第9話 暗闇の堕天使




 数学の授業が嫌いな生徒は多い。

 数学の教師、斎藤を嫌いな生徒はそれ以上に多い。

 前頭部から頭頂部にかけて禿げているのに、それ以外の部分は黒く丈夫な毛が生えていて、その毛を暑苦しいくらいに伸ばしている。眼鏡越しに生徒を見る目は、見下しているような、品定めしているような陰湿な目だ。その目が、女生徒を中心にとても嫌われている。

 しかし、玉川琴子たまがわことこだけは別であった。

 最前列、教壇の前の席に座る琴子は、熱心に顔を上げ、食い入るように斎藤の授業を受ける。斎藤もそれに答えるように、琴子にだけ授業をしているかのように振る舞う。

 斎藤だけではない。琴子はどの授業も熱心に教師の話を聞き、成績は常に学年トップクラスだ。クラス一の秀才で、生徒会の役員もしている。ほかのクラスの生徒とは交流があるようだが、3-1組で彼女と話す生徒はほとんどいない。

 だが、背中にクラス中の視線が注がれるのを彼女はどこ吹く風としていた。

「それ、エンジェルシリーズのミカーエルじゃない?」

 私がその日、彼女に話しかけたのは、ほんの気まぐれであった。

 琴子のカバンにあったストラップは、ニッチなアニメ、「エンジェルシリーズ」に出てくるミカーエルというサブキャラであった。

「え?ええ……」

 普段、クラスメートから声を掛けられ慣れていない琴子は、戸惑いつつうなずいた。

「私も好きなの。地味だけど、仲間のことをよく見ていて、結構いいところで活躍したりするところがさりげなくてカッコいいのよね」

 すると、琴子は嬉しそうに微笑んだ。

 たったそれだけであった。その後、彼女と話すことはほとんどなかった。

「あの、山下さん……」

「由希、今度の日曜さぁ、あの映画見に行かない?ほら……」

 話しかけてきた琴子を無視して、私は友人の元へ向かった。

、最近、みやびのことばっかり見てるよね?」

 友人たちが集まる輪の中に加わると、由希ゆきがいった。

「そう?」

 話しを交わして以来、琴子が自分を意識していることはわかっていたが、だからといって仲良くするつもりはなかった。

「それより、おでんはやめない?名前があるんだし」

「そう?玉川琴子で玉子。琴子とコトコトで、おでんの具……おでん。秀逸じゃない?」

沙耶さやたちなんて、もっと酷いよ。あだ名が信者だもん」

 加奈かながいった。

「信者?なんで?」

「教壇(教団)にへばりついているからだって」

「わけわかんない」

 皆がどっと笑った。

 ふと見ると、自分の席へ戻っていく琴子の背中が寂しかった。

「おい、雅」

 浜田翔はまだかけるが私を呼んだ。

「数学の宿題忘れた。ノート見せてくんない?」

「またあ?しょうがないな」

 カバンからノートを取り出して、翔に渡す。

「あんたら、夫婦みたいだね」

 由希が茶化す。

「止めて。単なる幼馴染なだけ」

 といってまんざらでもない。

「浜田君かっこいいから、誰かに取られる前にちゃんと付き合った方がいいんじゃない?」

「もう……」


 放課後。

 四階の音楽室から見下ろすと、玉川琴子が数人の女生徒に囲まれて、運動部の部室の方へ連れられて行くのが見えた。

 取り囲んでいたのは、ソフトボール部員たちで、どういうシチュエーションかはすぐにわかった。ソフトボール部の連中は、たちが悪いというのは評判で、以前から琴子をターゲットにしているようであった。

「雅、どこまで進んでる?」

 由希が近づいてきた。

「……ん?」

「どうしたの?」

「ううん、なんでもない。だいたい吹けるようになったよ」

 私は体を楽譜に向きなおし、傍らに置いあったフルートを手にした。


 *      *      *


 それから数日が過ぎた。

 部活が終わり由希たちと帰っていると、校門へ向かう途中にストラップが落ちているのに気がついた。

 よく見るとそれは、エンジェルシリーズのミカーエルであった。

「これは……」

「どうした?」

「こんなストラップを持っているのは、琴子以外いないと思って……」

 拾い上げて顔を見た瞬間、ミカエールの閉じているはずの口元が、人の口のように変化していて、歯を見せて笑った。

「キャッ」

 私は悲鳴を上げ、ストラップを投げ捨てる。

「どうしたの?」

 由希がおびえて私を見つめる。

「い、いま、口が開いて、笑った……」

「まさかぁ」

 由希がストラップを拾い上げた。

「口は閉じだまま……気のせいじゃない?」

「……」

 その翌日であった。琴子が学校近くのマンションから、飛び降り自殺をしたという連絡を受けたのは。


「……山下、ちょっといいか」

 放課後、HRが終わったタイミングで担任の吉田に呼ばれた。

「明日の玉川の葬儀でクラスを代表で、私とお焼香をしてもらいたいんだが……」

「え?なんで、私なんですか?」

 私は顔をしかめて、聞いた。

「君しか頼める生徒がいないんだ。それに君は玉川と仲が良かっただろう?」

「仲なんてよくありません……」

 私は教室を振り返った。クラスメートたちは何事もないように帰り支度をしている。

「頼んだぞ」

 吉田は私の返事を聞かずに、去っていった。


 翌日、玉川琴子の葬儀が小雨の中、行われた。

 学校からは、学校長をはじめ、教頭、学年主任の斎藤、担任の吉田、それに3-1のクラス全員が参列した。

 読経の中、お焼香が始まった。

「山下」

 吉田が私を見て、顎で合図をしてくるするので、私は仕方なく吉田に後についてお焼香の列に並んだ。すると、後ろのクラスメートの中から、嗚咽が漏れてくるのが聞こえてきた。

 瞬間、私は背中の辺りから顔にかけてむず痒く、熱くなった。

 お焼香の順番が近づいてくると、琴子の遺影が私を見おろしていた。

 改めて、琴子の顔をまじまじと見上げた。

 黒い縁の丸いメガネをかけていたので気づかなかったが、彫りの深い美人顔であった。

 棺の前に、遺影によく似た顔の両親と妹が立っていた。両親は人目もはばからず泣いている。

 私は何故か、いたたまれなくなって、顔を伏せた。

 事前に教えられた通りお焼香を済ませ、ふと見上げると、遺影の琴子が口を開けて笑っていた。

「ヒャッ」

 私は悲鳴を上げて、腰を抜かした。まるで、自分の葬儀をあざ笑っているかのような琴子の笑い声が頭の中に響いてきた。

「大丈夫か?」

 吉田がすぐに私を抱きかかえた。

「なんで私なの?」

 私は琴子の遺影に向かってつぶやいた。


 *      *      *


 月曜日。

 週明けの当校は足が重かった。教室に入ると、ドアの前に由希がいた。

「おはよう」

「加奈、こないだ貸した漫画まだ返せないの?」

 挨拶をするが、由希は私に気づかなかったのか、行ってしまう。

「……」

 私は自分の席に向かうが、教室の様子に違和感を感じた。そして、自分の席がないことに気づく。

「ここ、私の席」

 自分の席に座る男子生徒に抗議するが、男子生徒はニヤニヤとしているだけで退こうとしない。

「カケ」

 視線の先にいた幼馴染の浜田翔に呼びかけるが、翔は俯いたまま聞こえないふりをする。

 そのとき、始業のチャイムが鳴った。

 クラスメートがドタドタっと席に着き、私だけが残された。

 教室のドアが開き、担任の吉田が入ってくる。教壇に立ち、立ちつくす私に気づく。

「どうした山下?」

 今まで三十六人で、六列、六席だった教室が、今は三十五人、七列、五席になっていた。

「先生、私の席が……」

 そして、たった一つ空いた席が、教壇の前にあった。

「そうか。……しかし、まあ、みんなで決めたことだから、これでいいんじゃないか?」

「えっ……?」

 吉田があっさりといった言葉に、驚きのあまり、声も出なかった。

「今朝はいろいろと連絡事項があるから、山下、とりあえず、席につこう」

 吉田の言葉とクラス中の視線に耐え切れず、私は渋々席についた。

「よし、ではHRを始める。まず最初に……」

 私の頭上を吉田の話し声が流れていく。

 背中にクラス中の視線が重くのしかかってくるようで、首が沈んでいき、どんどんと俯いて、いつの間にか目の前が真っ暗になる。

 息が苦しくなって、魚が海面から酸素を吸うように顔を上げると、そこに担任の笑顔があった。

「おい山下、聞いているのか?」

                                     🈡

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