第2話 壊れた傘

 夏休みに木崎林檎と出会い、会話をかわしたのはその夕方だけであった。

 ただ、それからずっと僕は彼女の僕を見上げる笑顔が脳裏にこびりついて離れずにいた。

 その笑顔を思い出す度に僕の胸の奥はじんわりと熱くなるのを覚えた。

 その感覚はけっして苦しいものではなく、なんとなく心地よい気がした。

 

 クラスメイトに聞いた話では彼女は芸能の仕事をしているらしく、夏休みはほとんど東京に滞在しているとのことだ。

 木崎林檎のお母さんも料理研究家をしていて、いくつか本を出版しているということだった。

 木崎林檎はいわゆる目立つ存在だったのである。


 二学期が始まり、数週間がすぎたころだった。

 午後から天気が悪くなり、放課後にはひどい雨になっていた。

 バケツをひっくり返したとはこのことだと僕は思った。

 学校の出口で木崎林檎はそのふりしきる雨をじっとみつめている。

 彼女の手には傘が握られていた。

 だが、彼女は傘を広げて帰ろうとしない。

 不思議に思った僕はその木崎林檎の手にグッと握られた傘をよく見た。

 びりびりに裂かれ、骨が折れていて、使い物にならないようだ。

 いや、壊されていたといったほうがいいだろう。


 木崎林檎はその見た目の可愛らしさと芸能の仕事をしていることから生意気だと勝手に思われ、いじめにあっていた。

 となりのクラスのことで僕はよくしらなかったが、その噂はこの壊された傘を見て確信にかわった。


 まったくひどいことをするものだ。

 運よくといっていいのだろうか、いじめとは無縁でいた僕はいじめという非道な行為の結果を見て、はじめて腹の底から怒りを感じるのを覚えた。

 しかし、怒り心頭しても僕ができることはかぎられている。

 かなり迷ったが僕は、呆然と立つ彼女の横に立った。

「これ使いなよ」

 僕は言い、木崎林檎の手にむりやり僕の傘を握らせた。


 木崎林檎はしめった瞳で僕の顔を見る。

 泣きそうな顔もまたとんでもなくかわいいものだ。

「え、でも……」

 彼女は言い、断ろうとした。

「いいんだよ。僕、家近いから」

 そう言い、僕はどしゃぶりの雨の中に駆け出した。


 帰宅してびしょびしょになった僕をみた母はあわてて風呂に入らせた。

 傘のことは遊んでいて壊れてしまったので捨ててきたと嘘をついた。

「これだから男の子は」

 と母はぐちを言った。

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