第3話 彼と過ごした日々が好きで、だけど一番『今』が好き
彼は悪意や皮肉でこんな事を言うような人ではない。きっと理由がある筈だ。
知りたいけれど、「私はもうすぐ死ぬのに」なんて、言ったらきっと彼が悲しむ。彼を傷付けるのが怖くて、私からは咄嗟に聞けない。
でも。
「桜がすごく綺麗だから」
ポツリと零したその一言で、私の中の疑問が解けた。
――あぁ、そうだ。
ちょうど桜が咲く季節には、毎年二人でバーベキューをしに行っていた。
たしか彼が「桜が綺麗に咲いている穴場があるんだ」と言ったのが最初だった。
まるで秘密基地を教える子供のような無邪気さで笑った二十四歳の彼が、採りたての免許で車を運転して私を河原に連れて行ってくれた。
肉と野菜と焼き肉のタレは途中のスーパーで買い足して、ピーマンだけは頑なに取ろうとしない彼の紙皿に隙を見てヤツを忍ばせる。そんな子供じみた攻防を二人でしては笑っていた。
そんな彼との思い出を、言われるまで忘れていた。
春になると必ず毎年やっていた「もうすぐ春だね」「バーベキューの時期が来たな」というやりとりを、今年はまだしていない。
それも状況を考えればまぁ当たり前なんだけど、私が「その時が来るギリギリまで、日常を送りたい」って、彼にお願いしたんだった。
彼は私とのその約束を、ちゃんと叶えてくれているのだ。
パッと彼の方を見れば、こちらを振り返った彼と目が合う。
開いた窓から吹き込む春風に、短い髪をそよそよと揺らす彼の目尻に刻まれている笑い皺が、何だか妙に愛しくて。鼻の奥がツンとなって心の中で「あぁ、好きだなぁ」と想いを噛み締める。
そう思えた自分が嬉しくて、ちょっとだけ誇らしくて。
でもだからこそ切なくて、気が付けば服の上からキュッとする心臓に手をやっていた。
夫婦になったのになんだか不思議。甘いこの疼きはむしろ恋人だった時よりもずっとずっと鮮明な気がする。
そんな彼の戸籍を私は汚してしまったのかもしれない。
その事が気にならないと言えば嘘になる。けれど、きっとそんな事を言った日には彼に本気で怒られるだろう。
だからもう、今更何かを言ったりしない。
私は彼より先に死ぬ。
だからせめて残していく彼の記憶で生きる私くらいは、陰鬱で悲しげな私じゃなく、おそらく彼が好きになってくれたいつもの私でいたい。
「でもあの川に行ったらどうせまた、裸足で水の中に入って『寒い寒い』って騒ぐんでしょ?」
二十九歳の大の男の去年の失態を思い出しながら揶揄う。
去年も例年通り、裸足になってワーッと川へと入っていき、五分も経たずにバッシャバッシャと慌てて引き返してきていた。ガタガタと大きく震えながら「結奈ぁ、タオル……」と懇願してきた彼は、バカなのに可愛いという絶妙なバランスを保っていた。
「だって目の前に川があったら入るじゃん? でも、入ったら結構冷たいじゃん?」
「まぁ山の川だしね」
「でも結奈、いっつもそれ用にふわふわタオルとあったかいお茶持って来てくれてるじゃん」
「ま、まぁそれは……」
毎年そんなバカをするのだから、こちらだって対策をする。
二年目からちょっぴり増えた荷物はそれから、毎年漏れなく使われていたな――なんて思っていると、ベッドに腰を掛けた私の顔を彼が覗き込んだ。
「『愛』、だよな!」
「うっさい!!」
「うわっ!」
すぐそこにあったぬいぐるみを掴んでブン投げると、綺麗にキャッチした彼がその子の手をわざわざ動かしながら「怒るなよー」とアフレコしてくる。
このぬいぐるみも彼との思い出。初デートのユーフォ―キャッチャーで、彼に取ってもらったやつだ。
ちょっと不細工なブタのぬいぐるみで、でもこの不細工さが癖になる、とっても憎めないヤツであり、入院の日に彼が連れて来てくれてからずっと一緒に
「ちょっ! ブーちゃんが可哀想だろっ?!」
「ブーちゃんじゃないもーん、ブブちゃんだもーん」
「え、名前なんて付けてたの? っていうか、ブブちゃんって」
ブブちゃんの顔を改めて見て「いやぁ、どっちかっていうと『ブーちゃん』顔だろ」と真面目顔で言って、小首を傾げる。
そんな無意識の可愛い仕草一つで幸せになれるなんて、私はなんて安上がりなのか。
一瞬そう思ったけれど、すぐに「もう安上がりな女でいいかな」という気にさせられるのだから、彼はきっと何か妙なフェロモンでも醸し出しているんだと思う。
「ばーか」
ぬいぐるみの命名一つで真剣に悩む彼に、言いながら笑う。
「笑うのはガン治療に良い」とどこかで聞いた事があるけれど、あれがもし本当なら彼は私の常用薬だ。
きっと何度も彼に助けられて、お陰で今日も生きていられる。
あぁ、彼が大好きだ。
彼と過ごした日々が好き。だけど一番『今』が好きだ。
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