第18話 商業組合の伝手

 次の日から、俺は早速シュトルさんに支払うための貨幣ガルドの工面に取り掛かった。


 まずは家にある、不要なものを売り払ってしまう事にした。

 ……と言っても、普段生活している上でも特別贅沢などはしていないため、お金に換えられそうなものなど殆ど無い。

 ただ唯一、手をつけていなかったものがある。

 父親の部屋の物だ。


 父親の所有物だった品々は、法的には既に俺の物になっている。

 何をどうしようと俺個人の自由にはなっているのだが……父親の居なくなったあの日から、俺はなんとなく父親の書斎だった部屋の扉を開けるのをどこか拒んでいた。

 父親に嫌悪したからなのか、またはいつか帰って来る事を心のどこかで願っているのか……それは自分でも解らない。

 だが確かな事は、今の俺にとって大切なのは父親の記憶よりもピノラである。

 今この部屋にあるものを売ることでピノラのためになるのなら、部屋ごと売り払ってしまいたいくらいだ。


 俺は長い時間閉ざされたままになっていた書斎の扉を開け放ち、中にあるものを片っ端から箱に詰めていった。

 今の自分と同じく、訓練士トレーナーだった父親の部屋には、様々なものが置きっぱなしになっていた。

 本当は一つずつ、いつ手に入れた物なのか、誰から受け取った物なのかを調べたい気持ちもある。

 だが、今はそんな父親の面影を追っている時ではない。

 本棚にあった書籍は役に立ちそうなものを数冊残して全て箱に入れる。

 埃を被ったトロフィも、何かの記念で貰ったと思われるガラスのオブジェも、全て箱に。

 結構な量になってしまったのだが、それらを全て箱詰めする間も、俺は感慨に耽ることもなく完遂した。


 もし、この部屋から家族の肖像画が1枚でも出てきたら……

 俺は手を止めてしまっていたかも知れない。

 だが幸か不幸か、父親の書斎からは家族の痕跡は何一つ出て来ることは無かった。


 家族さえも顧みずに、訓練士トレーナーとしての毎日に没頭していた父親は、今やここには居ない。

 それは悲しくもあったが、最後の箱の蓋を閉じた俺の背中を押してくれる原動力にもなった。

 ミレーヌさんが紹介してくれた質屋が家に到着し、荷物を纏めた箱を引き渡す。

 査定は数日かけて行って貰い、買取金は後日受け取る事となった。



「ふぅ…………」



 質屋が帰ったあと、引っ越し前かと思うほどに閑散とした書斎を眺め、俺はため息を吐いた。

 だが、こんな程度で止まっていられない。

 2ヶ月半で、俺はあと120万ガルドを貯めなければならないのだ。

 俺は首に掛けていたタオルで汗を拭うと、壁から外套コートを剥ぎ取って外に出た。

 そのまま、街の中央へと向かう。



 

 ◆ ◆ ◆  




「アレン=モルダン様ですね。ミレーヌ様よりお伺いしております、どうぞこちらへ」



 大理石で作られた床。

 シャンデリアの下がる天井。

 サンティカの中央にある商業組合を訪れた俺は、あまりに豪奢な部屋へと通されてしまった。


 ミレーヌさんからここで仕事を紹介して貰えると聞いたので急ぎやってきたのだが、受付で名前を告げると奥から真っ黒のスーツに身を包んだ男性が出てきて、奥の奥へと案内されてしまったのだ。

 商業組合の建物は以前から知っていたが、その中にこんな豪華な部屋があるなんて全く知らなかった。

 机の上には1個何十万ガルドもしそうなガラス製の装飾品が並べられ、壁にはどこか遠くの山から見たサンティカを描いたと思われる絵画が飾られている。

 『こちらでお待ちください』と着席を促されたソファも、俺が革靴で踏みつけているこの絨毯も、すべて外国製である。


 こ、こんな部屋に通されるなら、外套コートだけじゃなく身なりをきちんと整えてくれば良かった。

 いや、そんな事よりも……こんな部屋に通されてしまうほど商業組合に話を通せるミレーヌさんって、一体何者なんだ……?

 周囲の豪華さに飲まれそうになりつつそんな事を考えていると、部屋の奥の厚い扉が音を立てて開いた。



「モルダン様、お待ちしておりました。わたくしはこのサンティカ商業組合の理事を務めております、キャドリーと申します」



 凛とした出立ちのまま歩み寄る獣人の女性が、部屋に入るなり自己紹介をしてきた。

 『キャドリー』と名乗る彼女は、女性であるにも関わらず男物と思われる真っ白いスーツを着ている。

 薄く化粧された顔の肌は白く、瞳はアメジストのように紫色に輝いており、一眼見ただけで脳裏に強く印象付けられる程だ。

 特徴的なのはその髪色で、一見して黒髪のようだが、よく見ると反射された光が黄金色に煌めいている。

 会釈をされた際に胸元に添えられた手には、美しく光る細やかな鱗が生えていた。

 こう言っては失礼だが、珍しい外観の獣人族だ。

 18歳にて訓練士トレーナーの資格を得る程度には獣人に詳しいと自負している俺だったが、彼女が一体何の種族なのか解らない。

 にこやかに顔を上げたキャドリーさんに対し、俺も最上の礼で返答する。



「お初にお目にかかります、協会認定訓練士トレーナーの、アレン=モルダンと申します。この度は、私の急な申し出に応じて頂き──────」


「いえいえ、モルダン様。そのようなお言葉は無用にございます。なにせ貴方様あなたさまは、ミレーヌ様からの御紹介のお客様であらせられますから」



 俺が頭を下げようとしたところ、キャドリーさんは慌てて着席を促した。

 本当に、ミレーヌさんはこの商業組合とどんな関係なのだろうか……?

 彼女の紹介で訪れただけでこの扱いとは。



「ミレーヌ様からも、詮索は無用とお伺いしておりますゆえ、早速ですが本題に入りましょう。何やら、この2ヶ月で『稼げる仕事』が欲しいとの事で……その上で、モルダン様の素性を知られずに働きたいとか?」


「えぇ、そうです。昼夜問わず、肉体労働でも何でもやりますので……」



 俺はミレーヌさんに紹介を頼む際、既にいくつかのお願いを伝えていた。

 今日から2ヶ月の間、とにかく稼げる仕事があるなら何でもやるつもりだ。

 だが、協会認定の訓練士トレーナーである俺が、ピノラのトレーニングを放ったらかしにして肉体労働に励んでいることが世間にバレるのはあまりよろしく無い。

 そんな噂が広まってしまうと、本業を疎かにして金を稼いでいると見做され、協会認定の資格を剥奪されてしまう恐れがあるからだ。

 それに、ピノラを放置して働いているなどと知られれば、大勢いるピノラのファンたちから袋叩きにされかねない。

 できるだけ内密に、でも貨幣ガルドの稼げる仕事を……となれば、サンティカの労働斡旋に関して全てを牛耳っている商業組合に頼むのが最も確実だったというわけだ。


 そんな無茶もいいところの依頼ではあったのだが、キャドリーさんは一層笑みを強めて口を開いた。



「先にお伺いしておきたいのですが、『稼げる』とはどの程度の金額を想定されておられるのでしょうか?」


「……2ヶ月半で合計、120万ガルドほど必要です」


「それは……なかなかの数字ですね。さぞ大きな事情がおありなのでしょう」



 ふむ、と唸ったキャドリーさんは、右手を自身の顎に当てながら視線を下げた。

 何か思考を巡らせるように、じっとテーブルの上を見つめている。

 少しの沈黙のあと……両手を腹部の前で組んだキャドリーさんはひとつトーンを落としたような声で話し始める。

 


「まず率直に申し上げます。『正規』の仕事で月に60万ガルドを稼げる仕事というものは、今このサンティカには存在しません。もちろん『非正規』のものも含めれば様々ありましょうが……」


「ひ、『非正規』の仕事……?」



 無意識に険しい顔をしてしまった俺に対し、キャドリーさんは静かに語る。



「言葉通り、公には出来ない仕事です。わたくしどもは『通貨ガルド』という、この世で最も単純であり最も厄介なものを取り扱う組織でありますから、法規にしっかりと則った商売を心がけております。ですが、このサンティカには人の道を外れてでもお金を稼ぎたい者たちというのも多くおりましてね」



 悠々と語りながら、キャドリーさんはテーブルの隅に置いてあった濃紺色の箱を開ける。

 中には濃い琥珀色の液体の入った硝子製の瓶と、細口のグラスが数本入っていた。

 瓶の蓋に鱗の光る指を添えると、小気味良い音を立てて栓を引き抜く。

 瞬時に漂い始めた濃厚な甘い香り…………中身はブランデーのようだ。

 もう片方の手でグラスを2本取り出し、液体を注いでいく。

 キャドリーさんは注ぎ終えたグラスのうち1本を、俺の前に滑らせながら続けた。



「ご安心ください、モルダン様。もし仮にここで、あなた様に懇願されたとしても……『非正規』の仕事を勧めることは致しませんわ。あらかじめミレーヌ様より、『潔白な』仕事を紹介するよう仰せ付かっておりますし、何より……モルダン様、あなた様の身に2年前に何があったのか、組合の一部の人間は存じ上げております」


「────────……っ」



 全ての感情を殺したような口調で話すキャドリーさんの言葉に、俺は閉口してしまった。

 何となく、こんな話の流れになるのではないかと予想はしていた。

 俺は平静を装わなければ、と思っていたのだが……俯いてしまった俺を見たキャドリーさんは、早々に話題を変えてくれた。

 


「この話は止めておきましょう、ご依頼とは関係の無い事でしょうから」


「……そうして頂けると助かります。お気遣い頂き、申し訳ありません」


「いいえ。ですが、わたくし共は商業の組合ですのでね……御商談の相手方の素性などは、先だってお調べするのが常なのです。御不快に思われたやもしれませんが、御容赦くださいませ」



 くっ、とブランデーを煽るキャドリーさんは、一口でグラスに入っていた液体を半分ほど飲んだ。

 俺も乾いてしまった唇を湿らせるように、差し出されたブランデーに口をつける。

 口の中で濃厚な香りが爆発的に広がるのを感じる。

 だが酒の嗜みなどまだまだ学び足りない年齢の俺では、果たしてこの酒がどれほど美味いものなのかが解らなかった。

 俺がこくりと喉を鳴らして飲み込んだのを見て、キャドリーさんは元どおりの明るいトーンで話し始める。



「本来であれば、120万ガルド程度の金額でしたら我々商業組合が融資する事も可能なのです。ですが、我がサンティカ商業組合は闘技会グラディアに参加している別の獣闘士グラディオビスタに資金提供をしている都合がございまして、彼らに内密でモルダン様にご融資をすることはこの商業組合の信用に係る事態となってしまう恐れがありますので、そうもいきません」



 言い終わると同時に、キャドリーさんはグラスに残っていたブランデーを一口で飲み干してしまう。

 白いスーツを着た商会トップの若い獣人女性のはずだが、その仕草はまるで往年の頭目ボスだ。

 かなり若々しいように見えて、実際はもっと年上なのだろうか……。

 そんな事を考えていると、彼女の紫色に輝く瞳が俺の目を覗き込んできた。



「しかしながら……我がサンティカ商業組合は、この土地で行われるあまねく全ての『商売』に携わる存在です。『最年少の天才訓練士トレーナー』という肩書きを謳われたモルダン様が、わたくしをお頼り頂いた今日のこの機会というのは、大変な『商機』であると思っておりますので……」



 コン、と高い音を立ててグラスがテーブルに置かれる。

 先ほどまでの凄みのある風格とは違い、キャドリーさんはふわりとした笑顔で俺に問いかけた。



「いかがでしょう、月におよそ40万ガルドを稼ぐ事ができる短期の仕事を御紹介するのと併せ、わたくし個人からモルダン様に50万ガルドを『先行投資』させて頂くのでは?」


「………………えっ!?」



 唐突の提案。

 あまりに突然の申し出に俺は目を見開き、つい立ち上がりそうになってしまった。



「ほ、本当ですか!?」


「えぇ、モルダン様さえ宜しければ、ですが」


「そ、それは勿論……と言うより、むしろこの上なく有り難く……し、しかし良いのですか? そんな事をすればキャドリーさんにご迷惑がかかってしまうのでは……!?」


「ほほほ、心配は無用です。50万ガルドは商業組合からの資金提供ではなく、あくまでわたくしのポケットマネーから出す個人投資でございますので。それに、これくらいの金額でしたら贈与の公的調査も入りませんから、何も後ろ暗い事のないお金として差し上げることができますわ」



 キャドリーさんは微笑みながら、テーブルに置かれたグラスに2杯目のブランデーを注ぎ始めた。

 もしキャドリーさんの提案を受けられれば、これ以上のものは無い。

 


「ただし、モルダン様。ひとつだけ、お願いがございまして────────」



 ブランデーのガラス蓋をキュッと締め、キャドリーさんは顔を上げる。



「わたくしからお渡しする50万ガルドは、あくまで『投資』です。例えモルダン様の目的が果たせたとしても、そうでなかったとしても、返還する必要はありません。ですが、もしモルダン様が大願を果たされたました折には、何卒わたくし共『サンティカ商業組合』をメインの提供源スポンサーとして迎えてくださいませ」



 胸に手を当てて頭を下げるキャドリーさんに、俺は釣られて頭を下げ返した。

 この訓練士トレーナー獣闘士ビスタに対する資金提供制度というものは、ここ数年で確立された新しい仕組みである。

 毎回の闘技会グラディアで上位に食い込むような実力のある獣闘士ビスタは市民からの人気も高く、当然それにあやかった商売も多く存在する。

 大人気の獣闘士ビスタを模した人形や肖像画は勿論、中には『○○選手が食べた菓子です!』と触れ込んでいるものも。

 挙げ句の果てには、その獣闘士グラディオビスタとは縁もゆかりもないものでさえ獣闘士ビスタの名前さえ付けて販売すれば、飛ぶように売れてしまうものさえある。


 そういったあきないが乱立しないよう、訓練士トレーナー獣闘士ビスタと契約を交わした組織のみが、その獣闘士ビスタに関わる商売を独占できるよう定めたのが、この制度である。

 提供源スポンサーとなった組織は人気のある獣闘士ビスタに関する商品を取り扱えるようになる代わりに、その訓練士トレーナーに対し土地や武具の提供のほか、関連商品の売り上げの幾分かを渡す事が多い。

 ピノラのように、実力がまだ伴わない獣闘士ビスタであっても市民からの人気があれば商売として成り立つため、契約さえ結んでおけば訓練士トレーナーである俺にも資金提供がされるという、ありがたい制度だ。

 もっとも、連戦連勝で負け知らず、真に大人気の獣闘士ビスタやその訓練士トレーナーともなれば、闘技会グラディアの賞金だけでも莫大な額になるため、提供源スポンサーを必要としていない事も多いのだが。



「それは勿論です、キャドリーさん。むしろその様な申し出を頂き、嬉しいくらいですよ」


「商談成立、でございますね」



 キャドリーさんは軽く手を叩くと、紫色の瞳が見えなくなるほど目を細めて笑った。

 しかしすぐに目を見開き、俺の顔を真っ直ぐに見据える。



「さて! ではモルダン様、お仕事の御紹介でございますが……」



 キャドリーさんは胸元にあった小さなポケットから1冊のメモ帳を取り出すと、片手に持ったまま器用に親指でページを捲り始めた。

 表紙の擦り切れたメモは、中にびっしりと黒いインク文字が並んでいる。

 何枚か捲ったところで指を止めると、メモから視線を外し俺を見た。



「モルダン様には、御身の訓練士トレーナーとしての知識を活かして、当組合が経営するサンティカの獣人診療所で日夜の勤務をして頂きたく存じます。人口の多いこのサンティカでは、人間と同じかそれ以上の獣人族がいるにも関わらず、獣人医とその補佐が不足して久しいのが現状です。これから火蜥蜴サラマンダの月を迎えるにあたり、傷病者も増えるでしょう。そこで2ヶ月間、獣人医の補佐と夜勤業務をしていただければ、まこと『正規』の仕事で月40万ガルドほど稼ぐことができますが……いかがですかな?」


「じゅ、獣人医の先生の、補佐……? 俺、いや……私にそのような仕事は、可能なのでしょうか?」



 俺は驚きの表情で聞き返す。

 獣人族の医療に携わる『獣人医』は、世間でもかなり稀な職業だ。

 何十種と存在する獣人族は、種族ごとに機能形態も違えば使用できる薬品も異なる。

 それらの知識を一挙に携えた獣人医という存在は、その重要な役割に反してあまりにも数が少ないのが現状である。

 外傷や疾病のときは安静にする以外に対処法が無かった獣人族文化の中に、人間族が長年に渡って培ってきた医療技術を取り入れた『獣人医学』は、修得するには途方もない時間を費やさなければならない。

 その資格取得の困難さは、協会認定の訓練士トレーナーになる事と同じ程だと言われるくらいだ。


 だが、キャドリーさんは大きく頷きながら答えてくれた。



「もちろんです。失礼ながら、わたくし共もモルダン様の訓練士トレーナーとしての評価は日頃より耳にしておりますが、ピノラ様のような非肉食獣人である兎獣人ラビリアンを、常に健康に、肌艶よく生活を送れるようにされているのは、並大抵の事ではございませんのよ。願わくば、わたくし個人の日々の健康管理に関してもモルダン様に御助言を頂きたいくらいですもの」



 そう言いながら、キャドリーさんは小さな鱗が並ぶ手の甲を撫で摩った。

 よく見ると、美しい手の鱗にも所々に薄皮が張り付いて破けているのが解る。

 恐らく日々の業務で脱皮不全を起こした痕なのだろう。

 鱗のある獣人族は、脱皮の時期に健康管理を怠るとよく発症してしまう。


 と、キャドリーさんの手をまじまじと見つめながら思う。

 ────────なるほど、こういう知識でいいのなら、確かに役に立てるかも知れない。

 訓練士トレーナーを目指す前に獣人医になることを目標に学んでいたことが、こんなところで役に立つとは。



「共に勤務となる獣人医は、わたくし共の商会が直接雇用している者です。モルダン様の素性は絶対に他言しないようあらかじめ申しつけておきますから、安心してお仕事に専念できるかと思いますわ。それでももし、周囲でモルダン様の素性に気付き、漏らそうとする者がおりました際は、どうかご遠慮なくご相談くださいな。その時は──────」



 少しの沈黙。

 …………な、何だ?

 気のせいだろうか、キャドリーさんの纏う空気が変わる。




「────────わたくしが『対処』致しましょう。実はわたくし、こう見えて“尾蛇獣人コカトリス族”でしてね」


「コ、尾蛇獣人コカトリス族……!? 本当ですか!?」




 キャドリーさんは満面の笑みのまま、半分ほど開いた口から細い舌を出す。

 

 まさか、尾蛇獣人コカトリスとは……。

 噂には聞いたことがあるが、本当に実在する種族だとは思っていなかった。

 多くの種族が存在する獣人族の中でも極めて希少な種族で、国によっては架空の存在とされる程にその数が少ない。

 その力は非常に特殊で、爪や歯を立てられたものはたちまちのうちに石になってしまうと言われており、更に力の強いものになるとその目で睨まれただけでも石になってしまうと言う。

 あまりに希少なため、訓練士トレーナーの認定試験の参考書にさえ載っていないほどだ。


 俺はそんな話を思い出しながらも、キャドリーさんのアメジストのような瞳をじっと見続けていた。

 縦に長い瞳孔の周囲は、シャンデリアの光を反射する虹彩こうさいで煌びやかに彩られている。

 この美しい瞳に、そんなおぞましい力が宿っているとはとても思えない。

 

 そんな、口を半開きにしたままにしていた俺に、キャドリーさんが笑いかけた。




「……ふふ、モルダン様。お優しそうな見かけによらず、なかなか豪胆な方でいらっしゃいますわね」


「あ、えっ!? な、何故ですか?」


「うふふふ。だって、今わたくしはモルダン様をちょっと脅かそうと思ってお話しをしたのですよ。尾蛇獣人コカトリス族を知っていらっしゃるであろうモルダン様なら、わたくしの瞳の力もご存知でしょうに。それなのに、話のあともそのようにわたくしの目を見つめていらっしゃるとは…………わたくし、男性の方にこれほど見つめられたのは本当に久しぶりですわ。何だかドキドキしてしまいます」



 つい先ほどまで自らが怪物であるかのような雰囲気を全面に出していたキャドリーさんだったが、途端に温和な表情へと戻る。

 唇に指を添え、微笑みを浮かべながら身体をくねらせるその姿は、女性らしい妖艶さを感じる。

 俺は『瞳を覗き込む』という、尾蛇獣人コカトリス族であろうと無かろうと失礼極まりない行為を平然と行っていた自分を深く反省した。



「えっ! あ、いや……す、すみません……その、あまりに綺麗だったもので、つい…………」


「あらあら……? お仕事の御紹介のはずが、口説かれてしまうとは。ここからは別の商談が必要になりますかしら?」


「うぇっ!? い、いえ、あの……今のは口説くとか、そういうのじゃ無くてっ!?」



 茶化されているのだろうが……こんな時に何と返答したら良いのか。

 まるで経験のない有様を丸出しにしている俺を笑いながら、キャドリーさんは心底楽しそうに微笑んでいた。



「うふふふ、冗談です。さて、では私の名誉にかけて、2ヶ月の間モルダン様の御身をお預かり致しましょう。明日は直接、中央の診療所にお越しください。具体的な仕事のお話はそこで。では、失礼いたします」


「あ…………キャドリーさん!」



 話を終えると、キャドリーさんはすっと立ち上がる。

 扉の方へと歩いてゆく彼女に、俺は立ち上がって声をかけた。



「はい?」


「あの……本当にありがとうございます。御恩に報えるよう、一生懸命やらせていただきます」


「うふふ……本当に可愛らしい方ですこと。えぇ、期待しておりますわ。獣人医補佐としての働きぶりも、そして素晴らしき訓練士トレーナーとなられます事も」



 外で待機していた付き人と思われる人物が扉を閉める。

 ひとり残された豪奢な部屋の中、俺は扉に向かって深々と頭を下げた。

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