第8話 ロッカーの中の赤ちゃん
某駅にある巨大ロッカー。
(316mm×355mm×575mm、550mm×355mm×575mm、842mm×355mm×575mm、1153mm×355mm×575mm)
の4タイプが縦2m、横500mに渡って、壁に沿って続いている。
その前を一人の駅員がゆっくりとした足取りで歩いていた。
踏みしめるように駅を巡回するのには訳がある。今日が彼の駅員、最後の日であった。
勤続四十二年、鉄道会社の駅員として勤めてきた。実直だけが取り柄の、自他共に認める真面目一筋の駅員人生であった。……
時刻は午後八時を回ろうとしていた。
この巡回を終えれば、制服でこの駅構内を歩くこともない。駅構内は、帰宅ラッシュが過ぎて、少し落ち着いてきた。しかし、様々な路線がつながるこのターミナル駅では、いつでも人がひっきりなしに行き来している。
中山の前を颯爽と若い女が近づいてきた。
ヒールの音を響かせ、キャリアウーマン風のスーツを着た背の高い女が、中山の脇を通りすぎていく。香水の残り香が、中山の鼻腔を掠めた直後、どこからともなく、赤ん坊の泣き声が聞こえてくる。
中山は最初、女が赤ん坊を抱いていたのではないかと錯覚したが、そんなはずはなかった。聞こえてきたのは、ロッカーの中からであった。
サイレンのような赤ん坊の泣き声に、ようやく事の重大さを感じ取った中山は、おろおろと周囲を見回した。しかし、駅員はおらず、右往左往しながら事務所へと向かった。
「か、管理会社に連絡してくれ」
事務所に飛び込むと、手前のデスクにいた
「どうしたんですか?」
珍しく狼狽している中山に、佐藤は驚いて聞いた。
「ロッカーに、あ、赤ん坊が入っている」
「では、管理会社に電話します」
佐藤は目の前の受話器を取って、管理会社に短縮ダイヤルを押した。
「すぐに来るそうです。どこのロッカーですか?」
受話器を置いて、佐藤が立ち上がった。
「南口のマンモスロッカーだ」
「じゃあ、行きましょう」
と入口に立つ中山を促した。
ロッカーへ着くと、管理会社の人間がすでに待っていた。
「どこですか?」
管理会社の若い社員が佐藤に向かって聞いた。佐藤は反射的に、中山の方を向いた。だが、中山はロッカーの前に立って、身じろぎもせずに立ち尽くしていた。
「中山さん?」
「……」
迫りくるようにそびえるロッカーの前に、中山は眉間にしわを寄せ、立ち尽くしていた。
「番号を確認していてなかったんですか?」
「赤ん坊の泣き声が聞こえて、慌てて事務所に行ったもんで……」
「わかんなんですか?」
非難するように管理会社の男がいった。佐藤と同じ年くらいの若い社員で、年老いた中山を呆れるような眼差しで見おろしていた。そんな眼差しを感じて、佐藤が助け舟を出す。
「中山さん、大体の場所でいいんで、覚えてないですか?」
「……」
中山はジッとロッカーを見回しながら、鼻息を荒くした。
そのとき、三人の後ろをヒールの音を響かせ、女が通過した。中山はハッと息を飲み、赤ん坊の泣き声がする前にキャリアウーマン風の女とすれ違ったことを思い出した。
「確か、この辺りだ……」
ロッカーの端に向かって歩き、端から三列目の辺りで立ち止まった。
「って言われてもねえ、その辺りを全て開けるわけにはいかないんですよ」
「そんなこと言ってたら、赤ん坊が死んでしまうじゃないか?」
「確証がないまま、むやみに開けることはできないんですよ。事実、赤ん坊の泣き声はしていないし、あなたの他に聞いた人もいない」
中山のことを信じていないような口ぶりで管理会社の男はつづけた。
「それにもし、開いてみて、段ボールでも入っていたらどうします?その中に赤ちゃんが入っているのかどうか、開けてみなくてはわからないでしょう?」
「とりあえず、扉を開けて確認するだけでいい。箱を開けろとまでは言っていない。それくらいのことはできるだろう?人の命が掛かっているんだ」
「しかし、確証もなく、これだけのロッカーを勝手に開けるのは……」
「別に荷物を動かすわけじゃない。ただ扉を開け、中を確認するだけだ。それさえできないのか?」
中山がだんだんと声を荒げ、ヒートアップする。
「こんな言い争いをしているより、この範囲だけでいいんで、さっさと開けた方が早いんじゃないですかね?」
佐藤が手で示したことで、管理会社の社員も渋々と鍵を取り出した。
「じゃあ、ここからここまででいいですね?」
と端から5列目まで、50近くのロッカーを順に開けていく。
管理会社の男が一つずつ鍵を開け、扉を開いて確認する様子を、後ろで見つめる中山と佐藤。しかし、そのどれにも赤ん坊の姿はなかった。
「いませんね」
振り返り、管理会社の男が鼻を鳴らした。
「その中に……」
中山は、最後に開けた下の段の842mm×355mm×575mmのロッカーに入ったキャリーバッグを震える指で指さした。
しかし、管理会社の社員は扉をバタンと勢いよく閉めた。
帽子を脱いで、ロッカーの棚の上に置く。制服を脱いで、それをハンガーに掛け、扉を閉めたあと、中山は「フーッ」と大きくため息をついた。
腕時計を見ると、午後九時を回っていた。
「さて……」
鞄を持って、更衣室を出ていく。
事務所に近づくと、中から佐藤の声が聞こえてきた。
「……耳までもうろくしているんだよ。赤ちゃんの泣き声がしたってさ。しかも、どこのロッカーだったか覚えてないんだもの、最後まで使い物にならないよ」
すると、一斉に笑いが起こる。
「まあ、最後なんだからさ。大目に見てやろうよ。あの人とはもう会うこともないし。ご苦労様って送ってやろうよ」
その声は、佐藤より年長の遠藤という駅員だ。
「そりゃあ、ご苦労様ですよ、四十年も勤めているんだから。国鉄からでしょう?あの人みたいに無駄に長く勤めている人はいませんよね。毒にも薬にもならないから、居られたしょうよ」
「まあな、ほとんどミスもなく、実直を絵にかいたような人だからだろうな」
「それが今日はどうしちゃったんですかね?」
佐藤がいって、事務所の中の若い駅員たちが、ドッと笑う。
「あっ……」
そのとき、事務所に入口に立つ中山に遠藤が気付いた。
中山は立ち尽くし、カバンを持つ手がプルプルと震えている。
事務所の中の空気が固まった。
「中山さんいらしたんですか?待っていたんですよ、さ、中へ入ってください」
遠藤が廊下に立つ中山に、取り繕うように近づいて行って、腕を取った。
しかし、その手を振り払い、中山は叫んだ。
「舐めんなぁああああああああああ~」
中にいた全員がビクッと肩を震わせるほど、大きな声であった。
すると、中山は急にニコニコと笑みを浮かべ事務所の中に入ってきた。唖然として見守る一同。
中山はカバンに手を入れたかと思うと、中からナイフを取り出した。
「ええっ?」
手前の席に座った佐藤が椅子を投げ出し、逃げ出す。
「落ち着いてください、中山さん」
遠藤がなだめにかかる。
「確かに聞こえたんだ。赤ん坊はロッカーのどこかにいる」
しかし、中山は佐藤に向かって襲い掛かろうとする。そのナイフを握った腕にむかって、駅員の一人が警棒を渾身の力で打ち付けた。
「ギャー」
中山は悲鳴を上げ、ナイフを手放す。
「今だぁ、取り押さえろ」
一人が叫んで、室内にいた五人の若者が、身長165㎝体重53㎏の中山におぶさるように乗りかかり、もみくちゃにした。
一連の流れはわずか2分に満たない時間で起こった。唖然として入口に立っていた遠藤が我に返り、慌てて部屋の中央で折り重なる駅員たちの元へ向かった。
「おい、もういい、大丈夫だ。佐藤、救急車」
茫然と立ち尽くす佐藤に向かって、遠藤は叫んだ。
全員を退かすと、そこには車に轢かれたヒキガエルのような中山が横たわっていた。
ハッと目が覚めると、暗闇の中であった。
起き上がろうとして、額を何かに打ち付けた。触れてみると、天井はすぐ上にあり、鉄のように冷たい壁が四方を取り囲んでいた。
「どこだ、ここは?それに……俺はいったい?」
目覚めたばかりに、夢を忘れてしまったような感覚に襲われる。
すると、外から声が聞こえる。
「……あいつら、俺を完全にバカにしてやがる。それも今日で終わる。……この数年間、じっと耐えてきたことをすべて水に流すべきか?それとも、あいつらに目にもの見せてやるべきか?……そんなことをして何になる、ささやかな老後が待っているじゃないか……いや、どんな老後が待っているというんだ?たった一人で……」
その声に、聞き覚えがあった。中山はすべてを思い出した。
「おい、おい、止せ。止めるんだ……」
中山は壁を叩き、外に向かって叫んだ。
「ん?今、赤ん坊の泣き声が……」
🈡
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