経過した。
入会金二十万円。月会費一万円×六ヵ月。お見合い料一回五千円×五回。お見合いのときに使った飲食代、三千五百七十五円。タクシー代、八千三百円。スーツのクリーニング代、一万三千二百五十一円。お見合いマニュアル本、千六百円……
――それにこうして毎晩PCの前に座り、見合い相手を見つける作業は、いったいいくらコストが掛かっているのだ?
エスコートのホームページ上から、提携している他の結婚相談所の女性会員のプロフィールをチェックするのが、日課になっていた。
「……たく、結婚相談所の女なんて、ロクな女がいない」
愚痴を言いつつ、プロフィールを丹念にチェックする。
「クッ、なにが身長175㎝以上、大卒、年収五百万以上、三十五歳までだよ。そんな相手がいるわけないだろ、お前なんぞに、無理無理」
女性をどんどんクリックしていくに内に、明人の顔が険しくなってくる。
「はぁあぁ……バカバカしい。こんな金を使って、ロクな相手がいない。ってか、そもそも世の女なんて、ロクなもんじゃないんだ。結婚なんてしなくていいだろう。それを部長の奴が、『君も課長になったんだから、家庭を持たないと様にならないぞ』だってさ、いつの時代の価値観だよ。もういいよ、結婚なんて、向いてないんだ結婚に。女なんて終了でいい」
ビールを飲み干し、缶を机に置いたとき、たまたま右手の人差し指がクリックした女性のプロフィールが画面に映し出された。
それを見た明人は、今まで感じたことのない衝撃が全身を貫いた。
「……この人だぁ」
ある日の昼食時、美晴は事務所で従業員たちとランチを取っていた。
「渡辺さんが見えなくなって三か月が経ちますけど、本当に婚活やめちゃたんですかね?」
アシスタントの遠藤真理が思い出したようにいった。
「退会の手続きが済んでいないから、会費は毎月引き落とされているわ。あのケチな渡辺さんにはしては確かに妙なのよね」
美晴も心配している口調であった。
そこへ受付の女性が慌てて、飛び込んできた。
「たあ、大変です。わ、渡辺さんがき、来たんですが……そ、それが……」
いつもは冷静な彼女がしどろもどろになり、その場にへたり込み、震える手でドアの向こうを指さした。
美晴は責任者の顔になり、すぐに立ち上がり受付に向かった。
雑居ビルの二階。エレベーターを降りてすぐ目の前にすりガラスのドアがあり、そこを開けると白を基調にした明るく和やかな雰囲気の受付がある。そこに一組のカップルが椅子に座っていた。
奥から現れた美晴は、受付の椅子に座る渡辺を見つけ立ち止まった。
ドアを閉めた音に気づいて、渡辺は美晴の方を見た。
「やあ、どうも。御無沙汰しています」
にっこりと微笑んだ渡辺は、頬がこけ、目はくぼんで髪はぼさぼさ、白髪が目立つ。
「成婚が決まったのに、挨拶に来なくて申し訳ありませんでした」
「……せ、成婚?」
美晴はようやく声を絞り出した。
「エスコートさんには、とてもいい人を紹介してもらいました。改めましてありがとうございます」
深々と頭を下げる渡辺の態度は以前とまるで違う。そこも気持ちが悪い。
「いえ……紹介してませんよ。どこかと間違えているのではないですか?」
「
渡辺は自分の隣の、何もない空間に手を差し出した。
「?」
目を凝らす美晴。次の瞬間、何もないところから細い一本の線が見え、それが徐々に人の姿となって現われた。
「……?!!!!!」
それはポスターのように平べったい女性であった。
長い髪の美人ではあったが、この世のものではなかった。彼女が美晴を射すくめるような目で見つめていた。
「あががががががががが……」
声にならない声が、美晴の喉の奥から湧き出してきた。
「おかげで、今は幸せです」
渡辺と祟子が目を合わせる。彼女は目しか動かさない。
「それでは、これから新婚旅行なので失礼します」
「わ、渡辺さん……」
行こうとする渡辺を、美晴は絞り出すように声で引き留めた。その瞬間、祟子がジロリと睨む。
「……いえ……お、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
会釈して、渡辺夫妻は出ていった。以後、彼の姿を見た者はない。
そして、美晴は結婚相談所をやめた。
🈡
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