第12話 やまびこ




 作業を終えて、山を下りようとする頃には陽はすっかり暮れ、辺りは暗闇に包まれていた。

 冬の山は日が暮れるのが早い。まだ午後四時過ぎだというのに、太陽は尾根の向こうへ隠れ、足元も覚束おぼつかない。

 私の名は、鈴木圭一けいいち。今年四十になる林業歴十年の中堅作業員だ。

 稜線に沿って下り、沢沿いを歩いて林道に向かう。解っているからいいが、そうでなければ道に迷ってしまいそうだ。リュックを背負い、チェーンソーと燃料タンクを両手に持って、ひとり黙々と獣道けものみちを歩いていくとガードレールがうっすらと見えてきた。

 林道までの上り坂を、ラストスパートで登り切り林道へ出た。

「……ハアハア」

 早く家に帰って、熱い風呂に使って、汚れを落としたいものだ。

 息をつきながら、林道わきに止めておいた白の軽トラを探したが……ない。

 道路脇の広くなったスペースに止めておいたはずなのに、それがどこにもない。

 もしかしたら、止めておいた場所を間違えているのか?

 いな、作業現場からここまでほぼ一直線……間違えようがない。しかし、現実は、朝に止めておいた場所に軽トラはない。

「盗まれたのか……?」

 キーは作業ズボンのポケットの中にある。

 こんな山奥で、誰があんなオンボロの軽トラを盗みに来るというのか?滅多に車とすれ違うことのない山奥だ。しかも、自分が今日ここで作業していることを知っているのは、ごく限られた人間だけだ。

 偶然見つけて盗んでいったのではなく、必然に山の中にある車を盗みに来た者でなければあり得ない。人気ひとけのないのをいいことに、そういう窃盗グループが出てきたのかもしれない。

「ハ~ッ……」

 思わず大きなため息が出た。

 このまま山の中で一夜を過ごすわけにはいかないので、山を下りて会社に戻らなくてはならない。会社の人間も心配するだろうし、捜索願など出されてはとんだ恥だ。

 このまま待っていれば、いつかは会社の人間が、帰りが遅いと気づいて連絡してくるだろうが、しかし、運の悪いことにここは携帯の圏外だ。

 しかも、たとえ電話が繋がったとしても、迎えに来てくれるまで会社からここまで一時間はかかるし、そもそも終業時間は五時。五時まで誰も心配して連絡などよこしてこない。

 したがって午後五時から、帰ってこないと心配し始めるのが一時間後の午後六時。

 さらにそこから、電話をかけてみるが通じないと解って、これは大変だとここまで探しに来るのが一時間。つまり最低三時間は、この場所で待たされなくてはいけない。

「……」

 とてもそんなに待ってられない。とにかく寒くて仕方がない。

 雪のあまり降らない地方ではあるが、陽が落ちれば、気温は軽く零度を下回る。今も夜気は冷気を含み、どんどんと体温を奪ってきている。

 火でもおこせたらいいのだが、タバコを吸わないのでライターもない。

 暖をとれるのは、唯一リュックに仕舞ったダウンジャケットだけだ。今の自分にとって文明の利器であるスマホも、ただの平べったい板でしかない。

 幸い、林道の本線は一直線に続く。

「歩くか……」

 それが一番の解決策だと判断して、チェーンソーと燃料タンクを道のわきの草むらに隠し、リュックだけを背負い、林道を歩き始めた。

 別にどうってことはない。真っ暗闇とはいえ、通い慣れた林道を歩いて下るだけだ。

 車では、市道から林道に入って三十分くらい走って現場につくのだから、時速二十キロで走ったとして、だいたい十キロくらいの距離か。大人の男が歩く速さはだいたい時速五キロくらいというから、市道につくのに二時間ぐらいか。

 そこまでいけば電話も繋がるから、会社の人間に電話をすれば迎えに来てくれる。もしかしたら、会社の人間が探しに来ていて、ばったり出会うことだってあるかもしれない。

「クククッ」

 思わす含み笑いをする。

 それにしても、林道を歩いて下るという行為は考えていたのとはまるで違う。

 いつもは流れるように過ぎていく風景が、今はしっかりと確認でき、一つ一つの木の形、舗装されていない道の状態、ガードレールの経年ぐあいなどが暗闇の中でもわかる。

 更に車内でガードされていた夜気のニオイ、暗闇の圧迫感などが直接感じられる。それは昼間の山の中とはまた違った顔を見せられているかのようだった。

 スマホで時刻を見ると午後五時を回っていた。

「キャバ嬢が出勤してくる時間か……」

 そのとき、背後で物音が聞こえた。立ち止まり、素早く振り返る。

「……」

 誰もいない。

 気を取り直して歩き出すと、音が再び聞こえてくる。

「サクッ、サクッ、サクッ……」

 地面を爪がひっかくような音が背後を付いてくる。

 再び振り返ると、いた。十メートルくらい離れたところに小さな丸い二つの目が光っている。丸い体の大きさから、おそらく狸だ。

「フッ、なんだ」

 自分が必要以上に怯えていることに気づかされたことと、正体が狸だったことで思わず鼻を鳴らす。

「お前、驚かせるなよ。……てか、もしかして、だましに来てる?」

 狸は一定の距離を保ち、動向を見守っている。

「ダマしてるだろう?ええっ?どうなんだ?」

 一歩近づくと、狸は弾かれたように飛び跳ねて、道のわきの草むらの中に消えた。

「フッ、ビビりが……」

 林業なんかを十年も続けていると、山に関する話を聞かれることがある。

 いわゆる山の怪談というやつだ。しかし、同業者からその手の話を聞いたことがないし、実際、怖いものにも出会ったことがない。会うのは鹿や猪くらいなものだ。狸だって、いま初めて見た。

 そもそも人の数が圧倒的に少ないのだから、山の中に幽霊などいるはずがない。いるとしたら人の多い都会の方がよっぽど可能性があるだろう。

 しかし、人ではない妖怪や怪異などはわからない。もしかしたら、あるのかもしれない。今の状況がまさにそれなのかも。

「えっ、狸?」

 狸って冬眠するんじゃなかったっけ?まさか狸の幽霊……?それとも太った猫?

「フハハッ……」

 笑い声が周囲に驚くほど響いたので、息を飲んだ。

 狸の幽霊か、面白い。しかし、そいつも草むらに消えていった。

 情けないやつ。


 ずいぶん歩いた気がするが、スマホの時計を見ると時刻は午後六時。

 のこり半分か。

「長い」

 こういう時に自動車の有難さが身に染みる。

 まったく、どこのどいつだ?車を盗んだ奴は……。

 今更ながら腹が立ってくる。人気ひとけのないのをいいことに、盗みを働くなんて許せん。

 それとも、別の見方があるか?例えば、今の自分と同じように歩いていたら、たまたま道のわきに自動車を発見して、盗んで乗っていってしまった、とか。

「一千万分の一の確率だな、バカバカしい」

 盗んだ相手はいずれにしても、キーがなくても車のエンジンをかけることができる人物になる。映画などでよくあるが実際、そんなことができるのか?

 スマホで調べてみようとポケットから取り出すが、「あっ、そうだ」圏外だった。

 そのときであった。

 どこからともなく、山の中からチェーンソーのエンジン音が響いてきた。続いて、大木の倒れる音が地面を伝い、木霊となって周囲に響き渡る。

 全身が泡立つように鳥肌が立った。

 音の感じからして、谷を一つ越えたくらいの近さだ。

「まさか……?」

 こんな闇の中で作業をしている人間がいるのか?

 出来ないことはない。最近は重機や車のライトで作業をしている業者もあるようだ。さすがに伐採作業は危険が伴うので、あまり聞いたことがないのだが……。よほどの事情か、さもなくば強欲な経営者でなければ、そんなことはしないだろう。

 しかし、音はそれ一回で終わった。後はうんともすんとも聞こえてこないし、闇の中に明かり一つ見えない。

 今のでお仕舞か?

 聞き間違い……?

 それともあれは、天狗倒しとでもいうのだろうか?

 天狗倒しとは、夜中、突如、大木の倒れる音が聞こえることがあるという。それが天狗の仕業だという言い伝えがあるのだが……。

 それにしても、どうもおかしい。

 陽が落ちてから、おかしなことばかり起きる。まるで、異界に迷い込んだようだ。

「ふ、まさかな」

 ふと見ると、曲がり角のガードレールがぶっつりと途切れている。まるで大きな力が働き、そこを突き破ったようにそこだけなかった。

 胸騒ぎを覚え、そばに行って下を覗き込むが、崖になっていて暗闇で見えない。とカーブの片隅に小さな石が立ててあり、その下に台座があるのに気づいた。

「石碑かな?」

「まだ思い出さないか?」

 不意に後ろから声がした。振り返ると、そこに血だらけの老人が立っていた。

「うわあっ」

 叫び声が木霊する。

「お前はここから落ちたんだ。俺と一緒にな」

「……その声は……親方?」

「そうだ、お前はカーブを曲がり切れず、ここから落ちて死んだんだ。いい加減、死んだことを認めろ」

「そんなあ……だって、俺は……スマホだって、動く……」

 手の中のスマホを見ると、画面は真っ黒で、ひび割れていた。

「う、ウソだあー」

 叫びがやまびことなって響き渡り、やがて返ってくる。


 *      *      *


 太陽が沈むと山の中では、様々なモノが活動を始める。

 ――作業を終えて、山を下りる頃には陽もすっかり暮れ、辺りは暗闇に包まれていた。

                                     🈡

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