ホセはビールを買いにいった
福田 吹太朗
ホセはビールを買いにいった
◯主な登場人物
・ホセ ・・・カマーチョ市の、靴下工場で働く、比較的貧しい労働者。妻と二人の小さな子供がいる。40になったばかり。大の酒好き。
・ホルヘ ・・・ホセの幼馴染みで友人。靴下工場の重役で、営業部長。39歳。
・ミゲル ・・・まだ売れない作家志望の男。アルバイトで生計を立てている。35歳。
・パブロ ・・・肉体労働者だが、頭の回転は早く、エネルギッシュな男。いろいろと仕事を掛け持ちしている。年齢は30代前半から半ば。
・アンドレア ・・・元々は地元では名家だったが、今は落ちぶれている家の女性。書店の店主。あまり頼りにならない旦那がいる。30代中盤。
・ルチア ・・・両親が外国から来た移民だが、町では一番成功している女性。おそらく20代後半かギリギリ30代。
・エンリケ ・・・首都の名門大学生だったが、故郷の町に戻って来てしまう。祖母と妹と三人暮らし。20代前半。
・フェルナンド ・・・町の名士で、通信、医薬品、不動産業を中心に、手広く事業を行っている。町の人々からは、尊敬され、慕われている。おそらく40代後半から、50代前半。
・ドメニク ・・・無職の若い謎めいた男。おそらく20代半ば〜30代前半。何をして食べているのかは不明。
・ホレシア ・・・ホセの妻。
・ルイーサ ・・・ホセの娘。
・マヌエル ・・・ホセの息子。
・エミリオ ・・・アンドレアの夫。
・ガルシア ・・・安酒場『ドゥルシネーア』の店主。
・トニオ(アントニオ) ・・・靴下工場の営業部門で、ホルヘの部下。
・イスマエル ・・・ルチアの夫。
・アンヘリカ ・・・エンリケの妹。
・ソフィア ・・・サン・フェルナンド理工大学の教授。
・ガスパル ・・・地元の町医者。
・ダビド ・・・カマーチョ市警の刑事。
・サンチョ(私)この物語の語り手。登場人物たちをよく知るが、正体は明かさない。この話には直接は登場しない。
その1
・・・その町は、海辺に面してはいたが、漁業で栄えるには漁場は遥か遠く・・・かと言って、山にも面してはいたのだが、斜面は急で、わずかに段々畑の様な所に、果実の成る樹木がほんの少し植わっているだけで・・・かと言って、平地になっている所の土は、決して肥沃とは言い難く、農業にも不向きで・・・無論の事、商業地は存在したのだが・・・この町を、人々の住む場所として成り立たせているものは・・・その開けた煤けた土地に幾つも居並ぶ様に建てられた、とある世界的なアパレルメーカーの工場であり・・・そしてこの町ではその工場の殆どで、靴下、を一点に集中して製造しているのであった・・・。
おそらくその方が効率的だったのか、はたまた、ただ単に同じ様な構造の建物を並んで建てた方が、安上がりで済んだのか・・・その辺の事情はおよそ十数年前に遡って、その会社の幹部にでも聞いてみない事には、皆目見当は付かなかったのだが・・・ともかく、その五つ居並ぶ様に建っている、工場がそこに住んでいる人々の生活の糧となっており・・・この物語の主人公である、ホセ、もその工場の一つの、組み立てラインで働く最下層の人間であり・・・しかし給料はそこそこ貰えたし、あまり物価がそうは高くはないこの町で、家族を養いつつ生活するには、それでも十分過ぎる程であったのである・・・。
ホセ、はつい先日、ちょうど40になったばかりであり、彼よりほんの少し若い妻と、二人のまだ幼い、子供がいて・・・町の一角の借家で・・・さすがに彼の収入では、まだマイホームを購入するほどではなかったのだ・・・慎ましやかにだが、割と満ち足りた、日々を送っていたのであった・・・。
・・・オッと、この文章を記録している、かく言うこの私はというと・・・この町に住んでいて、おそらく主要な登場人物たちとはほぼ全員、面識はあるのだが・・・特にこの話には全くと言っていい程、関わってはいなかったので・・・あえて本名は伏せて、サンチョ、とさせて頂く事としよう。
・・・これはあの、ドン・キホーテに登場する、サンチョ、の事かも知れないし・・・あるいは、ただの子供時代からの渾名だとか、あるいは・・・ただ単に気まぐれで付けただけなのかも知れない・・・。しかしながら・・・前述の通り、特にこの話のどこかに登場するとか、関わってくるなどという事は、一切無かったので、あえてこの、仮名、を用いる事をどうかお許し頂きたいのである。
そして・・・この町の名前も正確に記録しようと思えば出来たのであるが・・・それをしてしまうと、どこだかが特定されてしまうし、いろいろと後々、様々な方面に影響を及ぼし兼ねなかったので・・・あえて、カマーチョ市、という名前で呼ばさせていただく事とする。どうかその点だけは・・・ご容赦頂きたいのである・・・。
・・・前置きが長くなってしまったが、ともかく、これはこの、カマーチョ市、に暮らす、ホセ、と、その周辺の人物たちを巡る、奇っ怪なお話で・・・と、言っても、たかだか地方のそれほど大して人口の多くはない、町で起こった事件なので・・・むしろ数十年、いや、もしかしたら僅か数年ばかりで風化してしまう様な事柄であったので・・・尚更の事、たまたまいろいろと見聞きをした、この私の拙い文章ででも、記録に留めておかねば・・・と思い立ち、こうしてキーボードを叩いているワケなのであった・・・。
・・・ともかくも、ホセはその日もいつもの様に・・・その日はいつもの、木曜日なのであった・・・靴下工場へと出勤し・・・ホセは常々、町にある、数少ないバーの様な酒場の様な、飲み屋である、『ドゥルシネーア』という所で、仕事帰りに一杯引っかけるのが常なのであったが・・・彼は一杯と言っても、むしろ、いっぱい、飲んでしまう事が度々であったので、その度に、つまりは顔面が真っ赤になりながら、これは周りの人間にしてみれば、甚だ迷惑であったのだろうが・・・しかしそこはまあ、そもそも元より酔っ払い、どもがワンサと集まる場所なのであり、酔って暴れて物を壊したり、誰かと殴り合いの喧嘩にでもならない限り、まずその店から放り出されるなどという事は、無かったのであった・・・。
そしてホセは、酔いが回ってくると、赤らめた顔をさらに紅潮させながら、唇の端には、ビールのなんだか、彼自身のなんだか区別の付かない、泡を少し・・・まるで蟹の様に・・・くっつけながら、決まっていつも同じ内容の事を捲し立てるのであった・・・。
「・・・大体、このオレは・・・一体何だってこんな・・・靴下ってのは、しょっちゅう洗って使うもんだぞ・・・? こんなに毎日毎日・・・使い捨てじゃあないんだ・・・! こんなに必要なものか・・! チックショウ・・・きっとどこぞの誰かが、鼻をかむ為に、使ってるに違いない・・・! そうじゃあないか・・・だって、そうじゃあないか・・・。・・・なあ、知ってるか? ・・・元々ヨーロッパだか、北欧だか、どこかでは・・・あの、このオレが大嫌いで仕方がない・・・大嫌いな理由は分かってるよな? ・・・何せ、毎年三つもプレゼントを買わにゃあならんのだぜ・・・? ・・・マッタク、馬鹿げてやがらあ・・・その靴下の中に・・・靴下を木に・・・なんつったっけ・・・? ・・・まあいいい、それは。・・・あ、ナントカツリー、とやらに、ぶら下げると・・・サンタさんだか何だかが、勝手に入れてってくれるっていう・・・そんなバカな話があるもんか・・・! 入れているのはこのオレ、その靴下を作っているのもこのオレ、なんだぜ? ・・・マッタク・・・!」
・・・すると大体その辺りで、愚痴を言い疲れてしまうのか・・・眠りかけてしまうので・・・その店の主人、恰幅の良い、確か、ガルシアだかガラリアだか・・・そんな名前の男が・・・まるで子供をなだめるかの様に・・・
「・・・もう今夜は・・・その辺にしときなよ? ・・・なぁ、ホセよ。」
するとホセは・・・別に彼自身は、性格が根っから悪い訳でも、力が余って、手に負えない訳でもなかったので・・・その酒場の主人の言葉を耳にすると、温順しく言う事を聞いて、フラフラとしながらも立ち上がり、そうしてその足取りのまま、自宅へと帰って行く・・・その様な事がおそらくは毎週一回か二回、有るか無いか、という状況で・・・何でも、その酒場の常連やら、彼の事を良く知る人間によると・・・その回数、荒れ模様によって、彼のその時の頭の中が・・・つまり今現在、好調であるか、不調であるか・・・あるいは家庭の中の様子まで・・・まるで手に取るように分かってしまうとの事なのであった・・・。
逆の見方をすれば、ホセという人物は、それ程までに分かりやすく、さらには、もっと好意的に言うのならば・・・親しまれているという事なのかも知れないのだが・・・実のところ彼自身には、その様な自覚はあまり無く・・・自分はこの町にとっても、職場にとっても、お荷物なのではないかと・・・どうも考えているフシがある様なのであった・・・。
・・・そして、その木曜日の仕事も一通り終わり、いつもの酒場へと向かうと・・・時間にすればまだほんの少しだけ早く・・・その日はなぜか、工場自体が、いつもの定時より少しだけ早い、四時半に終了したのであった・・・。そして・・・いつも必ず、『ドゥルシネーア』は、五時に開店するものと決まっていたので・・・店主のガルシア自身がまだ店にやって来てさえいなかったのだ・・・ホセは少々時間を持て余してしまい・・・仕方がないので、一旦自宅へと、帰宅する事にしたのであった・・・。
・・・自宅には、妻のホレシアと・・・彼女は決して美人とは言い難く器量がいい訳ではなかったのだが・・・しかし細かい事には良く気が付くし、何より、働き者なのであった。
何も工場に行って、毎日靴下を製造している、ホセだけが働いているという訳ではなく・・・その妻も、考えようによっては、むしろ夫よりも働いているのではないか・・・? ・・・とさえ思えてしまうほど、ホレシアはよく動き回り、夫よりは遥かにその行動範囲、移動距離は限られていただろうが・・・しかし、近くの市場やスーパーには毎日必ず行くし、子供二人を・・・ホセが保育園まで送る事は、たまにはあったのだが・・・帰りは・・・彼はいつ例の酒場、へ行くのかは、全くの気まぐれであり、決して頼りにはならなかったので・・・帰りに子供二人を迎えに行くのは、決まって妻の役割なのであった。
そしてその日は・・・ホレシア自身が驚いたのだが・・・てっきり、体調でも崩して、早上がりをして来たと、思ってしまったぐらいだったのだが・・・しかしながら、他所の家、同じ靴下工場に勤めている家で働いている人々も、その日は皆、約三十分程、早く帰宅して来ていたので・・・これはおそらく工場自体が、何らかの理由で、早く終わったのだと思い、夫に尋ねたのだが・・・ホセにもその理由は皆目見当は付かず・・・ただ上司に、今日は特別な日で・・・何でも、そのアパレルメーカーの会長の母親の誕生日であるからと・・・しかしその様な話は誰もが初耳であったし、だいいち、昨年は確か、その様な事は無かった筈だったのだが・・・しかしホセをはじめ、底辺の労働者たちは、早く上がれるのならばそれに越した事はない、と、皆喜び勇んで、帰宅して来たという訳だったのだ・・・。
そして、その時間にはもうすでに帰宅して、パジャマにさえ着替えていた二人の子供たち、上の子は女の子で、ルイーサと言い・・・下の男の子は、マヌエルと言った・・・は、父親が思いの外早い帰宅を果たしたので、少しテンションが上がって、はしゃいでいた程だったのだが・・・当のホセはというと・・・いつもの時間とタイミングがずれて、『ドゥルシネーア』に行きそびれてしまったので・・・ややご機嫌斜めなのであった・・・。
しかしそれでも、彼はやはり我が家では良きパパであり、二人のまるで言う事を聞かない小さな怪獣の様な存在を相手に、遊んであげたりしていて・・・それを横目で見ながら晩ご飯の支度をする、ホレシアは、その時ばかりは、幸福というものを、つい何となくだが、感じ取ってしまうのであった・・・。
・・・そうして、夜の六時を少し回った頃だろうか・・・? 晩ご飯の時間となって・・・その日の献立は、ホワイトシチューと、鮭のホイル焼きに、グラタンという・・・この家にしてはかなり豪華なもので・・・しかしなぜだかホセは、それでもまだ少し、機嫌があまりよろしくはないらしく・・・と、言うより、何か物足りなさを感じていたのだが・・・それは無論の事、その食卓の上に、アルコール、の類いが無いのが原因なのは分かり切った事だったのだが・・・実は以前はワインやら、ブランデー、と言っても安酒だったのだが・・・家にはあったのだが・・・たまたまホレシアの父親が孫の顔を見に、遊びに来た際に、ホセは酷く酔っていて・・・怒った義理の父に、その類いは全て、庭にぶちまけられ・・・以来、一切の酒類は、家に置く事は暗黙ではあるのだが・・・禁止となり・・・その為、そこからホセの、酒場通いが始まったと言っても、過言ではなかったのだった。
しかし家に酒類が全く無かったかと言うと、実はそうでもなく・・・時々はホセ自身が近所の酒屋やらスーパーに、買いに行って、家で飲む事もあったのだが・・・何しろ、長年の飲酒のせいで、アルコールという物に慣れ切ってしまっていたのか・・・自分で購入して来た量ぐらいではとても足りず・・・あっという間に、一晩で飲み尽くしてしまい・・・。
・・・と、いう訳なので、家には空きビンは有ったが、中身の入っている酒類の類いは無く・・・しかもその日は、仕事が定時前に終わってしまったので、時間も体力もいつもより余ってしまい・・・ホセはただ、自分のベッドに寝転がって、天井を眺めているしか、他にやる事は無く・・・小さな怪獣、たちも食事が終わると疲れてしまったのか、自分たちの部屋で寝入ってしまい・・・彼はますます、暇を持て余して・・・なおかつ、物足りなさ、だけが残って・・・。
・・・そうして、時間は夜の十一時を少し回っていただろうか・・・? あるいは、もう少し早かったかもしれない。・・・ともかく、ホセは急にベッドからパタリと起き上がると・・・妻のホレシアに向かって、
「ちょっと・・・ビールを買いにいってくる・・・」
ホレシアは、やれやれ、というよりはむしろ、キョトンとした表情をしていたのだが・・・ホセはパジャマからまた外出用の粗末な服に着替えると・・・地味な色のジャケットを羽織って・・・表へと出て行ってしまったのであった・・・。
ホレシアは・・・こういった事は実は以前にもあった事なので・・・その時は特に気にもせず・・・しかし後から考えると、それが、その最愛の夫を見た、最後の姿となってしまったのであった・・・。
その2
・・・結局ホセは・・・帰っては来なかったのである・・・。
・・・翌日の朝となり・・・実はホレシアは、内心不安で不安で仕方なく・・・泣き出してしまいたい程だったのだが・・・幼い子供たちの手前、その様な訳にもいかず・・・あくまでも平静さを装って、とりあえずいつもと同じ様に、彼女自身が保育園へと・・・送っていったのであった・・・。
しかし、その足で、自宅へと帰らず・・・彼女が向かった先は、地元の警察署なのであった・・・。
そして・・・昨晩からの、事情を一通り巡査やら、警官らに話すと・・・彼らはその時点では、すぐに見つかると考えたのだろう・・・? ホレシアには、すぐに無事に見つけますから、大丈夫です。どうかご心配なさらないでください・・・と言って安心させて・・・ホレシアはその言葉を聞くと・・・とりあえずはまた、自宅へと帰ったのであった・・・。
警察は始め・・・おそらくホセは酔っ払って、どうせその辺りの道路脇にでも伸びているのであろうと、タカを括っていたのだが・・・しかしいくら付近を捜索してみても、ホセの姿はおろか、目撃者の存在すらおらず・・・もしかしたらこれは、何らかの事件に巻き込まれたのではなかろうかと、ホセの自宅を巡査と捜査員らが訪れ・・・もう一度、ホレシアに、その晩に起こった事を、改めて訊いたのであった・・・。
ホレシアは、事件に巻き込まれたのかもしれない、などと聞くと・・・無論の事、余計に不安になったのだが・・・しかしそこは、あくまでも気丈に振る舞って、警察の事情聴取に応じるのであった・・・。
しかしその話からは・・・ホセが夜の十一時頃にビールを買いに・・・おそらく『ドゥルシネーア』だったのだろうが・・・向かった事しか手掛かりは得られず・・・しかし彼らも仕事なので、一応、彼の立ち寄りそうな所、何か事件に巻き込まれてはいないか? ・・・しかしホレシアの証言によれば、ホセは僅かな小銭を持っていっただけで・・・彼がいつも肌身離さず身に付けている、財布は、自宅に置きっぱなしだったのであった・・・。
・・・なので、物盗りだとか、何らかの事件に巻き込まれたという線も薄く・・・。
・・・そうして、金曜日はあっという間に終わり、彼、つまりはホセの職場でも、ホセが消息不明であるという話は、すぐに話題になったのだが・・・しかし金曜日の時点では、ホセが普段働いている場所の・・・それはちなみに五つある工場のうちの、第四工場、なのだったが・・・しかも大体のポジションも決まっていたので・・・その近辺の同僚らがこの件について知ったのみで、金曜の勤務も終わり、週末になると、工場は二連休となるので、それ以上は特には大きな話題にはならなかったのだった・・・。
しかしながら、警官たちに、土日、などというものはなく・・・その間も・・・何しろ、万が一ではあったのだが、何かしらの重大な事件の可能性もあったのだ。・・・なので、その二日間も割と大勢の警官たちが、ホセの行方を探したのだが、杳としてそれは掴めず・・・次の月曜日には、事態の重要性にも鑑みて、早くもその日の午前中には、その工場の幹部会で、その件が取り上げられたのであった・・・。
そこには、五つの工場を束ねる、管理支部長、を始め・・・そうそうたる面々、重役たちが会議室に集まっており・・・元々月曜日の朝には、その様な幹部会、が行われるのは定例となってはいたのだが・・・その日に限っては、一工員でしかない、ホセの話でほぼ終始し・・・まずは第四工場の工場長が、日頃のホセの勤務態度についての報告があり・・・しかしそれについては、全く問題はなく・・・そして、重役の一人が、ふと、その会議にも毎回必ず参加していた、別の若い重役に、尋ねたのだった・・・。
その若い重役の名は、ホルヘ、と言い・・・実はホセの幼馴染みで、今は完全に歴然とした差がついてしまったのだが、実はこの工場に入社した時期もほぼほぼ同じで・・・しかしホルヘの方は、順調に出世をして・・・カマーチョ工場の、営業部長、にまで、39という若さで昇進していたのであった・・・。
ホセとホルヘとは、小学校から高校まで全く同じで・・・まだホルヘには誕生日が来ていなかったので、年齢は一つ若かっただけなのだが・・・しかしホルヘが大学へと進んだのに対して、ホセは高校を卒業後に、すぐに地元の機械部品加工工場、だか何かで働き始め・・・ちなみにその時にはまだ、現在のアパレルメーカーの靴下工場は、建ってすらいなかったのだが・・・ともかく、幼馴染みという事で、その幹部会では、ホルヘはまるで集中砲火を浴びるかの様に、質問責めにあったのだが・・・しかし実のところ、彼の言葉を借りれば、ホセに最後に会ったのは、半年程前との事で・・・なので、特に警察が持って来た以上の目新しい情報は無く・・・その日の幹部会も、結局のところ、いつもの調子で、後半はただ淡々と、売り上げやら、靴下の生産数やら、株価やら、営業成績やらの、数字が読み上げられるだけで・・・いつもと変わらぬ感じで、まるで何事も無かったかの様に、つつがなく終了したのであった・・・。
そして、それぞれの重役たちが、自分らの‘重役室’に戻ろうかという時に、一人の・・・それは本社の社長とも昵懇の、かなり重要な人物で・・・ホルヘを廊下で呼び止めると、彼に向かって、次の様に尋ねたのだった・・・。
「・・・ホルヘくん。これはまあ、私一個人の感想というか・・・考えではあるのだが・・・つまりはだよ、この件事態は、キミの幼馴染みが行方不明という事で、大変遺憾な事ではあるのだが・・・しかし会社やこの工場にとってみればだね、まあ、言葉はあまり良くはないのかもしれないのだが・・・一工員が、酒に酔ったまま、自宅に戻らず、行方不明になったという事で・・・特に今のところはだね、大事件が発生しただとか、そういった事ではないのだろうが・・・」
ホルヘはしかし、さすがに若くして出世した事もあり、すぐにその、言葉を濁した様な言葉の、真の意図、をすぐに見破り、
「それはつまり・・・社長にも報告を・・・されるという事でしょうか?」
するとその重役は、自分で言う手間が省けた事に、幾分気を良くしたのか、
「そういう事だよ・・・! さすがはホルヘくん。頭の回転が早い!」
ホルヘはそこはあくまでも謙遜して、
「・・・いえいえ・・・しかしながら常務。私が先程申し上げました事は、全くの真実でありまして・・・」
するとその、常務、は一瞬苦い顔で黙ってしまい、僅かな間の後、
「・・・なるほど。しかし私には、社長に報告しなければならぬという、義務がある。まだその・・・事件にはなってはいないが、その・・・」
と、何事か言い淀んでいたので、ホルヘは、
「・・・分かりました。わたくしも独自に・・・もちろん警察とは別に。・・・調べてみます。ところで・・・」
「・・・何だね?」
「その為の時間は・・・どれ位御座いますでしょうか?」
その常務は、ほんの一瞬だけ考え、
「三日・・・遅くとも三日、といったところかな・・・? それで、大丈夫かね?」
するとホルヘは、常務に不安感を与えたくはないという、意図もあったのだろうが、自信を持って、
「・・・分かりました。それだけあれば・・・十分で御座います。」
するとその常務は、彼の予想以上に喜色満面となり、
「・・・そうかね? それは心強い。まあ、私とすれば・・・特に何事も無かった・・・という報告が、一番望ましいのだがね。」
「・・・ハイ。承知致しました。私も幼い頃から良く知る人物ですし、特にこれといって・・・トラブルやら、今までも御座いませんでしたので・・・おそらく大丈夫でしょう?」
「・・・そうか。それは良かった。いい報告を・・・期待しているよ!」
・・・それだけ言うと、その常務、はあっという間に、去って行ってしまったのであった・・・。
そしてその廊下に・・・一人ポツンと立ち尽くしたホルヘは・・・しかしすぐに歩き出して、それから三日間は、営業、とは全く別の、仕事に追われる事となったのだった・・・。
・・・一方、例の酒場である、『ドゥルシネーア』では早くも、金曜日の夜には、警官が二人、訪れていて・・・店主のガルシアに、事情を聞いていたのであるが・・・確かに、前の晩の木曜日の、夜の十一時頃に、ホセは店を訪れていて・・・ブランデーだか、リキュールだかを一、二杯引っかけてから、瓶ビールを四本、片手に二本ずつ、ぶら下げながら・・・店を後にしていたのであった・・・。
しかし店主の記憶では・・・特にその時点では酔っていた風ではなく・・・ホセのいつもの感じでいけば、そのぐらいでは酔っ払わない事は、店主のガルシア自身が一番心得ていたのである・・・。
・・・なので、警官たちにはその様に説明し、決して酔っ払って明後日の方向へと行ってしまったとか、家に帰れなくなってしまった、という訳ではないのでは?・・・と、私見も入れつつ、説明すると、二人の警官はただ黙ってメモを取ってから、店を後にしたのであった・・・。
・・・しかしながら、その警官たちが去った後・・・店主の周りにはちょっとした人だかりが出来て・・・
「・・・オイ、今のは何だ?」
「・・・お前さん、何かやらかしたのか?」
・・・などとお節介を焼く輩もいたので、店主のガルシアはややうんざりとした表情で、
「・・・あのホセが・・・行方不明だとよ。」
と、一応事情を説明してやるのであった・・・。
すると途端に、店の中のあちらこちらでは・・・ホセに関する噂が飛び交い・・・ホセ自身は憎めない性格で通ってはいたものの、本人のいない事をいい事に、やれ、浮気をして今頃は愛人の所にいるんだとか、職場の金を持ち逃げしたのではないかだとか、はたまた、何か大きな事件に巻き込まれた、あるいは、麻薬の運び屋に仕立て上げられて、今頃は外国にそれを運んでいるんだ・・・などといった、根も葉もない適当な噂が、酔っ払いたちの間で、早くも・・・少なくとも店の中限定ではあったのだが・・・拡散、していたのであった・・・。
一方、先程からその一連の様子・・・警官たちと店主とのやり取り、それと店の中でのちょっとした騒ぎ・・・を、酒を飲んでいるというのに、極めて冷静な表情で、カウンターの所でただ一人、ちびちびと、しかも見ようによっては、若干暗い表情にも見える、その様な男がいて・・・その男の名は、ミゲル、と言い・・・そのミゲル、は一応常連ではあったのだが、この店に来るのはせいぜい、ひと月に二、三度で、そうしていつも決まって、その日と全く同じ様に、カウンター席で一人ただ黙って飲んでいるというのが・・・常であったのである。
そして彼自身も、ホセの事は知ってはいたし、確か一言、二言、あるいはせいぜい三言、ぐらいだろうか?・・・言葉を交わした記憶はあったのだが・・・前述の通り、ホセはホセで、酔いが回ると愚痴しか言わなくなるし、ミゲルは一人で飲んでいる方が性に合っていたので・・・殆ど会話らしきものは成り立たず・・・同じカウンター席にいるにも関わらず、なのだが・・・しかしそのミゲルという男は、その話にいたく興味を示して・・・その理由はまた後ほど述べる事としよう・・・そうしてその日も、特に酔っ払う、まではいかず、軽く程良く体が温まったところで、店を後にしたのであった・・・。
・・・話はまた、次の週の月曜日へと戻るのだが・・・例のホルヘは早速、部下を一人だけ引き連れて・・・その男の名はアントニオと言い、体が大きく、無骨ではあったが、スポーツ万能で、押しが強かったので、どうやら営業には向いているらしく・・・いつも成績はトップを争っていたのであるが、決して性格自体は荒っぽいとか、そういう事では無く・・・なので、皆からは親しまれていて、トニオ、と上半分を省略して、呼ばれていたのであった・・・。
ホルヘ営業部長は、その、トニオを工場から連れ出すと・・・さすがに中では詳しい事情は話せなかったので・・・会社の車を出し・・・三日間だけ、自分に付き合って、補佐をしてくたら有り難い、その分の手当ては出すから、などと言うと、元来お人好しでもあったトニオは、二つ返事で引き受け、ホルヘの後へとただ黙ってついて行ったのであった・・・。
一方のミゲルはというと・・・日にちは少し前後してしまうのだが・・・又しても金曜日の夜へと戻り・・・ミゲルは自分のアパートメントへと帰宅すると、すぐには床には入らずに・・・実は彼は今年で35になるのだが・・・いまだに作家になるという夢が捨てきれず・・・しかし文筆業ではまだ全くと言っていい程、食べて行く事は出来なかったので、昼間はバイトに精を出し・・・それがあの、靴下工場であったのだ・・・。しかしミゲルの働いている場所は、第三工場で、ホセの第四工場とは違ったので、普段職場で出食わす事は無かったのだが・・・しかしつい今しがたの、彼が失踪したという話を聞いて・・・これはもしかしたら、新しい小説のネタ、になるのではないかという・・・淡い期待も抱きつつ・・・彼は二十代の頃から、主だった国内のものはおろか、外国の賞という賞に応募しまくっていたのであるが・・・未だに大賞や最優秀賞どころか、予選を通過した事すら無く・・・普通の人間ならば、おそらくここいら辺りで、諦めてしまうところなのだろうが・・・彼はふと、ジャンルは全く違うものの、あの、ポール・セザンヌも、40歳を過ぎて初めて、サロンに合格した事を思い返しては・・・毎日執筆に励む日々なのであった・・・。
・・・そしてつい今耳にしたばかりの、ホセの失踪の話は・・・彼ミゲルは実のところ、幻想的な作風を志していて・・・彼自身も得意としていたのではあるが・・・これはもしかしたら、ノンフィクション的な作風へと、変化する時が訪れたのではなかろうか?と・・・これはもしや、天のお告げなのではと、運命的なものも感じて・・・彼自身は無神論者ではあったのだが・・・そしてホセを自分自身の手で探しつつ、彼がどの様にして失踪したのかを、いち早く、それも無論の事、マスコミよりも早く彼を見つけ出して・・・それを小説にすれば、と・・・彼はようやく、自分にいい運が巡って来たのだと・・・そう考えてはついほくそ笑み・・・とりあえずその日は、ベッドに入り、取材、は明日から始める事として・・・幸いな事に、明日は土曜日で、工場は休みなのであった・・・。
ミゲルはベッドに入ると、その日の労働の疲れと、アルコールが入っていた事もあって・・・瞬く間に眠りについていたのであった・・・。
その3
・・・アンドレアは、町の一画で、書店を経営していた。
書店を経営、と言っても、今のご時世そうそう繁盛する訳でもなく・・・閑古鳥が鳴いている状態に近かったのだが・・・常連客やら、固定客もいるにはいて・・・そうして何とか、やりくりしながら経営を成り立たせていたのであった・・・。
実は彼女の家柄、今現在は結婚をしていて、一応、全く冴えはしないのだが、夫がいるにはいたのであるが・・・彼女の父方の家は、代々この地では荘園などを持ち、城を所有していた時期もあったそうである・・・なので、彼女自身はその名家の出身なのであったが・・・今はその名家もすっかり落ちぶれてしまい・・・ほんの僅かばかりの土地が、カマーチョ市内にポツリポツリと、点在するのみなのであった・・・。
・・・その日はいつもの、月曜日なのであった。
また新しい一週間が始まろうとし・・・まだ開店までには少し間があったので、アンドレアがいつもの様にゆっくりと準備をしていると・・・朝だというのに、近所のスーパーに、買い物に出掛けていた夫が戻って来て・・・彼が持ち帰ってきた紙袋の中には、わんさと食料品やら飲料やら調味料やらが入っていたのだが・・・彼は店に入るなり、それは床へと置くと、妻のアンドレアに向かって、物凄く慌てた様な口調で、
「・・・おい! 今ちょっと・・・常連さんとスーパーで一緒になって、ちょっと小耳に挟んだんだが・・・」
アンドレアは、夫がエラく興奮した様な調子だったので、朝の静けさをその喧騒で破られた様な、そんな少しだけ不愉快そうな表情となり、
「・・・何なんだい? ・・・お前さん。ちょっと・・・落ち着きなさいよ・・・?」
しかし夫は・・・彼の名前はエミリオと言い、アンドレアよりは二つ歳下なのだった・・・その妻の声には耳を貸さず、捲し立てる様に、
「・・・ホセっていう・・・ア、ホラ、何度かウチの店にも最近来ただろう・・・?」
おそらくホセの事を良く知る人物ならば、彼が書店に足繁く通っていたなどと知ったら・・・ふんぞり返ってひっくり返ってしまったに違いない。・・・それ程までに、ホセと書物、などという物は全く、結び付かなかったのである・・・。
・・・アンドレアはしかし、すぐには思い出せなかった様なのだが、
「・・・ああ。あの・・・普段は靴下工場で働いているとかいう・・・。・・・あの人が何か?」
夫のエミリオは、そこでようやく、まるで息を切らせていた事を思い出したかの様に、少し荒く呼吸をしながら、
「・・・今そこのスーパーで・・・」
「それは聞いたわよ。」
「・・・ウチの常連さんで・・・何とか、っていうバーだか何だかに良く行っている人から聴いたんだが・・・そのホセっていう人が、先週から行方不明になっているらしいよ?」
しかしアンドレアは、どうにもそういった話には興味は無いらしく・・・彼女にとっては今週の売り上げ、さらには、今日は月曜日で一週間の始まりであり・・・一体全体お客が入るのかどうかの方が・・・目下の関心事だったのだ。
「・・・ああ確か・・・自分でも読まない様な本を一冊、買って行ったわねぇ・・・一体、誰に上げるのかしら?」
夫はそこで、素っ頓狂な声を出し、
「・・・誰に上げるって・・・?」
店主のアンドレアの方は、お客の大半の顔と購入していった本を、きちんと記憶していたのであった。
「・・・だってさ、お前さん。あの人は・・・ホセさんだっけ? ・・・プレゼント用に、って、包装を頼んだじゃないか?」
「そうだっけ? いや俺は・・・確かその時は店には・・・」
女主人はほんの少しだけ、イラッとした様な表情となり、
「あんたもいただろう・・・? あんたが三軒お隣の、雑貨屋さんに包装紙を慌てて買いに行ったんじゃないか。・・・もう忘れちまったのかい?」
夫はそれを聞いて・・・本当に思い出したのか、はたまた機嫌の悪そうな妻に調子を合わせただけなのかは・・・曖昧だったのだが・・・
「・・・ああそうだった! あれは・・・一体何の本だったっけ?」
「あれは確か・・・ラテン語の詩集で・・・とても自分で読む様には、見えなかったけどねぇ・・・」
「人を見掛けで判断するのは良くないんじゃないのかい・・・?」
「ああでも・・・実際、本のタイトルすら読めなかったじゃないか、あの、ホセ、っていう人は・・・」
「ああまあ・・・大方、奥さんにでも、プレゼントするんじゃないのかい・・・? 奥さんがきっと、教養のある人なんだろうよ。そんな事より・・・彼は一体どこへと・・・」
ホセの失踪という・・・この、あまり大きな事件など滅多に無い町の、しかも自分たちの店を数日前に訪れていた人物に関わる、まるでミステリー小説の様な筋書きの話に、まだ少し興奮冷めやらなかった夫に対して、店主である妻は冷静に、
「・・・そんな事よりお前さん。もうすぐ開店の時間だよ? 早いとこシャッターを・・・開けてはくれないかね?」
・・・と、半分まで中途半端に下ろされたシャッターを、開ける様にと・・・何しろ、入り口が開いていない事には、お客の入りようがないのだ・・・。
エミリオはただ黙って、一書店員、となり、ガラガラと・・・シャッターを持ち上げて・・・そうしてその週も、またいつもと同じ、古ぼけた書店の一日が始まろうとしていたのであった・・・。
・・・ホルヘとトニオとは、その全く同じ日の、月曜日のお昼少し前あたりから、ホセの行方を探し始めたのだが・・・気が付くと太陽は若干斜めに差していて・・・ホルヘがハンドルを握りながら、ふと腕時計を見ると・・・午後の二時を指していたのであった・・・。
「・・・そろそろ、メシにするか? ・・・遅くなって済まんな。」
「いえいえ・・・わたくしは・・・。部長こそ・・・食事が済んだら、私が運転を代わりますよ?」
「・・・そうか? 済まないねぇ・・・」
そうして二人は、すぐ近くにたまたまあった、小さいが小綺麗で清潔そうなレストランへと入り・・・店内はお昼時から少しずれていたせいもあってか、人もまばらで・・・二人は取り敢えず、腹の足しになりそうな物を、注文したのであった・・・。
・・・それらの料理が運ばれて来て・・・ホルヘはこの店の定番らしい、パスタの一種で・・・トニオはその身体を、維持、する分、昼メシだというのに、分厚いステーキの様な肉を・・・。二人はただ黙って、無言で胃の中へと、それらを送り込んでいたのだが・・・
・・・そしてふと、トニオが、食べる手を休めて、
「・・・ところで部長?」
ホルヘの方は食べ続けたまま、
「・・・何だね?」
と、訊き返すと、
「その・・・ホセという・・・第四工場の、一工員は・・・部長の幼馴染みだとか・・・? ・・・本当でしょうか・・・?」
ホルヘは、そこで初めて、トニオに何も重要な情報を、与えて、いない事に気が付き、
「・・・ああ。実はそうなんだ。たかが一工員だが・・・我が社にとっては、大事な家族も同然だからね。・・・キミも、理解しているだろう・・・? 我が社の方針やら、社長や、私はじめ、上役たちの、従業員たちに対する、日頃の・・・」
「・・・ええ分かっていますとも・・・! それは・・・そうなのですが・・・。・・・つまりはその・・・部長がその、ホセ、という人物を、よく知っているからこそ、この役割というか・・・選ばれたので・・・?」
そこでほんの少しだけ、ホルヘは一体どう答えれば、このトニオにとってみても、会社や自分にとってみても、最適であり、都合がいいのかを思案して・・・しかしながら、そこはごくシンプルに、
「・・・ああ、まあ・・・そんなトコかな。」
と・・・
すると案外単純な、トニオはそれで納得し、
「・・・なるほど・・・やはりそうでしたか・・・!」
と、言ったのだが、ホルヘはそこで、思わず本音とも取れる様な・・・
「だが実際のところ・・・最近はホセにはあまり、会ってはいないのだがね。最後に会ったのは・・・あれはいつだったかなぁ・・・?」
するとトニオはその分厚い肉を食べる手を止め・・・キョトンとした表情で、ほんのしばらく、ただ黙々と麺をすすっている、上司の顔を見つめていたのであった・・・。
・・・例のミゲルはというと・・・実はもう早くも、ノンフィクション作家、になろうとした事を後悔し始め・・・折角の土日を・・・いつもは大概、執筆活動に充てているのだが・・・その二日間だけは、ただ特にアテもなく歩き回り・・・何だか無駄に過ごしてしまったと、今さらながら、後悔していたのであった・・・。
しかし彼にも、物書きの意地というか・・・まあ、ただ単に、フィクション作品に行き詰まっていた、という事もあったのだが・・・ともかく、おそらくこれは、ノンフィクションを書いた経験など今まで全く無く、勝手が分からないせいだからと・・・そう自分には言い聞かせて・・・その土日は全くの空振りに終わったのだが、次の週末には必ず、何かしらの情報、あるいは上手くすれば、ホセを自分が真っ先に見付けて・・・などと考えながら自分のアパートメントへと帰り着いた頃には・・・いつもの、なぜなのかは全くもって不明なのだが、自信に満ちた・・・その華々しい、キャリアとは対照的に・・・自意識過剰とも言える様な、いつものミゲル先生、にすっかり戻っていたのであった・・・。
その4
・・・火曜日となった。
その日も全く、前の日と同じ様に、カマーチョ市の一日は始まり・・・靴下工場も、定時である、九時になると、始業のサイレンが五つの工場どころか、町中に聴こえる様なけたたましい音で鳴り響き・・・そうして、特にラインに入っている工員たちは、否が応でも、手を動かして、靴下、を一日何足も、作っては出荷しなければならないのであった・・・。
そしてホセのいた第四工場には、ある一人の・・・ただの工員にしては目付きが鋭く、仕事中も、まるで上役の管理をする側の人間たちの様な目で、しかしやる作業は他の一工員らと何ら変わらず・・・彼の名はパブロと言い・・・彼は不定期工で、主に火、木、金と、今現在はシフトが組まれているのであった・・・。
そしてそれ以外の曜日はというと・・・ミゲルとは違い、特に将来の為にお金を貯める以外には目的は無かったので・・・別に幾つか仕事を掛け持ちしていて・・・時に他所の町やら土地へと出向く事もあったのだった・・・。
目付きが悪いのはおそらく、クセというか・・・特に評判の悪い人物でもなかったので、むしろ仕事はかなりテキパキと、しかも正確にこなすので、そのラインの責任者からは・・・なあパブロ、こちらの現場には、毎日来ないかね? キミみたいな、優秀な・・・などと、しょっちゅう誘われてはいたのだが・・・その度に本人は、
「そうしたいのは、ヤマヤマなんですけどね・・・生憎と、スケジュールの方が、三ヶ月先まで埋まっているもんでして・・・」
・・・と、断るのが常なのであった。
そしてその、火曜日の勤務、もあっという間に終わり・・・翌日は別の現場で・・・道路工事という、肉体労働が待っていたのだが・・・収入は工場とは比較にならないぐらい、ずば抜けて良かったのだ・・・なので、早々と自分の住み処である、ボロアパートへと、帰ろうとした矢先・・・突然、ある人物から、携帯に電話が入り・・・。
・・・ルチアは、両親は共に、このカマーチョ市で育った訳ではなく、彼女がまだ幼い時に、家族全員で移住して来たのであったが・・・その両親も亡くなり、そうして気が付くと・・・ルチアはこの町でも指折りの資産家になっていたのであった・・・。
・・・両親は死ぬまで貧しかったのだが、彼女が商才に長けていたおかげで、二人とも、亡くなる間際には、ルチアの家族は皆、町でも屈指の裕福な家庭となっていて・・・その両親の葬儀も、他所の人間であるにも関わらず、どちらにも市長自らが参列し、良くは知らない人物の棺桶に、頭を垂れていたのであった・・・。
そうしてルチア自身は、その町に生まれ育ったイスマエルという・・・そこそこの人物と、幸せな結婚生活を、送っていたのであった・・・少なくとも、見た目には、なのだったが・・・。
そして・・・そのカマーチョ市全体が見渡せる、小高い山というか丘の上に、まるで下界を見下ろすかの様に建つ、邸宅へと、一人の男がやって来て・・・それが前述の、電話で呼び出されたパブロなのであった・・・。
パブロはキョロキョロと・・・しかしながら、目付きだけは鋭く、辺りを見回しながら・・・そのお屋敷、の正面の金属製の柵の横についた、呼び鈴のボタンを押すと・・・ほんのちょっとの間の後・・・若い女性の声で、
「・・・悪いけど・・・裏に回っては貰えないかしら・・・?」
と、その呼び鈴のすぐ横の小さなスピーカーから聴こえて来たので、パブロは、言われた通りに、裏口の方へと回ると・・・まるで彼が来るのを見計らったかの様に、表門とは対照的な、人一人がやっと通れるぐらいの、鉄柵がギィィィ・・・と、独りでに開いて・・・パブロはそれでも、一度用心深く背後を含め、周囲を一周見回してから・・・その鉄柵の扉の向こうへと・・・入って行ったのであった・・・。
パブロはそのおよそ二分後くらいには・・・その屋敷の、おそらくメインルームと思われる、やや抑えた感じの朱色に、金色の糸で刺繍のしてある、見るからに高級そうな絨毯の敷かれた、部屋の中にいて・・・そうしてその家の女主人である、ルチアが・・・彼女はこの町で成功したと言っても、まだ三十になったかならぬか、というぐらいの年齢で・・・しかも若干童顔であったので、もし煌びやかな高級そうな家着、を着てさえいなかったら、下手をしたら、そこいら辺の大学生か社会人一年目ぐらいに見られてしまったかもしれない。・・・その様な女性が、誰もが驚く事に、このカマーチョ市では、成功していて・・・おそらくは、あのアパレルメーカーと、二、三のリッチマンたちを除けば、この町どころか、この国全体でも、良くある長者番付とやらで、上から数えた方が早く名前が見つかる様な、そんな人物ではあったのである・・・。そんな彼女が、部屋へと入って来ると・・・二人はどうやら、以前から顔見知りであったらしく、パブロが、少しだけ怪訝そうな顔で、
「・・・今日は一体・・・どんな依頼です・・・?」
と尋ねると、その女主人、リッチウーマンは、少しだけ微笑みを浮かべながら・・・しかしどこか不安そうにも見えて、
「実はあなたに・・・探して欲しい人間が・・・おりましてね・・・?」
パブロの目付きは、ますます鋭くなって、
「ほほぅ・・・今度は人探しですか? 前回は逃げた犬探し・・・前々回は確か・・・なくした指輪とネックレス探し・・・するってぇと・・・今回は、来世の結婚相手、辺りですかねぇ・・・」
・・・しかしながら、彼女、ルチアはかなり本気だったらしく、微笑むのもやめて・・・真顔となり、
「嫌なら・・・他の人をあたりますけど・・・?」
その表情で、パブロ自身はつい今言ってしまった事を後悔し・・・同時にこれは前回の二件の時よりもかなりシリアスな事案であると瞬時に悟って・・・
「すみません・・・今のは、ジョークでした。そんなつもりでは・・・」
何しろ前回、前々回の際には、見事お目当てのものを探し当てたので・・・その報酬は彼が事前に考えていたよりもべらぼうに高く・・・パブロ自身が驚いてしまったぐらいなのだった。なので・・・。
「では・・・お引き受けに・・・なってくださるのですね・・・?」
「もちろんですよ・・・!」
と、二つ返事で引き受けたのは、言うまでもない事なのであった。
そして彼、パブロの引き受けた内容はというと・・・何とあの、ホセ、の行方を探し出して欲しい、との事なのであった・・・。
実のところ・・・パブロ自身もホセと同じ靴下工場の、しかも第四工場で働いていたので・・・ただしラインは違っていたので、直接一緒に仕事をしていた訳ではなかったのだが・・・顔や背格好ぐらいは、良く見て知っていたのであった。
おそらくだが・・・ルチアもその情報を、どこからか仕入れて来て・・・そうして以前から繋がりの有ったパブロに・・・この様な依頼を・・・。
パブロ自身も、ホセの事は良く知っていると・・・実際には、それほど良く、では無かったのだが・・・そこはアピールして・・・その言葉と、おそらく、以前の二件の成功例、を思い出して・・・ルチアの口元には、再び微笑みが浮かんだのであった・・・。
「・・・じゃあ。この顔写真は必要無いわね・・・?」
と、彼女は、一枚の手に持っていた写真を、クシャクシャに握り潰して、丸めてその部屋の中に無造作に置かれていた・・・おそらく、それ、でさえ、庶民の一ヶ月分の給料ぐらいはありそうな・・・クズかごに放り込むと・・・一枚の封筒をパブロに手渡し、
「とりあえず・・・前金です。経費と考えて頂ければ。もし探し出したら・・・その倍の金額をあなたの口座に・・・」
パブロは黙ってその封筒を受け取り、おそらくその重さだけで、相当の金額が入っていると分かってしまったので、その場では確認せずにいると、
「・・・中身は、見なくていいのですか?」
「ええ、まあ・・・あなたを、信頼しておりますから。」
と、頭の中とは裏腹の言葉を述べたのだが、その女性富豪はただ単純にその言葉を聞くと喜んで、
「・・・ありがとうございます。出来れば・・・早い方がよろしいかと・・・。・・・では。よろしくお願いします・・・。」
それだけ言うと、クルリと百八十度向きを変えて、去って行ってしまったので・・・結局、彼が一番気になった、その理由を訊きそびれてしまったのであった・・・。
ホルヘとトニオとは、その日も朝から会社の車で・・・その日は主に、トニオが運転をしていた・・・相変わらずホセの行方を探していたのであるが・・・ホルヘは彼なりに、警察のコネを使ってみたり・・・ちなみに警察の方では、もうすっかり諦めているらしく、それと言うのも、死体、が出て来なければ事件としては捜査は出来ないし、一応行方不明者として手配はしてはみたものの、何の手掛かりも得られず・・・なので、もう完全にホセの事を追い掛けるのは諦めている様子なのであった・・・という訳なので、警察の線からは、全くと言っていい程、進展は無く・・・そこでという訳ではなかったのだが・・・ホルヘはふと、あるとても大事な人にまだ会っていない事に気が付き・・・そしてトニオに命じて、ホセの自宅、へと向かったのであった・・・。
そして・・・ホレシアに、この度の事では自分も心を痛めている・・・会社からはいずれ、この間、つまりはホセがどこかに行っていたとして・・・戻って来たら、の話なのだが・・・有給扱いとする事を、自分からも、上の人間に掛け合うからと、そう言ってから・・・もしホセから何かしら連絡があった際には、まずこの私、つまりはホルヘの事なのだが・・・の携帯に真っ先に連絡を入れて欲しいと・・・連絡先を記した紙を渡して、取り敢えずはその日はホセの家を後にしたのであった・・・。
車の中で待っていたトニオは・・・営業部長、が戻って来ると、
「・・・あれが奥さんですか。」
「・・・ああ。」
「二人も小さなお子さんがいるなんて・・・何か可哀想ですね・・・。」
「ああ、まあ・・・そうだな。」
しかしその時の営業部長は、何か他の事を考えている様にも見え・・・トニオは若干いたたまれなくもなって・・・再び車を出すのであった・・・。
・・・一方、やはりつい先日の週末と、そして昨晩は実は『ドゥルシネーア』にも顔を出してみたミゲルだったのだが・・・店主のガルシアに尋ねてみても、他の、ホセと面識があったらしい、酔っ払い、たちに話を聞いてみても・・・どれも空振りに終わったので、やはりノンフィクションの壁、の様なモノにすっかりぶち当たってしまい・・・そしてその日、つまりは火曜日なのだが、思い切ってお昼の休憩時間になると、上司である、第三工場の工場長に、親戚の病気、を理由に早退させてもらう事としたのであった・・・。
ミゲルとしては、無論の事、仕事を休んでまで、この一体小説になるんだかならないんだか分からない様な、取材、の為に時間を割く事を、心のどこかでは心苦しく思いつつも・・・しかしながら、その日のミゲルには、なぜなのかは分からぬのだが、確信めいた、予感、の様なものがあって・・・。
・・・そうしていろいろと歩き回って、彼なりに推理した道を辿りつつ・・・気が付くと、彼の道程は、隣町との境にまで、達していたのであった・・・。
そして・・・そこはちょっとした林の様な、木陰になっていて・・・また緩やかな坂道にもなっていたのだったが・・・。
ミゲルがその坂道をゆっくりとだが、登って行くと・・・向こうから、一人の初老の男が歩いて来て・・・つまりは坂道を下って来て・・・そうして彼とすれ違いざま、何と突然、ヨロヨロとよろけたかと思うと・・・その道の上でバッタリと、倒れてしまったのであった・・・。
ミゲルは無論の事、大変驚いて、辺りを見回してみたのだが・・・生憎と、彼とその老人の他には誰もおらず・・・しかしその老人は、地面に横たわったままピクリとも動かず・・・しかしミゲルはミゲルで、一体どうしていいのかが分からず、少し狼狽えてしまったのだが・・・これはおそらく、昔から言われている様に、善きサマリア人、である事を試す、絶好の機会なのではないのかと・・・前述の通り、彼自身は無神論者であったのだが・・・そして、その教えを実践、する為に、その道に倒れた男へと近付いて・・・上半身を起こしてやり、自分自身のペットボトルから、水を上げ・・・するとほんの僅かに、その初老の男は反応を示し、何事かを、ブツブツと呟いていたのであるが・・・ミゲルにはその声がとても小さく、よく聴き取れなかったので・・・耳を近付けると・・・
「・・・!?」
・・・どうやらその老人は、もう間も無く息を引き取った様なのだったが・・・当のミゲルには、それについては関心が無いばかりか、警察や救急車を呼ぼうともせずに・・・何故だか少し体の力が抜けた風となって・・・元来た道を、ゆっくりと・・・坂道を下りながら・・・自宅へと、帰って行ったのであった・・・。
その5
・・・その日は水曜日なのであった・・・。
その日もいつもの様に始まり・・・夜もすっかり明け、鳥たちがあちらこちらで鳴き始め、カマーチョの町も、喧騒で満ちて来て・・・やがていつもの九時の工場からのサイレンが鳴り響いて・・・この町の人びとは、またいつものウィークデーであり、ちょうど一週間の折り返し地点辺りにようやく差し掛かったと・・・なぜだか安堵感の様なものと共に、町は動き出したのだったが・・・。
・・・実は、その裏では、ちょっとした事件というか、出来事が同時に進行していて・・・地元警察が実際、動き出す事態となっていたのである・・・。
それというのは・・・あのミゲルが、自宅である、アパートメントの一室で亡くなっていたからなのであった・・・。
しかしながら・・・彼の住居は、市の中心部からはかなり外れた、しかも奥まった所にあって、まだ警察以外の誰も・・・地元のマスコミでさえも、その事実に気が付いてはいないのであった・・・。
・・・ミゲルは、自分の部屋の・・・彼らしく、彼自身が、書斎、として小説を書く為だけに使用していた・・・しかもその書き物机の上で、PCのキーボードの上に覆い被さる様にして、息を引き取っていたのであった・・・。
最初にそれを発見したのは、このアパートメントの大家で・・・老婆なのだったが、彼女は・・・実はミゲルはもうすでに、家賃を二ヶ月も滞納していて・・・ふと、様子を見に来た・・・彼女の話によると、最近どうも出掛けてばかりで、様子がおかしかったので、夜逃げでもされたのでは堪ったものではないと、何とは無しに、彼の部屋の前まで来ると・・・入口のドアが少しだけ開いていたので、中に入ってみると・・・彼女はしきりに、夜逃げをされたら困るから、と繰り返していた・・・そうして、机の上で突っ伏す様にして、すでに息をしていない、ミゲルを発見し・・・慌てて警察に電話をしたとの事なのだった・・・。
実際、警察に電話が掛かって来たのが、朝の六時ちょっと前、司法解剖の結果、ミゲルが息を引き取った時刻が、大体夜明けちょっと前の、朝五時半ぐらいで・・・大家の証言には、信憑性があったのだった。
そして、ミゲルの死因はというと・・・呼吸困難による死亡、としか分からず・・・取り敢えずは事故死、あるいは自然死という事で・・・物盗りの形跡も無かった・・・一応、片が付いたのだったが・・・。
・・・実は、一つだけ大きな問題があって・・・。
彼が亡くなっていた書き物机の上には、三冊のほぼ真っさらなノートが有って・・・どうやらそれらは、小説を書く為の、アイディアを書き溜める為に購入した様なのだったが・・・実はそのどのノートにも、たった一行だけ、文章が・・・そしてそのノートを購入した際の、レシートがちゃんと部屋には残っていて・・・それは火曜の日付け、つまりは、その、ダイイングメッセージ、の様なものが書かれたのは・・・どう考えても、火曜日の夜から、水曜日の明け方にかけて・・・なのだった。
その一冊目のノートには、
「・・・毎日が休日になる・・・」
とあり・・・警察の人間たちは、始めこの文章を見た時には、ただ単に、今の仕事を辞めたいという事なのだと、誰しもが考えたのだが・・・二冊目には、
「・・・スーパーマンは飛んで行った・・・」
と、書かれていて・・・ミゲルが小説を書いていた事は、大家の証言を始め、部屋の中の様子からも明らかだったので・・・無論の事、彼がノンフィクションを志し始めた事などは誰も知らなかったので・・・これはおそらく、次の小説の構想であろうと、思い、しかし三冊目のノートには・・・
「・・・やがて皆、全ての者が球根となる・・・」
と、書かれていて・・・これもおそらく、小説のセリフか何かに使うのだろうと・・・そう考えて、誰一人として、事件性は無いと判断し・・・たった一人を除いては・・・。
・・・靴下工場ではいつもの様に、コンベアが唸り声と共に動き出し・・・私服の警察官が二人、早速第三工場長の元へと、ミゲルが死去した事を伝えに来て・・・しかしその時点では、特に大きな騒動になるだとかは、無かったのである。
・・・一方、その様な事が起こっているとは知らず、またしても車に乗り込んでいた、ホルヘとトニオとは・・・その日が例の、常務から言われた、三日目、であったので・・・かなり焦りながらも・・・車を出したのであった・・・。
・・・一方、例のパブロはというと・・・水曜日は工場のシフトの日では無く・・・前述の通り、工事現場へと向かい、もう工場が動き出した時間には、道路工事に汗水垂らしていたのだが・・・無論の事、彼もこの件どころか、ミゲルの存在すら知らず・・・ルチアに依頼された件については、今現在の仕事が、順調に行けば午後の四時頃には終わる予定だったので・・・それから一休みした後、ボチボチ始めるつもりなのだった・・・。
・・・アンドレアの萎びた書店も、その日も何事も無く、開店し・・・ちなみに、月曜日はお客は入ったものの、売り上げはゼロで・・・火曜日は、いつもの常連客から頼まれていた、ナントカという、文豪だかの全集がようやく入荷したので・・・その旨を連絡すると・・・早速その人物は受け取りに来て・・・おそらくそれだけで、その週の半分の売り上げを上げたのであった・・・。
・・・なので、アンドレアと夫のエミリオとは、その朝は珍しく夫婦揃って上機嫌で・・・心なしか、エミリオのシャッターを開ける勢いも、いつもよりも余計に力がこもっている様にも見えたのだった・・・。
そして・・・この物語には欠かす事の出来ない人物がまず一人・・・近くの空港に降り立って、運転手付きの高級車が迎えに来た、フェルナンド、という人物で・・・彼はルチアですら比べ物にならない程の、資産と影響力をこのカマーチョ市では持っており・・・主にこの町のインフラは、彼の会社によって整備されたものだったのだ。
そしてその日は、海外からの出張から戻って来て、運転手兼使用人兼ボディガードに、彼が町を離れていた間に、何かトラブルらしきものは起きなかったかと、尋ねると・・・運転手は、彼の耳の側に顔を寄せ、ホセの失踪の話をしたのだが・・・どうもその話には、フェルナンドは大して興味はないらしく・・・しかしながら、一体どこでもうすでにその話を知ったのか、運転手はミゲルの件も報告すると・・・どうやらそちらの件の方が興味を引いたらしく・・・自宅へと戻る車の中で、早速・・・生憎とカマーチョ市警の署長は捕まらなかったので、副署長へと連絡を入れて、情報を確認しているらしいのだった・・・。
しかしながら・・・フェルナンドも、正直、小説家志望の男が、原因不明とは言え、病死した事など、大して興味は無かったらしく・・・早速自分にとっては一番影響の有りそうな、株価やら金利やらいろいろな相場の値をスマホでチェックしていたのであった・・・。
そして、もう一人・・・その男、若者の名前はエンリケ、と言い・・・首都にある、国立大学の三年生だったのだが・・・なぜか船で故郷であるこの町へと・・・戻って来てしまったのであった・・・。
彼、エンリケは、年老いた祖母と、彼にとっては目に入れても痛くはない、かわいい妹と、元々はこの町で慎ましく暮らしていたのだが・・・一念発起して勉強して、少しでも祖母と妹に楽な暮らしをさせてやろうと、せっかく名門大学に合格して、あと少しで卒業、というところだったのだが・・・なぜかまた、このカマーチョ市に、戻って来てしまったのであった・・・。
エンリケの家族は、カマーチョ市の中でも、決して豊かとは言えないが、それでも一軒の借家を借りて、質素ではあるが、のんびりと暮らしていたのであった・・・。
そして・・・首都の大学に行っている筈の、エンリケが・・・その壁にはシミやらヒビだらけの、家のドアを開けて・・・恐る恐る中へと入って行くと・・・案の定、祖母と、妹のアンヘリカは・・・歳はまだ十七なのであったが・・・まるで棺桶の中の人間が生き返ったかの様な目で、エンリケを見て・・・
「・・・お兄ちゃん・・・どうしたの・・・?」
祖母も、キョトンとしながら、
「あれ・・・もうヴァカンスのシーズンだったかねぇ・・・?」
などと言うと・・・エンリケは、いたたまれない様に、
「それが・・・いろいろ有ったんだよ。・・・いろいろとね。」
妹は、驚くというより、半分呆れた様に、
「それで・・・戻って来ちゃったの・・・?」
「ああ・・・まあ・・・」
彼は気まずそうに、入り口の所に、まるで他人の家の様に立ち尽くしていたのだが・・・祖母が、
「まあ、早くお上がんなさいな。あんたの家だろ・・・?」
その言葉を耳にして、初めてようやくその狭い家の中へと・・・帰還、したのであった・・・。
アンドレアの書店では・・・今さらなのだが、店の名前は『サンソン・カラスコ書店』と言い・・・それは資金に乏しかったアンドレアの為に、店を出すのに必要な諸々、手付け金やら空き店舗やらを、いろいろと融通してくれた、恩人の名を冠したものなのであった・・・。
・・・ともかく、その、最初の意気込みとは裏腹に、あまり経営自体は、右肩上がり、とは行ってはいないその書店では、その水曜日のお昼頃も閑古鳥が鳴いていたのだが・・・スーツをきちんと着こなした人物がたった一人だけ、店内にいて・・・本を本当に買うつもりなのか、それともただ単に、時間を潰しているだけなのか・・・ともかく、店内を静かに移動しながら、いくつかの本を立ち読みしているのであった・・・。
と、そこへ、夫であるエミリオが、またしても息を切らせて外から戻って来て・・・スーパーで購入したと思われる、紙袋を、ドサッとその場に無造作に置くと、捲し立てる様に、
「・・・おい、お前・・・!」
すると、アンドレアは人差し指を、シッと口の前にあて、お客がいる事を目で合図をしてから・・・
・・・するとたちまちエミリオは、小声になって・・・女店主の耳元で、
「・・・なあ? ここに以前、自分は小説家になりたいからっていう・・・若い男が来ただろう・・・?」
「ええと・・・お前さん・・・ああ、確かにね。」
するとますます、夫は声を潜めて、
「その・・・何と言ったっけかな? ええと・・・」
彼女は夫の話よりも、大切なお客が今にも店を出て行きやしないかと・・・その方が心配だったので・・・夫には、
「・・・その人が自分で製本したっていう・・・本が確か、その辺りに・・・あったでしょ?」
すると、その週はツキに恵まれていたのだろうか・・・? そのスーツの人物は、とても高そうな分厚い本を、二冊も、レジの女店主の元へと持って来て・・・
「・・・これは、貴重な本なのでは・・・?」
すると、アンドレアはこの、金の卵、を決して逃すまいと、無理にでも引きつった様な笑顔になりながら、
「ええ・・・犯罪小説集・・・エドガワに、ヨコミゾ・・・ええと・・・そうですわ? こちらは、東洋の・・・この国の言葉に翻訳されている物はおそらく・・・どこにも無いかと・・・。お客様、お目が高いですコト。・・・犯罪小説を、お探しで・・・?」
するとその紳士は、スーツの内ポケットの中から、一枚の名刺を差し出して、アンドレアがそれを受け取り、
「・・・ええと・・・カマーチョ市警察・・・ダビド警部補・・・。・・・え!? ・・・警察の方でしたか?」
するとその、ダビド警部補は、
「ええまあ・・・ちょっとこの辺りを、通り掛かったものですから・・・あ、安心して下さい。この本はちゃんと購入致しますから。」
「いやそんな・・・捜査の最中でしたら、ご無理はなさらずとも・・・」
するとそのダビドは、同じ様にポケットから革財布を取り出して、
「いえいえ・・・これはあくまでも、私の趣味で、購入するものですから・・・」
「ありがとうございます・・・!」
そしてダビド警部補は、きちんと数枚のお札を出して、アンドレアにしては珍しい事に、ほんの少しだけ手が震える様な感覚を覚えつつ、二冊とも、丁寧にカバーにくるんで・・・紙の袋に入れたのであった・・・。
「・・・あったぞ・・・! 男の名前は・・・ミゲル・・・何とかっていう・・・」
・・・と、店内の空気を全く読めていなかったエミリオが、一冊の薄っぺらい、いかにもお手製、といった感じの文集の様なものを持ち出して来て・・・すると、レジの前に立っていた、お客、と目が合って・・・アンドレアが、ドジな夫に、
「・・・こちら・・・警察のお方で・・・ええと・・・」
「ダビドと言います。・・・ほほう、それはもしや、例の。」
すると元来お調子者のエミリオも、
「・・・例の。」
と、上手い事話を合わせたつもりなのであった。ダビドも、少しだけその、能天気な夫に向かって、あくまでも一人のお客として、
「・・・なるほど。さすがはこの様な、とても立地の良い場所に、お店を構えるだけの事はありますな。・・・情報がお早い。」
その皮肉とも褒め言葉とも受け取れる様な言葉に対して、ただ夫はポカンとしていたのだが、
「どれどれ・・・少しだけ、拝借をしても、よろしいでしょうか・・・?」
と、ミゲルがかつてその書店に残していった、手作りの冊子、を手にして・・・しばらくの間、ペラペラとめくりながら、読んでいたのであった・・・。
その様子を、不思議そうに眺めながら、その夫は、
「しかし・・・自然死と・・・聴きましたが・・・。・・・つい今しがた、すぐそこのスーパーで・・・なのですが?」
するとダビドは、その冊子には一応目は通し終えたらしく、閉じてレジのあるカウンターの上に置くと、
「ええまあ・・・おそらくは殺人事件とかでは・・・ないのでしょうが・・・あ、これはナイショですよ?」
しかしおそらく、エミリオが口が軽い事は、この一連の言動で分かっていた筈なので、外に出していい情報、なのだろう・・・ダビドは続けて、
「・・・何かこう・・・しっくり来ないというか・・・引っ掛かるものが・・・有るものでしてね。・・・あ、これは家に帰ってから、じっくり読みます。・・・では。いろいろと貴重な情報を・・・ありがとうごました・・・!」
と言うと、その警部補とやらは、購入した二冊の本の入った紙袋を小脇に抱えて・・・店を後にしたのであった・・・。
お客のいなくなってしまった店内に、ポツンと残されてしまった夫婦は・・・しかし、何となくなのだが・・・胸騒ぎ、の様なものを感じてしまったのだが・・・。
相変わらず能天気な夫は、ポツリと、
「刑事・・・かあ。刑事・・・ねぇ・・・」
結局、その日のお客は、その一人だけなのであった・・・。
・・・ホルヘとトニオとは、かなり焦りの色が隠せず・・・しかしながら、思い付いた所は、もうおそらく、ほとんど全て回ったと言っても・・・普段営業で鍛えられている二人にも、さすがに疲労感が漂ってきて・・・もう汗を拭う事すら忘れ去っていたトニオが、ハンドルを握りながら、
「・・・次はどうします? もうおそらく、この町のほとんど全ては・・・回り尽くしたのでは・・・?」
ホルヘも、常務や上役たちに、何の成果も・・・ホセが今頃どこで一体何をしているのかは、さっぱり分かりませんでした、と報告する訳にも行かず、考えあぐねていたのだが・・・すると突然、彼の携帯に、彼が全く知らぬ人物からの、メールが入り・・・
「・・・よし。この先に、確かファーストフード店が有っただろ? ・・・そこへ向かってくれないか?」
トニオはもうすでに、思考回路がおかしくなりかけていたので、
「あ、ハイ・・・部長も、そういう店に行かれるんですね?」
・・・と、メールには全く気が付かずに、目的も分からないまま、車を走らせたのであった・・・。
その6
・・・そのファーストフード店は、本当にごく普通のファーストフードチェーン店で・・・二人はまたしても、昼食を取らずにあちらこちらを行き来していたので・・・時間はもう、午後の三時になっていたのであった・・・。
そして、二人が遅目の昼食を取っていると・・・その目の前に、何の前触れも無く、一人の・・・若いんだかある程度の年齢なのだかは分からぬ様な・・・そんな奇妙で一言では言い尽くす事の出来ぬ様な、男がドカリと座って・・・
「・・・やあどうも。」
などと言うので、
ホルヘも、
「・・・もしかして・・・私の携帯に・・・メールをくれたのは・・・」
するとその風変わりな男は、ニヤけた表情で、終始キミの悪い笑みを浮かべながら、
「・・・ああそうだよ。」
するとトニオが、ぞんざいな感じで、
「・・・名前は・・・何と言うんだね? ・・・目的は?」
するとその男は、笑いつつも、やや機嫌を損ねたらしく、
「・・・まずはそちらから名乗るのが、礼儀ってモンじゃないのかなぁ・・・」
トニオは思わず、身を乗り出して、掴みかからんばかりの表情となったのだが・・・そこはホルヘが静止して、あくまでも紳士的に、
「私は・・・ホルヘと言います・・・こっちは・・・」
「・・・トニオだ。」
するとその、少々不気味な雰囲気の男は、それを聞いて、満足したのか、
「へぇ・・・アンタがあの、ホルヘさんかい? お噂はかねがね・・・靴下って、そんなに売れるモンなんですかね・・・?」
しかしホルヘはそれには答えず、
「・・・あなたの名前を聞かせて貰おう。・・・あと、我々をこの店に呼び出した狙いも。」
「狙いだなんて・・・アタシは・・・ドメニクっていうモンでさぁ・・・。・・・狙いだって? アンタたちが、ホセさんとやらを、探すのに手こずっているらしいんでね。・・・そのお手伝いを。・・・それとも・・・お手伝いは・・・必要ではない・・・?」
トニオは明らかに苛立っている様なのであったが、ホルヘはさすがに、冷静さを保ちながら、
「・・・良くご存知で。・・・一体、誰の・・・」
「まあ・・・特別に、ヒントを差し上げましょう。・・・ホセさんは今は、この町にはおりませんよ?」
「何ですって・・・!?」
ホルヘが驚くと・・・ドメニクは、少し興奮して、楽しくなって来たのか、目をキョロキョロとさせながら、
「・・・実を言うと・・・不治の病にかかっておりましてね・・・とある場所に・・・」
トニオが少し、投げやりな感じで、
「・・・そんな話は・・・信じられないな。」
するとそのドメニクという、まるで道化師の様なキャラクターの男は、
「まあ・・・信じるも信じないも・・・あなた方の自由ですケドね。」
すると、あくまでも冷静なホルヘは、少し落ち着き払って、
「・・・よし、分かりました。もしあなたの言っている事が正しいとして・・・それを証明できますか? 私たちは、生憎と、頭の少々固い人たちに、納得のいく説明をしなければならないモノでしてね。」
すると、なぜだかドメニクは可笑しそうにケタケタと笑い声を上げてから、
「・・・これを。ホセさんからの・・・まあ要するに、休暇願い、ってヤツですかね・・・?」
・・・と、一通の白くて細長い封筒を、二人の目の前に置いたので、ホルヘがそれを手に取って、中身を取り出すと・・・確かに一枚の紙切れが入っていて・・・
「・・・どうです? それで十分じゃあ、ありませんかね?」
その文面を、真剣な表情で読んでいたホルヘは、
「・・・確かに・・・これはホセの筆跡の様だが・・・これを一体どこで?」
しかしドメニクは、もう腰を半分浮かしかけながら、
「ソイツはね・・・訳あって今はまだ言えない事になっているんですが・・・まあ、いずれその内、お分かりになるのでは・・・?」
そう言うが早いか、ドメニクは、あっという間に、その店からは出ていってしまい・・・どこへともなく、去って行ったのであった・・・。
トニオは、相変わらず怪訝そうな表情のまま、
「・・・あんな奴を・・・信じるんですか?」
しかしホルヘは、その、ホセによって書かれたという・・・文面にまだ目を落としたまま・・・
「しかし・・・これは確かに、ホセの字だろうしなぁ・・・」
「・・・本当ですか? 分かるんですか?」
「・・・ああ。長い付き合いだからな。この・・・gとjの字には、特徴があって・・・。」
「ちょっと私も・・・いいですか?」
するとトニオも、その、休職届、を見て、
「・・・ウ〜ン・・・部長が言うのなら、そうなのでしょうか・・?」
するとホルヘは、極めて冷静な口調で、
「・・・それにだ。これを見せれば、おそらく常務も、一応は納得する事だろう。それとも・・・まだこの調査を続けたいのかね?」
その言葉を聞くと、トニオも返す言葉すら見付からず、
「・・・ええ、まあ・・・」
とだけ、答えたのであった・・・。
・・・木曜日となった・・・。
その日は前日とは対照的に、どんよりと曇り・・・まるで何かが・・・それが一体何なのかは誰にも皆目、見当は付かなかったのだが・・・何か不吉なものが近付いて来ているかの様な、そんな空模様で・・・しかしおそらく、そこまで考えた者などは・・・たった空が曇っていただけでは・・・いなかったであろう・・・。
・・・エンリケの家では、彼と、妹のアンヘリカと、祖母とがいて・・・エンリケは少しだけうなだれる様にしていたのだが・・・幸いな事に、二人とも、怖いぐらいに親切というか、しかしそれが却って彼にとっては心苦しかったのだが・・・ふと、朝食の準備をしている二人に向かって、
「・・・ごめん。俺・・・二人に迷惑をかけっぱなしで・・・」
すると祖母は手を止めて、
「・・・何言ってるんだい・・・。お前こそ・・・体は大丈夫なのかい・・・?」
妹のアンヘリカも、
「・・・そうよ。兄さんは・・・今まで頑張りすぎたんだわ?」
などと言うので・・・彼は涙がこぼれ落ちそうになるのを、必死に堪えながら、
「でも俺・・・ここにこうして、ただ家にいるのも良くないし・・・とりあえず働くよ。」
すると祖母が、
「どこでだい・・・? アテは有るのかい・・・?」
「・・・あの工場だよ。」
「靴下工場のこと? ・・・本当に働くつもり?」
と、妹は少し戸惑いつつ、驚いていたのだが、
「・・・ああ。実はもう・・・話はつけてあるんだ。」
「そう・・・なの・・・」
妹のアンヘリカは正直なところ、一体首都の大学で何があったのかは、特には問い詰めはしなかったのだが、兄には、しばらくこの家で休養を取った後、また学業へと戻って欲しいというのが本心だったので、内心少し落胆してしまったのだが・・・兄の決断は固いらしく・・・
「・・・実は、もう今日から働く事になっているんだ。・・・初めは試用期間、だけどね。」
祖母もえらく驚き、
「それは急な話だねぇ・・・。」
と、しかしそれ以上は何も言わず・・・というより、妹も祖母も、それ以上は何も言えなかったのだろう・・・。
例の大金持ちで、若くして成功者となったルチアだが・・・その日もまだ家着のまま、ダイニングルームでくつろいでいて・・・彼女はふと、締め切ったレースの白いカーテンを開け、窓の外を見ると・・・濃い灰色の雲が、遥か彼方まで連なる様に、まるでそれぞれが覆いかぶさるかの様に、続いていて・・・その様なものを見てしまうと、余計に陰鬱な気分になってしまうので、すぐにシャッとカーテンを閉め・・・しかしながら、部屋の中でウロウロとしながら・・・時折座ったり歩き回ったりしながら・・・落ち着かぬ様子なのであった・・・。
・・・そして、部屋の今はまだ薪のくべられてはいない、暖炉の前にある、おそらくはガラス製だろうが、透明の小さなテーブルの前に座ると・・・そのテーブルの上には、一冊の、綺麗に包装された本が置かれていて・・・彼女がそれを開くと・・・中にはおそらくラテン語で、詩が書かれているのであった・・・。
・・・そうなのである。
ホセがアンドレアの書店で買い求めて、それをプレゼントした相手というのは・・・妻のホレシアではなく、ルチアなのであった・・・。
ルチアは・・・一応その文章は読めたものの・・・今は読む気分にはならないのか、またパタリと閉じると・・・なぜホセがこの町でも指折りの、しかもお互い家庭もある御婦人に、その様な高価な詩集を贈ったのかは、今は置いておくとして・・・ともかく、ルチアとしては、一刻も早く、パブロにホセを見つけ出して欲しいというのが・・・今現在の切なる願いなのであった・・・。
・・・一方、ここはカマーチョ市内ではあるが・・・どこかの、それもかなり薄暗い部屋の中で・・・例のダビド刑事と、もう一人、白衣を着た背の低めの、やや小太りの人物とがいて・・・一体の遺体を・・・それは何と、ミゲル、の変わり果てた姿なのであった・・・。
そして、その遺体・・・実はそこは市営の死体保管所、あるいは霊安室と呼ばれている場所で・・・ダビドはミゲルの遺体を、前のめりになって調べている人物に向かって、
「・・・ガスパル、で・・・一体どうだね?」
そのガスパルという、実はただの町医者であったのだが・・・腕だけは優秀で、しかしながら大きな組織に仕えるのに抵抗があるのか、あるいはただ単に、大酒飲みである為だからか・・・カマーチョ市の隅っこの方で、町医者を細々と開業しているのであった・・・。
ダビドは、事件性そのものは無いと判断したものの、どうも長年のカンから、ミゲルの遺体そのものに不審感というか、何かイヤな、モヤモヤとしたものを抱いてしまい、警察署の正規の検視官の報告はあえて無視して・・・そうしてこうして、古くからの友人であった、ガスパルに調査を依頼したのであった・・・。
「・・・どうにもこうにも・・・一応検査に必要な検体は採取したがね・・・」
「・・・すぐには・・・分からんか・・・?」
「分かったら・・・俺はとっくにノーベル賞でもいただいて・・・今頃はのんびり、引退生活でもしているさ。」
「お前の・・・病院に持って帰れば・・・」
そこでなぜか、大汗をかきながら、その町医者は小さく欠伸をして、
「それでも無理だなぁ・・・ちゃんとした検査装置がない事には。」
「それはつまり・・・?」
医学的な知識は殆どと言っていい程・・・おそらくこれが、殺された、人間ならば経験から推し量る事が出来たのだろうが・・・全く無かったと言ってもいい、その、名刑事はまだ要領を得てはいない様子だったのだが・・・
「まあ・・・この町でそれがあるのは・・・あの大学だけだろうなあ・・・」
「クソッ・・・!」
「・・・そう言うだろうと思ったよ。」
その大学とは・・・あの例の、この市一番の有力者である、フェルナンドが数年前に作った、『サン・フェルナンド理工大学』の事なのであった・・・。
無論の事、殆どが彼の資金で・・・全面的にフェルナンドのバックアップの元、最新の医療器具やら、実験施設やらを備えた大学が出来上がったのだが・・・彼によると、その大学の名前は彼の名前を冠したものでは決して無く・・・中世の昔にこの地で布教活動をしていた宣教師の、フェルナンド神父、に因んだとの事で・・・しかしおそらく、その様な歴史的な事実、を何も知らない一般の市民からしたら・・・この大学を建てた人物の事であろうと・・・誤解してしまったに違いないのであった・・・。
・・・ともかく、ダビドとしては、例えその、フェルナンド自身が土下座をして来たとしても・・・むしろお願いするのはダビドの方なのだったが・・・彼はフェルナンドという人物の事をいたく嫌っていたので、
「・・・仕方ないな・・・」
「あの大金持ちに・・・依頼するのか・・・?」
「するもんか・・・! ともかく・・・しばらくお前のところでそれは・・・預かっておいてはくれないか・・・?」
「オイオイ・・・預かるって・・・ウチではあまり長い期間は・・・」
「とにかく頼んだよ。」
・・・と、ダビドは言い放つと、素早くその霊安室、からは出て行ってしまい・・・ガスパルは今さらながら、高級の酒と引き換えに安請け合いをしてしまった事を・・・後悔しているのであった・・・。
・・・パブロはというと・・・その日は靴下工場のシフトの日であったのだが・・・ルチアの仕事の方が報酬も良く、しかも彼の情報網、から耳にした情報によると、彼の他にもホセの行方を探している連中が複数いる様で・・・パブロにしてみれば、一緒の工場で働いていた、ただの一工員であり、しかも飲んだくれだとの噂もよく聞く、その様な男ごときになぜその様な価値があるのかと・・・思わずあれやこれやと、疑ってしまったのだが・・・しかしそれはそれ、だったので・・・とりあえずホセの居所を掴むまでは、工場の方は火曜日だけの出勤にしてもらい・・・そうして、一刻も早く、その、飲んだくれを・・・見付けて・・・。パブロにしてみれば、金さえ手に入れば、それで良かったのだ。
そして・・・やはり彼はただ者では無いらしく・・・早くもその木曜の午後には、ホセがどうやら、このカマーチョ市ではなく、隣の市内の病院にいる事を突き止め・・・早速向かったのだが・・・なぜか面会謝絶となっており、実際いるのかいないのかが・・・確かめる事が出来なかったのだった・・・。
おそらくこの情報だけでは、依頼主、であるルチアが納得する訳もなく・・・しばらくその病院の付近に車を停めると、そこで辛抱強く、待つしかないのであった・・・。
・・・一方、工場に朝早くから出勤した、ホルヘとトニオとは・・・トニオはそれで、お役御免、となったのでまたいつもの、営業課へと戻り・・・一人ホルヘだけが、ホセの「休職届」を手にして、常務の元へと・・・向かったのであった・・・。
そして・・・常務にその「休職届」の封筒を差し出すと・・・常務は革張りの椅子に腰を下ろしたまま、やや胡散臭そうな目で、ホルヘを見上げつつ・・・中身を確認すると、
「・・・で? 彼は・・・この男は、今は一体どこで、何をしているんだね?」
ホルヘは、ドメニクの話をそのまま伝えるのはさすがにまずいと思ったので・・・その、ホセの筆跡で書かれた、文章に辻褄を合わせる様に・・・そこには、病気の為、としか書かれてはいなかった・・・
「・・・ええ。今は実家のある町で・・・静養しております・・・。わたくしも、実際に会って、お見舞いの花束を・・・渡して来たところでして・・・」
・・・嘘も方便、とはこの事なのだろうが・・・胡散臭い目で見ていた常務も、しかしその様な説明で一応満足したのか・・・打って変わって、笑顔となり、
「・・・そうか! やはり・・・キミは仕事が出来るじゃぁないか・・・! きちんと三日で成果を上げたしな。まあ・・・とりあえずは、事件とかではなく、安心、と言ったところだな。」
・・・と、ホルヘの話を鵜呑みにしたのだが・・・抜け目の無い彼はもちろんトニオにも、もし誰かに訊かれたら、全く同じ事を言う様にと・・・あらかじめ示し合わせておいたので、内心ホッとはしていたのだが・・・しかし・・・。
・・・しかしやはり、彼にはどうしても、あの、ドメニクという男の事が気掛かりで・・・どうやってホセの情報を仕入れたのか? ・・・はたまた、一体誰の指示で動いているのか? もしそれが、この会社の別の重役などであったりしたのならば・・・ホルヘの嘘は、バレてしまう事となり・・・彼の身も、万が一ではあるのだが、危うくなり・・・。
・・・しかしながら、先日のメルアドに返信をしてみても、もうすでにアドレスを変えてしまったらしく・・・その事からしてみても、相当に用心深い人物の様であり・・・。・・・とりあえずは今のところは、彼には為す術は無いというか、あまり余計な事をして、藪蛇、となる事だけは非常に愚かであったので・・・しばらくはまた元の部所に戻って、元の仕事に精を出すつもりであったのだった・・・。
・・・そうしてホルヘは、‘常務室’からは退出をし・・・自分の「営業部 営業課」へと・・・その途中、廊下でトニオとたまたますれ違ったのだが・・・目でお互い合図というか、挨拶を交わすと・・・トニオはどうやらまた意気揚々と・・・自分の‘天職’である、営業に出て行くところなのであった・・・。
そしてそれと全く同じ日に・・・エンリケも靴下工場で、研修生として働き始め・・・それは何とあの、ホセと全く同じ、第四工場の、しかも同じラインで・・・それもその筈、その工場と、ラインではホセがいなくなっただけではなく、パブロもほんのちょっとだけ休暇を取っていたので・・・ただでさえ人手が足りなかったのだった・・・。
彼エンリケは・・・首都の大学では文学を専攻していた・・・元来機械やら、工具類などといった物には、殆ど縁は無く・・・慣れない手つきで・・・しかしながら、祖母と妹のアンヘリカを食べさせる為に、必死になって靴下を生産、し始めたのであった・・・。
その7
・・・金曜日となった・・・。
普通に週休二日制で働いている者たちにとっては、その日一日を乗り切れば・・・ようやく待望の二連休、が待っており・・・そうしてラストスパートとばかりに、皆朝早くから、仕事場へと急ぎ足で向かい・・・
・・・しかしながら、話はまた前後してしまって誠に申し訳ないのだが・・・これも文章を書く、などという作業にはあまり慣れてはいない、この私があえて・・・この様な事を書いたのでは却って、言い訳をしている様に思えてしまうのだろうが・・・そうとしか言いようが無かったのである・・・。
と、いう訳なので・・・時間はほんの若干、数時間前へと戻って・・・木曜日の夜十一時頃・・・それはつまり、ちょうど一週間前に、ホセが忽然と姿を消した時間でもあり・・・実はそれとほぼ全く同じ時刻に、あの、ダビド刑事が、『ドゥルシネーア』へと・・・一体何の用なのか、訪れていて・・・しかし店の主人である、ガルシアは彼が警察の人間である事は・・・何せ、小さな町なので・・・きちんと心得ていて・・・しかし店主にしてみれば、何もやましい事は無かったので、ごく普通に、しかもダビドは、勤務中では無いのだろうか・・・? ・・・スコッチの水割りなどという、少々シャレた物を、もう数杯は飲んでいて・・・しかし酒には強いらしく・・・全く酔ってはいない様で・・・ガルシアや、他の常連客と思われる、酔っ払い、たちに・・・ホセやミゲルの事を、尋ねて回っていたのであった・・・。
ガルシアにしてみれば・・・少々迷惑な話ではあったのだが・・・実のところ、以前何度か、この店が違法な薬物の取引に使われた際に、この店自体については見逃して貰った、という借り、もあり・・・しかもきちんと酒は注文している、お客、でもあったので・・・追い返す訳にもいかないのであった・・・。
・・・ダビドは徐々に、足がもつれた様になりながら・・・しかし抜け目の無いガルシアから見れば、それはもしかしたらダビドの、演技、かもしれず・・・。
・・・そうして徐々に、店内の客は、一人また一人と・・・帰路へと着いて・・・とうとう店内には、酔いつぶれて眠りこけた数名の客を除けば・・・カウンターに‘しらふの状態’で腰掛けていたダビドと、店主のガルシアとが、向かい合っていて・・・。
どうやらダビドは、時々洗面所に行くと見せかけて、水を飲んでいた・・・少なくともガルシアはその様な目付きで、真正面に平然と座る、ダビドを胡散臭げに見ていたのだが・・・ダビドがふと、
「・・・なぁ。お前さん・・・実はホセの居場所か、ミゲルが突然死んだ理由を・・・知っているんじゃないのかね・・・?」
「・・・何の事です・・・?」
と、ガルシアはあくまでもとぼけたのだが、その刑事はかなりしつこいらしく、
「ところで・・・今夜はオレは・・・久し振りに少し飲み過ぎちまった様だ・・・。・・・全部で幾らだね?」
ガルシアは、かなり冷めた口調で、
「全部で・・・9キリングと12マルダルに・・・なります。」
「へぇ・・・意外とお前の店は・・・優良店なんだな・・・?」
・・・と、ダビドは少し多めに、10 キリング札を、カウンターの上に置いたのだが、
「それは・・・一体どういう意味です?」
と、素早くその札をレジのドロアーの中へと押し込むと・・・訊いたのだった・・・。
「どう・・・って? ・・・何か・・・やましい事でも?」
ガルシアはまるで表情を変えずに、
「・・・いえ。」
とだけ、言ったのだが・・・ダビドは少しだけ余裕の笑みというか、彼からは真正面になる、バックヤード、の倉庫らしき方向を見て、
「・・・ところで・・・隣町の、外資系のスーパーマーケットの、酒を保管している倉庫が襲撃された事件は、知っているかね・・・?」
「さあ・・・何の事だか・・・?」
「ちょうどそう・・・二ヶ月程前の事件だったかなぁ・・・? ・・・俺がさっき飲んだスコッチの、瓶の底の下に、見た事の有る様な無い様な・・・ラベルが着いていた様なんだが・・・?」
これはおそらく・・・この老練で抜け目の無い刑事の・・・いわゆる、カマを掛けた質問だったのだろうが・・・どうやら店主としては、それ以上とぼけるのは不利であると、悟り始めたらしく、徐々にではあるが、表情がぎこちなくなって来て・・・。
「俺は・・・何も知りませんよ?」
「誰も・・・あんたが実行犯だったとは言ってないぞ・・・? ただ・・・あの時盗まれたブツの大半は・・・まだ回収されていないものでね・・・」
「・・・・」
ほんのしばらく、沈黙の時間が流れたのだが・・・時計の針はもうすでに、金曜日、の一時半を回っていて・・・
「・・・分かりました。分かりましたよ・・・! これは、ある常連の客から聴いた話なんですがね? ホセは、例のあの・・・」
・・・と、声を潜めて・・・特に誰も他には聴いてはいなかったのだが・・・そして、ガルシアが知っている限りの情報を・・・。
どうやら、その晩は、ダビドの粘り勝ち、と言うか、勝利、で終わった様なのであった・・・。
一方、ルチアはというと・・・時刻は金曜日の早朝なのであったが・・・パブロからの、報告の電話をただ黙って聴いていて・・・そして、一言、
「じゃあ・・・もう少し時間が掛かりそうなのね・・・?」
パブロは電話の向こうで、
「・・・ええ。申し訳ございません・・・。」
「あなたが謝る事はないわ・・・。」
「ええ、まあ・・・」
パブロにしてみれば、ホセの居所を掴んだ時点で、してやったりと思ったものなのだが・・・やはり人生、そう思う様には行かず・・・
「・・・いいわ。あなたに全て、お任せしますので・・・。」
と、依頼主からのお言葉を頂くと・・・やれやれという風に・・・これならば工場で靴下を作っていた方が、金になったではないか・・・と、ほんの少しため息をつきつつ、ホセのいるという、病院の見張りを続けるのであった・・・。
一方のルチアは・・・ちょうどその時、たまたまその時分には海外に出張に行っていた、夫のイスマエルから電話が入り・・・彼は妻の資金を元手に、絵やら調度品やら美術品やらの、買い付けをしていて・・・一年の大半を、海外とを行ったり来たりしているのであった・・・。
夫は、何やら少しだけ眠たそうな声で、
「・・・やあ、ルチア。そっちは・・・変わりはないかい? 体調とかは、大丈夫かね?」
と、一応気遣ってくれるので、彼女も、
「・・・ええ。私は平気よ? ・・・あなたは・・・順調なの?」
するとイスマエルは、声だけは元気な調子に戻って、
「ああ・・・まあ、順調といえば、順調かな・・・?」
「それは良かったわ・・・」
実のところ、ルチアがもう、とっくのとうに気が付いている事を、おそらくは旦那自身はまだ知らずにいたのだろうが・・・彼が海外に行く度に、必ず立ち寄る場所があって・・・それも美術品などの、買い付けとはおおよそ関係のない、とある小さな町で・・・ルチアからしてみれば、おそらく女でもいるのだろうと・・・。・・・と、言うのも、彼女の元に、毎回必ず同じ住所から掛けていると思われる、国際電話の請求書が届いていたのだが・・・夫にかつて、それとなく尋ねてみたのであるが、上手い具合にはぐらかされて・・・そしてルチア自身が、夫の目を盗んで彼の携帯から、その番号へと電話をすると・・・若い女性の声で・・・。しかしそれは彼女には全く通じない、外国語であったのだが・・・しかしながらそこは、オンナのカン、という奴で・・・最近では、イスマエルから来る電話の、背後で聴こえる独特な船の汽笛の様な音と、その雰囲気とで、おそらくは港町なのだろうが・・・それがどこなのかは彼女は分かってしまったのだが・・・ルチアの名誉の為にもここでは記す事は出来ないのだった・・・。
彼女が又しても、レースのカーテンをめくると・・・確かに先程までは晴れていた筈なのに、いつの間にやら、太陽が雲に隠れてしまっていて・・・彼女の心もまた・・・しかしいつもの如く、それをピシャリと素早く閉じると・・・まるで見たくは無かったモノを、見てしまったかの様に・・・そうしてその日の朝は、例のガラスのテーブルの上の、詩集をパラパラとめくりながら・・・一人、物想いに耽るのであった・・・。
工場に出勤して二日目、若いエンリケは、早くも・・・己の力不足というか、つくづくこういった単純作業の様な、仕事は向いていないと・・・痛感したのだが、今さら後にも引けず・・・しかしそれでも、何とかその日の作業は終えて、帰宅するところなのであった・・・。
彼の家は、カマーチョ市と隣町との境目、辺りにあったのだが・・・彼は気晴らしにというか、日中の作業でのどうもすっきりとしない気分を、紛らわそうと・・・家の前を通り過ぎてだいぶ歩いて行くと・・・気が付くと隣町とのちょうど境の、坂道へと・・・そう、そこはあの、ミゲルが生前、善きサマリア人、を演じた、あの坂道なのであった・・・。
そしてエンリケはミゲルとは違い、坂道を完全に登り切って・・・すると突然道の両端の木々は姿を消して・・・その頂きからは、海やカマーチョ市の街並みが一望出来たのであった・・・。
そしてふと、彼がその海の方向とは逆の方向を見ると・・・そこはもうおそらく隣町で、町、と言うよりは、小さくて古ぼけた家々が一箇所に寄せ集まる様にして、並んでいる・・・村の様になっていたのであった・・・。
彼はふと、若さゆえの好奇心からなのか、その村へと高台から下りて行き・・・すると彼はそこで、あるとんでもない光景を・・・目にしてしまったのである・・・。
一方・・・車の中で辛抱強く病院を張っていたパブロは・・・その中へとある人物が入って行くのを目にしたのだった・・・。
それは有名人、という訳ではなかったのだが・・・情報通の彼にとっては、良く知る人物で・・・あの『サン・フェルナンド理工大学』の教授でもある、ソフィアという女性医師なのであった・・・。
そしてこれはおそらく、ホセの件にも関わっているのではなかろうかと・・・直感的に悟ったのだが・・・まだ確証はなかったので、とりあえずは成り行きを見守る事としたのであった・・・。
エンリケがそのあまり豊かそうではない、村の家の一軒の中へと・・・扉が開け放たれていたのであった・・・入って行くと・・・かなりの高齢の男がひどく咳き込んで、ベッドに横たわり、しかしながら医療体制のほとんど整ってはいないこの村では、ただそうするしか、術は無かったのであろう・・・?
エンリケは慌ててその村を後にして・・・大急ぎで彼が向かった先は・・・ちょうどカマーチョ市内では、彼の家とは真逆の位置にある・・・あの町医者である、ガスパルのクリニックだったのである・・・。
実はエンリケのもうすでに亡くなった父は・・・医者であり、しかもガスパルとは古くからの友人なのであった・・・。
・・・なので、エンリケから見れば、その町医者はただの知り合いと言うよりは、むしろ父親の様な存在に近く・・・彼が幼い頃に亡くなってしまった父親にしてみれば・・・もし今生きていれば、一人息子を自分の後を継いで、医師にしたかったのだろうが・・・生憎と、彼は文学の道を志してしまい・・・しかしそれも中途となってしまって・・・。
・・・そうしてどうにか・・・小さな町とは言っても、端から端まで辿り着くには、いくら若者の足でも、やはり一時間以上は掛かってしまい・・・しかしエンリケは、ようやくそこへと辿り着くと、その、ガスパルが細々と開業しているクリニックの門を叩き・・・幸いな事に、ガスパルはそこにいて・・・しかもエンリケがかつての友人の息子だと知ると、いたく喜んで・・・しかし彼がたった今見て来た状況を聴くと・・・突然彼の顔付きが変わり・・・彼と一緒に、今度はタクシーに乗って、その隣村へと・・・向かったのであった・・・。
・・・そして、二人が大急ぎでその村へと着くと・・・タクシーを下りた二人の前にはなぜか・・・あの、ドメニクが、相変わらずニヤけた表情で、その村の入り口に、立っていたのであった・・・。
その8
・・・ドメニクはただニヤニヤと・・・口角を上げて、笑っている様なのであったが・・・ガスパルとエンリケはタクシーから下りると・・・慌ててまず、つい先程の、民家へと入り・・・そしてガスパルは、すぐにその家を出ると、次々に、その村の家という家を、片っ端から走りながら見て周り・・・そしてエンリケには、医療用のマスクを渡すと、自分もそれを付けて・・・全くのシロウトであるエンリケにも・・・どうやら何かただ事では無い事が起こっているのが・・・明らかではあったのだが・・・。
ふと、村の入り口の所に、まだあの、ドメニクが立っているのを認め・・・しかしながらエンリケは無論の事、彼の事は知らなかったので・・・特に注意を向けるという事は、しなかったのだが・・・。
するとドメニクの方から、エンリケというよりは、ガスパルに向かって、
「・・・サン・フェルナンド理工大学が管理している、病院の一室に隔離されている・・・ホセという人物をご存知ですか・・・?」
などと言うので、ガスパルの足は思わず止まり、
「・・・キミは・・・一体・・・。・・・一体何が目的なんだね・・・?」
と、問い詰めるかの様に訊いたのだが、ドメニクは相変わらず同じ表情のまま、
「何なら・・・このわたくしが、ご案内致しましょうか・・・?」
それでもしばらくの間は、村の中を駆けずり回っていたガスパルだったのだが・・・不意に、ドメニクの前で足を止めると、
「・・・よろしい。では、案内してもらおうか・・・?」
すると・・・いつ現れたのかはガスパル、エンリケの二人とも全く気が付かなかったのだが・・・一台の、そこそこ高級そうな車が一台、停車していて・・・。
ドメニクは、エンリケにも、
「・・・どうぞ?」
などと勧めるので・・・二人してその車に乗り込み・・・やがてゆっくりとだが、車は動き出したのであった・・・。
そして、その行き先は、カマーチョ市にある、大学とは全く違う方向へと進んでいたので、思わず、ガスパルが、
「・・・ちょっと! 大学に・・・いるのでは・・・ないのかね?」
すると、やはりまたしても、その普段からニヤけた面構えの、ドメニクはさらに、ニタリ、笑いながら・・・
「・・・まあまあ・・・そう御心配なさらずとも。ちゃんと目的地へと・・・向かっておりますから・・・。」
と、まるで人を小バカにした様な・・・少なくともガスパルにはそう見えたのだった・・・笑顔は決して絶やさず・・・。
そうして車は、あのパブロが張り込んでいる、隣の市である、サアベドラ市という小さな町の、病院へと向かったのだった・・・。
・・・そしてその途中、車は一旦道路脇で止まると・・・何と驚いた事に、刑事のダビドが、その満席の車の中へと、無理矢理乗り込んで来たのだった・・・。
ただでさえ、シートベルトですらキツそうに締めていたガスパルが、少し席を詰めながら、
「オイオイ・・・お前さんまで・・・何で?」
するとダビドは、まるでちょっと勝ち誇ったかの様に、
「・・・なぁに。少しだけ、あのフェルナンドの奴を・・・くすぐってやったまでの事だよ。」
「フゥ〜ン・・・くすぐった、ねぇ・・・」
・・・そのおおよそ一時間程前の事・・・カマーチョ市の大立者である、フェルナンド自身の会社が建設した、高層マンションの一室には・・・その部屋は通常、そのオーナー自らが仕事用の、事務所、として使っていたのだが・・・そこにはもう一人、ダビド刑事がいて・・・彼は思い切って、敵の懐、に飛び込んだのだった・・・。もしかしたら最悪の場合、飛んで火に入る何とやら、に成りかねなかったのだが・・・しかし彼には彼なりの、計算があって・・・。
そして、なぜだかやや不機嫌そうな、その部屋の主に対して、
「・・・という訳ですよ。私の言いたい事が、お分かりで・・・?」
するとフェルナンドは、手にしていたミネラルウォーター入りのグラスを、事務机の上に置くと、ほんの少しだけ追い詰められた様な表情にも見えたのだが・・・
「・・・しかし、何か証拠が、あるんですかね?」
「まあ・・・直接的な物は、特に何も。・・・しかしながら、あなたはあの外資系のスーパーマーケットの株主の一人でもありますし・・・そしてあの襲撃事件以来、あのスーパーの警備を、あなたが親族に任せている警備会社が一手に引き受け・・・今はその会社の株が、鰻登りですよね・・・?」
「私が事件を、自作自演したと・・・?」
「そんな事は・・・私は一言も申してはいませんが・・・? ・・・これは少し驚きですねぇ・・・その様な考えが、有ったとは・・・!」
その一言を聴くと、フェルナンドはすっかり無表情となり、かなり不機嫌そうに、黙ってしまったのだが・・・
・・・そうしてその後の事は・・・全くの私の独断と偏見でしかなかったので・・・イマイチ確証というか、確かな事は分からなかったので・・・あえて触れない事とするのであるが・・・しかしこうして、あのフェルナンドの方が折れて、ダビドも、ホセ、の元へと向かったとなると・・・。
・・・それとは全く違う場所・・・それはもうすでにお馴染みの、靴下工場なのであったが・・・。
トニオがようやく、もう陽もとっくに暮れたというのに、ようやく営業から戻って来て・・・するとまるでそれをねぎらうかの様に、上司である、ホルヘがたった一人で、待ち構えていて・・・他の社員たちはもうすでに、退社していたのであった・・・。
「・・・ご苦労さん・・・! これから一杯・・・どうだね?」
するとトニオは、乗り気ではあったらしいのだが・・・やや気まずそうに、
「そうしたいのは・・・ヤマヤマなのですが・・・。生憎、今日はカミさんの、誕生日でしてね。」
しかしホルヘは残念がるどころか、むしろ喜んで、
「・・・そうかね? それじゃあ、こんなとこにはいつまでもいないで、早く帰ったらどうだ?」
「あ、ハイ・・・そうします。申し訳ありませんが、飲みはまた次回で・・・すみません・・・!」
「いやいいんだよ・・・」
そしてホルヘは、財布の中から幾らか現金を取り出すと、その有能な部下に、手渡したのであった・・・。
「い、いやこれは・・・」
「剥き出しのままで済まんな・・・二人で何かうまい物でも、食べる足しにでもしてくれよ。・・・デザート代ぐらいには、なるだろ?」
「いつもすいません・・・」
そしてトニオは、大急ぎでその部屋から出て行こうとしたのだが・・・突然、立ち止まると、
「・・・あ! そう言えば部長・・・!」
「・・・なんだね?」
「あのホラ・・・この間の、ファーストフード店で会った、顔のニヤけた男ですが・・・思い出しましたよ。」
「・・・何をだね?」
「あのええと・・・実業家で大変なリッチマンの・・・フェルナンドとかいう男と、以前一緒にいたのを、たまたま営業の途中に、見掛けた事が・・・」
「・・・本当かね?」
「ええ・・・あのニヤけた面で、ふと思い出しましたよ。確か・・・私が営業で出ている時に、道路の反対側で・・・その、実業家のフェルナンドと親しげに話していたのを・・・。・・・それ以上の事は分かりませんが・・・。」
「そうか・・・どうもありがとう。」
それを聞くと、ホルヘは少し考え込んでしまったのだが・・・トニオはそれには構わず、我が家へと急ぎ、
「それでは・・・失礼致します・・・! いつもありがとうございます! デザートはとびきり豪華な物にします・・・妻もきっと喜びますよ・・・!」
と、素早く去って行ってしまったのであった・・・。
ホルヘは、しばらく何事かを考えている様なのであったが・・・。やがて、工場を出ると・・・とある場所へと、一人向かったのであった・・・。
・・・一方、四人乗りの乗用車に、運転手を含めて五人が乗り込んで・・・特に後部座席が、ギュウギュウ詰めなのであった・・・。
そして、助手席に悠々と座っていたドメニクは、後方を相変わらずニヤけながら振り返り、
「・・・さ。着きましたよ?」
と、一番に車から下りて・・・そこはやはり、例のソフィアという女性の医師が入って行った、病院で・・・後部座席の三人は、ようやく狭い空間から解放されて、ゾロゾロと這い出て来たのであった・・・。
そして運転手を除く四人は、その病院へと入って行き・・・。
・・・少し離れた地点で見張っていたパブロは・・・その四人の中の、ダビドの顔だけは知っていたので・・・何事かと・・・しかし、何かがその病院内にある事だけは、確かな様であったので・・・彼はそこで、依頼主である、ルチアにとりあえず、途中経過として、携帯で連絡を入れたのであった・・・。
そしてパブロとしては・・・出来る事なら、自分が一番乗りしたかったのだが、どうやら先を越されてしまったらしく・・・しかしおそらく、病院のセキュリティは厳重であると考えられたので・・・結局何も出来ぬまま、口惜しい思いで、ただ指をくわえて、ひたすら待つしかないのであった・・・。
・・・例の、フェルナンドの仕事場のオフィスには、意外な人物が二人、やって来ていて・・・それは書店の店主のアンドレアと、そしてホルヘなのであった・・・。
実はホルヘは、かつて何度も『サンソン・カラスコ書店』にも営業に行った経験があり、そこで彼女の夫のエミリオが例の如く、とても親しげな人物であったので・・・たちまち意気投合し、実を言うと、何回か飲みにさえ行っていたのであった・・・。
当時はまだ、何の肩書きも無かったホルヘにしてみれば、例え靴下が一足も売れなかったとしても、いくら落ちぶれていたとはいえ、かつてこの近辺を支配していたとさえ言ってもいい、アンドレア家と繋がっておくことは、将来何かの為になるのでは?・・・と、その時は考えたのだが・・・まさか今頃になって、この様な形で、役立とうとは・・・。
そしてアンドレアとフェルナンドとは・・・実は今彼らが立っているその土地も、元々はアンドレアの一族が所有していたものを、やむに止まれず、売りに出したもので・・・。
片方は落ちぶれ、片方は今や飛ぶ鳥を落とす勢いの、好対照な二人なのだったが・・・ホルヘはそのアンドレアに頼んで、友人であるホセの居所をどうしても知りたいと・・・そう頼み込んで、無理を言って、このオフィスに乗り込んで来たのであった・・・。
サアベドラ市内にある、『サン・フェルナンド疾病管理センター』などという・・・仰々しい名前の付いた、建物に、ドメニクを先頭に、ガスパル、ダビド、そしてなぜか全くの素人で、無関係である筈の、エンリケも入れてもらえて・・・その清潔だが、妙に張り詰めた空気というか・・・あちらこちらに、カメラがついているのであった・・・そしてエレベーターでかなりの高さまで、しかしスムーズに、しかもあっという間に上がって行き・・・そうして、チンッ、という金属音と共に、エレベーターの扉が開くと・・・そこには物々しく警護をする、それがおそらくダビドの言っていた、フェルナンドの親族が経営する警備会社の人間たちなのだろう・・・? ・・・らが数名いて、しかしドメニクは顔パスらしく・・・そうして四人は、とある病室の前で、まるで防護服の様な、全身を白いツルツルとした鎧の様な物、で覆われた服に着替えると、その部屋の中へと・・・入って行き・・・。
それからおおよそ、一時間半ほど遅れて、又しても運転手がハンドルを握る、高級車が一台・・・その中には、アンドレアと、ホルヘ、そして・・・フェルナンド自身が乗っていて・・・向かった先はというと・・・やはり先の四人と全く同じ、サアベドラ市の『・・・疾病管理センター』なのであった・・・。
その9
・・・その病室の中には、やはり完全防護服を着た、医師であり、大学教授でもある、ソフィアと思しき人物がいて・・・彼女の視線の先には・・・おそらく、ホセ、なのだろうか・・・? 彼は・・・無論の事、酔い潰れてベッドに横になっていた訳では無かった・・・しかもその部屋は、二重になっていて・・・ホセ、はガラスで仕切られた、さらに一番内側の部屋に・・・どうやらその時は眠っていたのか、まるで身動き一つせず、しかしたまに寝返りを打つかの様に、動く事はあったので、どうやらかろうじて生存はしている様なのであった・・・。
そして・・・彼の口には何かの、医療用のチューブの様な物が取り付けられていて・・・そのチューブを、その部屋へと新たに入って来た四人、が目で追って行くと・・・これまた何だかとても高価で、世界に数台しか無い様なシロモノ、といった感じの・・・真四角で、無機質で、一見しただけではよく訳の分からない、ボタンが無数に付いて点滅している・・・装置へと、繋がっているのであった・・・。
その光景をおそらく一番熱心に見入っていたのは、同じ医師でも、治療する場所やら器具やら規模やら、資金から何から何まで、自分のクリニックの物とは比較にすらならない・・・ガスパルなのであったのだが、しかし彼は、特に羨ましがるだとか、そういった様な態度ではなく・・・ただ単純に、まるで思春期の少年の様に目を輝かせながら・・・防護服のせいで何を言っているのかは他の者たちには聴き取れなかったのだが・・・時々喚声を上げて、驚嘆している事は、明らかなのだった・・・。
・・・しかしながら、殆ど身動きすらしない、その患者、をいつまでも見ていても仕方がないので・・・ソフィアに促されて、全員がその部屋を退出すると、別の部屋へと案内されて・・・そこで防護服をようやく脱ぐと、今度はさらに、隣の会議室の様な部屋へと移動し・・・そこで、ソフィアを前にして、ガスパル、ダビド、エンリケの三人が向かい合う様にして、長テーブルを挟んで腰を下ろし・・・ドメニクは相変わらず、一人落ち着かなく・・・そういった性分なのだろうか?・・・その会議室をたまに出て行ったり、気紛れにまた戻って来たりしていたのだった・・・。
ソフィアが、重たい沈黙を破って、三人に話を始めるのであった・・・。
「・・・あれが・・・皆さんが、特にそちらの・・・」
それはダビド刑事の事なのだったが・・・
「・・・警察の方々が、必死になって探しておられた・・・」
すると、まだ興奮覚めやらぬのか、ガスパルが、依然として少年の様な澄んだ目で、
「ところで・・・あれは一体何と言う医療器具なのでしょう・・・? 実は私も、お恥ずかしながら、初めて見る物でして・・・」
ソフィアはしかし、極めて冷静に、と言うより、むしろ冷酷なぐらいに、
「・・・あれはこの、サン・フェルナンド財団が特別に発注して作らせた・・・しかし、それ以上は。・・・申し上げる事は出来ません。申し訳御座いませんが・・・一応、企業秘密というか・・・トップシークレットなものでして・・・」
するとガスパルは、ほんの少しだけ落胆した様なのではあったのだが・・・
「しかしそれにしても・・・この様な建物が有るだけでも・・・いやあ、羨ましい・・・私の所など・・・」
「・・・何ならこちらで雇って貰うか? ・・・おそらくはまた、助手、からだろうがな。」
などと、ダビドが皮肉を言うと、
・・・その女医は、冗談が全く通じないのか、はたまた、ここではジョークは厳禁、なのか・・・
「・・・冗談はさておき・・・これでお分かりでしょう? あのお方は、今は絶対安静、完全隔離、の状態でして・・・」
すると、ダビドが、
「するとこれは・・・こちらのエンリケくんと、ガスパルとが目撃した、というか発見した・・・例の村の人々も、同じ症状というワケですかね・・・?」
ソフィアは、全く顔色は変えずに、
「それは・・・今はまだ何とも申し上げる事は出来ません・・・ただ・・・」
「・・・ただ?」
と、そこで初めてエンリケが口を開くと、
「今現在おそらく・・・我々の医療チームが、向かっている事でしょう。なので・・・」
するとダビドは、
「これはもちろんの事、市民には公表すべきですよね・・・?」
と、訊くと、その有能な女医、は無情にも、
「・・・それはまだ出来兼ねます・・・」
ダビドはつい、ほんの一瞬ではあるが、頭に血が上ったのか、
「・・・それでは! そういった事は、人々には知る権利があるのでは・・・?」
と、言うと、
「しかしもしその様な事となると・・・おそらくパニックが起きますよ?」
すると今度はガスパルが、
「しかし・・・もしこれが仮に、かなり感染力の強い、伝染病だとしたら・・・近いうちに、たちまち・・・」
「・・・その様な事態を防ぐ為に、この施設が作られたのですよ?」
・・・と、ここでもその女医は、微塵も表情を変えず、その目は全くと言っていい程、ピクリとも動かず、そう言ってのけたのだった・・・。
ダビドが何事か反論しようとすると、突然、ソフィアの携帯が鳴り、彼女は素早く立ち上がって・・・
「ちょっと・・・失礼します・・・」
・・・と、隣の部屋へと一旦消えたのだが、ガスパルが、ダビドに、
「・・・なあ、確かにあの村は・・・」
するとダビドは、ガスパルに、目で合図をしながら、声を潜めて・・・
「・・・気を付けろよ? 多分ここでの会話は・・・全て録音録画されているぞ・・・?」
と、言ったところで、ソフィアが戻って来て、三人に向かって、
「生憎・・・誠に申し訳ないのですが・・・次の来客が、御座いまして。」
三人は立ち上がりながら・・・ダビドは苦笑しながら、頭を掻きつつ・・・
「・・・ではここでの件は・・・全て内緒、といったところですかね?」
するとその非情な女医は、
「・・・当然ですわ。もし口外する様な事があれば・・・当財団と致しましては、法的措置も、考慮に入れさせて頂こうかと。」
そして三人は、もはや何も話さず、私語を交える事すら無く・・・エレベーターに乗り込んで、この建物を、後にしたのであった・・・。
・・・と、そのタイミングと全くほぼ同じ瞬間に、まるでワザと顔を合わせさせぬかの様に、二台あるエレベーターの、一台が閉まった途端、もう一台が、チンッ、と金属音を立てて、開き・・・すれ違うかの様にして、別の、三人が・・・。
一人はまたもや案内役の、ドメニクだったのだが、後に続く二人は、アンドレアとホルヘで・・・二人もやはり前の三人と全く同じ様に、完全防護服を着込み・・・ホセ、のいる、隔離室へと・・・。
どうやら、そのセンターでは、その日は来客が殺到して、繁盛している様子なのであった・・・。
一方、その建物をこの日も遠くから見張っていた、パブロは、先の三人に続いて、今度は新たな二名の客人が入るのを、きちんと目撃し、ほんの少し、せせら笑う様な笑みを、口の端に浮かべながら・・・彼の義務として、依頼人である、ルチアに早速報告を入れていたのであった・・・。
その10
・・・長い長い金曜日がようやく終わり・・・土曜日の朝になると、先日、サアベドラ市の施設を訪れた人々は、また普段の生活に戻って・・・しかしながら、皆それぞれに、違和感というか、果たして、この件について他の市民やら、隣人たちに、黙っていても良いものかと・・・皆めいめいに、心の中で葛藤というか、モヤモヤとしたものが残っていて・・・しかしながら、本音としては、あの、フェルナンドという人物を敢えて敵に回したくはなく・・・しかも、もし、あの女医の言う通り、法廷で闘うなどという事になれば・・・おそらく潤沢な資金を思う存分注ぎ込むであろう、フェルナンドに勝てる筈もなく・・・しかし、泣き寝入りしていいものなのか?・・・と、皆一様に、思考は堂々巡りで、罪悪感の様なものも感じてさえしまうのであった・・・。
カマーチョ市全体を見渡せる、丘の上の絶好の位置にある、あの例のルチアの邸宅には・・・その日は朝から雲もなく、晴れ渡っていた・・・その日の朝一番の飛行機で、夫である、イスマエルがようやく帰路へと着き・・・そうして世界中のあちらこちらで買い付けて来た、美術品やらあれこれを・・・しかし彼が自分の巨大なスーツケースやら、キャリーケースで持ち帰った物は、ごくごく一部で・・・重たい物や、かさばる物などは、後から別便で到着する手筈に、毎回なっているのであった・・・。
夫のイスマエルは上機嫌で、
「・・・どうだね? 留守中に・・・何か変わった事は・・・無かったかい?」
と、訊くと・・・それとは全く対照的に、少し顔色がすぐれないというか、陰鬱そうにさえ見える、ルチアは、
「ええ・・・特には・・・。」
無論の事、変わった事、だらけではあったのだが・・・彼女はそれを口にするのも何だかとても億劫になってしまっていたので・・・知らぬが仏、目に映らなければ、心にも感じぬ・・・とはまさにこの事なのだろうが・・・イスマエルはその言葉を聞くと、あっけらかんと、
「・・・そうかね? それは良かった。そんな事より、ちょっと聞いてくれよ・・・! 例の、画商のキハーノ氏、なんだがさぁ・・・彼の所有していた絵画の何枚かが、全くの贋作だったって、分かったらしいんだよ。いやぁ・・・彼ほどの人物でも、その様な事があるなんてなぁ・・・。危うく、偽物を掴ませられるところだったよ・・・!」
・・・と、夫が妙に上機嫌なの対し、妻は相変わらずあまりは気分は良くはないらしく・・・
「そう・・・なの。・・・それは不幸中の幸いね。」
と、弱々しい声で、言うのであった。
さすがにイスマエルも、妻が体調がすぐれない事に気が付いて、
「・・・どうしたんだい? ・・・大丈夫かね?」
「ええ、まあ・・・ちょっと、頭痛がするので・・・少し横になるわ・・・」
と、ダイニングルームを出て、自分の寝室へと向かったのであった・・・。一冊の、本を小脇に抱えて・・・。
・・・実はその、二時間ほど前・・・まだ夫が家に帰り着く前に、あのパブロがこの家を訪れていて、全て彼が見たり聴いたりした事を・・・報告していたのであった・・・。
「・・・すると・・・あの方は、病室に、おられると・・・?」
「ええ、おそらく・・・どうやら、完全隔離、の様ですが。」
そこでルチアは途端に、表情が陰鬱なものへと変わり・・・ウロウロと、まるで夢遊病者の様に、その広い部屋の中を歩き回っていたのであるが・・・。不意に立ち止まると、
「・・・分かりました。・・・どうもありがとう。あの人の・・・一刻も早い回復を祈りましょう。・・・とても助かりましたわ。」
その言葉を聞くと・・・どうやら、自分の任務は完了、となった模様であったので・・・彼、パブロはただ黙って、ルチアへとうやうやしく一礼をすると・・・その邸宅を、退出したのであった・・・。
すると、ルチアはか細い声で、ほんの一言・・・
「・・・本当は・・・あの方に、一言だけでも・・・この本の御礼を、言いたかったんだけど・・・」
パブロが表へと出て・・・それはもちろん裏口であったのだが・・・ちょうどそのタイミングで、表門からは、おそらく夫のイスマエルと思われる、黒塗りの車が・・・巨大な門が、ギギィィィ・・・と音を立てて開くと、その中へと滑り込んで行って・・・。
それを遠目に見ながら、パブロはなぜか、ほんの少しだけニヤリと、口の端に笑みを浮かべて・・・自分のボロ車へと乗り込み、ゆっくりと発車させたのであった・・・。
『サンソン・カラスコ書店』の店内では・・・通常は土曜は休業日なのであったが・・・アンドレアはなぜか、まだ頭の中のモヤモヤが晴れないからなのか・・・午後だけ、店を開ける事にしたのであった・・・。
書棚を整理しながら、夫のエミリオが、相変わらず素っ頓狂な声で、
「ところで・・・その・・・ホセ、何とかっていう人は・・・?」
アンドレアは、もしも、の時に、夫を巻き込みたくはない、というのもあったのだろうが・・・何より、彼に話してしまうと、たちまちのうちにご近所中に、話が拡散、してしまうので・・・
「・・・エ? ・・・ああ、まあ・・・特にどうって事は・・・。ただの風邪だったらしいわよ・・・?」
「・・・エ? ・・・そうなんだ? 何だ。人騒がせな奴だなぁ・・・」
「ええまあ、そうね。」
そうして彼女も、夫と同じ様に書棚の整理を始めると・・・なぜだか奥の方に落ちて挟まっていたのか・・・割と貴重で、高値のつきそうな、一冊の本が出て来て・・・彼女はそれで、ほんの少しだけ心が軽くなった訳ではないのだろうが・・・
「・・・お昼は何にするの? ・・・それからでしょ? 店を開けるのは・・・」
するとその、呑気な夫は、手を止めてかなり真剣に、考えていた様なのだったが・・・
「ウ〜〜ン・・・僕はそうねぇ・・・サラミが、サラミがなぜか無性に食べたくなってきたんで・・・サラミの入った、料理というと? ・・・サラミ、サラミ、サラミ・・・」
と、まるで呪文か何かの様に、繰り返していたのであった・・・。
その店の中は、特に電気を付けたりとかはしていなかったので、ほんのりと薄暗かったのだが、斜めに、陽光が差し込んでいて・・・確かにかつて誰かが言っていた様に、立地としては、とても良い所なのであった・・・。
・・・エンリケの小さくて慎ましいが、とても居心地の良い借家では・・・エンリケは、どうやらボストンバッグに、自分の服やらタオルやら歯ブラシやら文房具などを詰め込んで・・・旅支度をしている様なのであった・・・。
するとそこへ、かわいい妹の、アンヘリカが来て・・・
「・・・お兄ちゃん・・・行っちゃうの・・・?」
しかしエンリケはただ黙って・・・荷造りを続けていたのであった・・・。
「・・・でも良かった・・・! また・・・大学に戻るなんて・・・!」
するとそこで初めて、彼は口を開き、
「・・・ああ。いろいろとごめんな。兄ちゃん・・・優柔不断というか・・・何事も一人で決められなくって。」
「・・・いいんだってば!」
そうして嬉しそうに、かわいい妹は、祖母のいる居間へと、まるでスキップでもするかの様に、去って行ったのであった・・・。
居間では祖母が、編み物をしながら・・・やはり少し嬉しそうに、
「・・・やっぱりねぇ・・・若いうちは勉強をするのが・・・一番だよ・・・お前の父親みたいに・・・」
・・・などと、口をモゴモゴとさせながら、まるで独り言の様に、呟いていたのであった・・・。
すると・・・荷造りを終えたのか、エンリケが自分の部屋から出て来て・・・
「・・・じゃあ。俺、もう行くから。」
「・・・朝食は食べて行かなくて・・・いいのかい?」
「・・・ああ。・・・途中で何か食べるよ。」
「・・・お兄ちゃん、がんばってね・・・」
涙目となり、今にも泣き出しそうな妹に、
「大丈夫だってば・・・! そんな事より、アンヘリカ。」
「・・・何?」
「ばあちゃんを・・・よろしく頼むよ? あとお前も・・・好きな人を・・・見付けるとか・・・」
しかしアンヘリカは、ただ黙って頷くと、
「・・・じゃ、また! ・・・別にこれが・・・永遠の別れって訳じゃないから。大学が休みになったら・・・また戻って来るよ。」
そうしてエンリケは、ほんの少しの荷物とともに・・・その貧しい家を出ると、鉄道の駅のある方向へと・・・向かったのであった・・・。
その足取りは・・・最初にこの家に戻って来た時よりも、しっかりと・・・まるでその煤けた、砂利だらけの地面を一歩一歩、踏みしめるかの様に・・・。
その11
・・・それからおおよそ、三週間ほど後の日曜日の事・・・ホセの古ぼけた、借家のドアを叩く者があり・・・ホレシアがおそるおそるドアを開けると・・・何とそこには、あの、ホセが立っていたのであった・・・。幾分ぎこちない笑顔を作りながら・・・彼はそれでも、かなり無理をして、笑っている様でもあり・・・。
するとその後ろから、古くからの友人であり、職場の上司、でもあるホルヘもいて・・・
「・・・どうも、奥さん。今日は特別なプレゼントを・・・まだクリスマスには少し早いのですが・・・。」
ホレシアは驚きのあまり・・・さらには、一体どう反応していいのかが分からず・・・するとそのやり取りからなのか、父親、の気配をすぐにに悟ったのか、ルイーサとマヌエルの小さな、怪獣、がすぐに現れて、
「パパ・・・!」
と、二人して、その情けなくて頼りない、父親の膝の辺りにまとわり付いて・・・。
するとホルヘが、その様子を見ながら、
「・・・では。私はこれで・・・。」
ホセは、自分をあの、隔離病棟から救い出す為に、いろいろと奔走してくれた、友人に感謝をしつつ、
「・・・ホルヘよ、いろいろと・・・すまんなぁ・・・」
その友人、はその時ばかりは、部長の顔ではなくなり、少しだけ照れながら、
「・・・なぁに。まあ・・・仕事はボチボチ始めればいいさ。工場長にも・・・俺の方から言っておくから。」
「何から何まで・・・済まんなぁ・・・。」
ホセがまるで子供の様にうなだれていると、ホルヘはただ黙って手を振って・・・去って行ったのであった・・・。
そしてまだ家の外に立っていた、その家の主人に対して、
「・・・あなた? 中に入ったら・・・? そこじゃあ風が当たって、寒いでしょ? ここは・・・あなたの家なのよ?」
「ああ・・・! そうだったっけか・・・? アハハハ・・・」
などと能天気に笑いながら、我が家、へと帰還したのであった・・・。
・・・その夜、晩ご飯の献立は今となってはイマイチ不明だったのだが・・・ホセがまたいつもの様に、
「ちょっと・・・ビールを・・・いや、やっぱやめとこう。」
「あなた、きっとその方がいいわ。」
「そうだな、アハハ・・・」
ホセはどうやらしばらくはアルコールの類は控える様になり・・・それは一体、いつまで彼の意思は続くのかは、神のみぞ知る、だったのだが、しかしながら、今回の件で、かなり懲りているのは確かな様であり・・・。
それが一体、いつまで、苦い記憶、として残っているのかが・・・ビールの泡の様に、苦いと言っても、美味い苦さでは、全く意味が無かったのだが・・・。
しかしどうやら、少なくとも、一、二週間ほどは、それは続いたらしかったのだった・・・。
ホセはビールを買いにいかなくなった・・・のかは、正直、この私にも分からない。・・・分からなかったのである。
ただ一つ言える事は・・・ホセはじきに職場に復帰し、そして、あのガスパルが懸念していた様な、事態には今のところは・・・。
実際、平日の夜、暗くなった頃に・・・口の周りに泡を付けて、千鳥足で歩く、ホセによく似た人物の姿が・・・。
しかしながら・・・この私には、それ以上の事は・・・実際、分からなかったのであった・・・。
・・・これにて、この、サンチョによる、一連のちょっとした騒動というか、事件の記録は・・・締めくくる事とする・・・。
全くつたない文章で、誠に申し訳なかったのであるが・・・。
カマーチョ市にはまた、朝の九時になると・・・工場からのサイレンが鳴り響くのであった・・・。
・・・では、皆の衆、アディオス・・・!
終わり
ホセはビールを買いにいった 福田 吹太朗 @fukutarro
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