第2話 余命宣告、叶わないIF
私が自分の病気に気が付いたのは、ほんの偶然からだった。
婚約者の彼に「三十歳記念で人間ドック受けに行かない?」と誘われたのが切っ掛けで、「何その記念」と笑いながら、軽い気持ちで了承した。
軽い気持ちだったのは、多分彼も同じだっただろう。私が精密検査を勧められた時、彼もひどく驚いていた。
「でもほら、『精密検査したら異常なしだった』なんて事もあるって言うしさ」
そう言った彼は、何も現実逃避をしたかったわけではない。
よく顔に出るのだ、彼は。まず第一に、私の心を気遣ってくれているのが分かった。
別に、そもそも人間ドックって、病気を早期発見するためのものだし。
何かが見つかったところで特に騒ぐような事態にもならないだろう。
そうは思いつつも彼が向けてくれる優しさが少しくすぐったくて、安心半分からかい半分で、隣に並んで座っている彼の肩を肩でツンと突いてやった。
「肝臓がん、ステージ四です。リンパ節にも転移が見られ――」
医者の言葉に、私は放心状態だった。
ガンというだけでも驚きなのに、ステージ四と言えばよく医療ドラマなどで聞く手に負えない状態――末期というやつではなかっただろうか。
何やら説明をしてくれているけれど、まったく頭に入ってこない。
ただただ座る人形と化すことしかできないでいると、相手はどうやらそんな私に気が付いたようだ。
「最近、体の倦怠感や食欲不振、眩暈や体のむくみ、それからお腹の辺りの痛みなどはありませんでしたか?」
手元の資料から視線をあげて、まっすぐに目を見てそう問われた。
聞かれたのだから、答えなければ。
そんな風に思い始めれば、じわじわと思考が再開される。
言われてみれば、確かに腹痛やむくみの類はあった。
だけど昔から緊張するとお腹に来る体質だったし、ここ一年は仕事で大きなプロジェクトだって任されらていた。
だからきっとそのせいだって、大して疑問にも思わなかった。
むくみだって、そうである。
もともと冷え性だったから、手足のむくみはあったのだ。
もしかしたら眩暈もちょっとはあったかもしれないが、それだって普通に生活していれば起こる範囲のものだった。
私のそんな頭の中は、もしかしたら熟練した医者には丸見えだったのかもしれない。
「肝臓は沈黙の臓器と言われています。ですから『自覚症状もまま内に病気が進行してしまっていた』という事も、事例としては決して少なくありません」
慰めの言葉なのだろうか。
でも、正直言って「可能性がどうこう」という話にはあまり興味がない。
大切なのは、私がどうなのかという事だけだ。
「この病状では、手術による根治は望めません。余命は、四か月ほどだと思ってください」
鈍器か何かで頭をガンと殴られたのかと思った。
余命。
つまりそれは、死の宣告をされたという事だ。
つまり私は、近い内に死ぬという事だ。
おかしいな。私、もうすぐ結婚する筈だったのに。
年だってまだ三十歳。働き盛りの筈である。
でも、私に未来は無いらしい。
急に目の前のはしごを外されたような気分になって、どうしていいか分からない。
そんな気持ちを抱えたまま、私は医者に言われるがままに入院する事になった。
呆然としたまま最初の数日を過ごした後、急激に病状が悪化した。
怪我はよく『した』と気付いた途端に痛み出すけれど、正にそんな感じだ。
私の肝臓も、やっと自身を蝕むガンの存在に気が付いたようで、次々に私に自覚症状を繰り出してくる。
――どうせ沈黙してるんなら、ギリギリまでそうしててくれれば良かったのに。
恨みがましい気持ちを心の内に閉じ込めて、痛みを鎮痛剤で押さえ、すでに手遅れな病状の進行を少しでも遅らせようと頑張る医師の指示に流されるままに従った。
それから三か月。きっと今私がまだ生きているのは、医師たちの努力の賜物だろう。
でも、やっぱり分かってしまうのだ。あぁ、多分私はもうすぐ――。
「なぁ
まるで呟くような心地よい低音が、風に乗って耳を掠めた。
私は少し目を見開く。
言ったのは、心根と同じくらいまっすぐな短髪の黒髪直毛を持つ彼。毎日のように病院に通ってきてくれる私の旦那様だった。
***
「君が病気になった事は、別れる理由にはならないよ」
余命宣告から数日。毎日様子を見に来てくれる彼に別れを切り出した時、そんな風に即答された。
おそらく既に彼の中では、決まっていた覚悟だったのだろう。
「良いの……? それで」
「良いんだよ、それが」
いつもはおちゃらけた冗談を言うお調子者のくせに、こういう時だけ真面目な顔で、射貫くような目で、こちらを見つめてキッパリと言い切るのだ。
ズルい。こんなの突っぱねられる筈がない。
こみ上げてくるものがあってグッと唇を噛んで耐えると、フッと顔に影が掛かって私の唇に彼が触れる。
まるで私の行いをやんわりと咎めるような温もりに、不思議と力はスッと抜けた。
もしかしたら潤んでいるかもしれない目の下をそっと撫でて、彼が私を優しげに見下ろす。
「だからさ、結奈。お願いだから我慢しないで。怖かったら『怖い』って言って良いし、寂しいんならそう言って。じゃないと俺は、寂しいよ」
心の傷をほんの少しでも分けてほしいんだ。
そんな風に言われた瞬間、私はまんまと絆された。
「ねぇ、結奈。いつだって結奈自身に素直でいてよ。俺が君を笑わせるから、君は素直に笑ってよ。不安だったら泣いても良いし、腹が立ったら怒っても良い。だから俺に、君を独り占めさせてほしい」
目の堤防が決壊した。
声をあげながら泣いたのは、いや泣けたのは、宣告を受けた日から初めてだった。
彼の温かさに包まれながら、よりどころを見つけた子供みたいに声がかれるまで泣きじゃくった。
そして私は誓ったのだ。どうにもならない不条理を前に自らの運命を呑み込んだ私だけれど、ただ一つ。彼を傷つける事だけはしないようにと、誰でもない私自身の心に。
それから一週間も経たないうちに書類上の夫婦になって、一か月も経たないうちに病室でままごとみたいな式をあげた。
極々身近な親族と親友に祝ってもらって嬉しくって、病室で過ごす旦那通いの新婚生活も、自由ではないけれど穏やかで、それなりに楽しく過ごせていた。
なのに何故、今私に「退院したら」だなんて叶わないIFを告げるのか。
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