第17話 ひとりの帰宅
ピノラと別れた後……俺はまた2日かけてサンティカの自宅に戻ってきた。
行きはあんなに楽しかった道程だったのだが、傍らにピノラの居ない帰り道は苦痛を感じるほどに長かった。
宿場町を経由し、サンティカに到着したのは夕方遅く。
街中では飲食店のほか夜の店々の店頭に
そんな街中を俺はとぼとぼと歩き続け、中央にある馬車駅の通りから灯りのほとんど無い郊外の道へと進み続けた。
川にかかった橋を渡り、傾斜のある土地に建てられた自宅が見えた頃……薄暗い道先に、人影が見えた。
「あら、モルダンさん、おかえりなさい」
「……ただいま戻りました、ミレーヌさん。留守を見て頂き、ありがとうございます」
「いいえ、いいのよこれくらい。今ね、ちょうどモコちゃんにご飯をあげてきたところで……って、あら? ピノラちゃんは? 一緒じゃないの??」
家の前に居たのは、ミレーヌさんだった。
留守の間、こうして暗くなる前に家の様子を見にきてくれていたのだろう。
夕闇の中、俺の横にピノラがいない事に気付いたミレーヌさんは、早々に心配そうな顔で俺を見上げてきた。
思えば、サンティカでの生活で俺は常にピノラと一緒に居た。
彼女に出会ってからの2年間、片時も離れる事なく日々を過ごしてきたのだ。
そんなピノラが、俺の横に居ない。
それはミレーヌさんから見ても、違和感でしか無かったようだ。
「いえ、あの…………」
「こ、今回の大会でも負けちゃったって聞いて、そのあとすぐに二人で出かけたものだから心配してたのよ……ねえモルダンさん、もしかして、ピ……ピノラちゃん……」
「い、いえっ! 俺はピノラを見捨ててなんかいませんっ!!」
帰宅早々、とんでもない事を言われてしまい、俺は思わず大声で返事をしてしまった。
予想よりはるかに大きな声になってしまい、すっかり暗くなりつつある家の前で俺の声が大きく響き渡る。
しまった、誰かに聞かれてはいないだろうか。
もっとも、こんな時間に郊外にいるのは、ここに家のある俺とミレーヌさんしか居ないだろうが。
急に大きな声を上げてしまったせいで、ミレーヌさんは驚いた表情で半歩下がる。
左手で胸元を押さえており、肩を震わせる。
怖がらせてしまったようだ。
「……え、えっ? ご……ごめんなさい……ピノラちゃんが怪我か病気かで、どこか療養に行ったのかと思ったのよ。モルダンさんがピノラちゃんを捨てるなんて、そんな事ある訳無いから……」
「あ……! い、いえ……そうでしたか……。すみません、早合点をしてしまいました……大声を出してしまって、本当にすみません……」
俺は頭を下げて謝罪しつつ、背中の鞄を背負いなおした。
ピノラと離れてまだ2日目だと言うのに、俺は大分気が立ってしまってるようだ。
これから2ヶ月半もこんな生活が続くのだ、冷静にならなければ。
ひとつ深呼吸をして、不安げな表情をしているミレーヌさんに告げた。
「……ピノラは、別の
「あら、そうだったの。モルダンさんと他の
「え、あ……いや」
そうではない、とはとても言えず、俺は言葉を濁して俯いた。
だが、詳しく話したところでミレーヌさんに余計な心配を掛けてしまうだけだ。
ピノラを『置いてきた』事には変わりないのだから。
俺はひと呼吸置いてから、話題を変えるように口を開いた。
「……ミレーヌさん、急なお話で恐縮なのですが、ミレーヌさんのお知り合いで古物商の方はいらっしゃいませんか? ちょっと家にあるもので不要になった物を整理したくて……」
「えっ? えぇ、それなら街の中央にいる古くからの知人が、質屋をやっているけれど…………」
「それから……明日から2ヶ月間、短期で仕事をしたいのですが、どこか
「そ、それも街の商業組合に知り合いがいるから、仕事は紹介してもらえるけれど……ね、ねぇモルダンさん、急にどうしたの?」
あからさまに
返りの道中、俺は
普段は日々のんびりと過ごしているミレーヌさんだが、その人脈は計り知れない。
幼少の頃に父親と共に近所付き合いをさせて頂いていた頃から、彼女の周囲には、サンティカの街を牛耳る御偉方が訪問していたのを見たことがあった。
もしかしたら、
それにミレーヌさんなら
俺は意を決して事情を話し始めた。
「……すみません、実は……ちょっと急ぎでお金が必要になってしまったんです」
「……それは、ピノラちゃんが帰って来なかった事と関係あるのかしら? まさかと思うけど、ピノラちゃんを借金の形にされちゃったとか、そういうんじゃ無いのよね……?」
ミレーヌさんから問われ、俺は心臓が跳ねた。
普段から裕福とはとても言えない生活をしているのを見られていたのだから、こんな事を言われてしまうのも仕方のない事だ。
急に仕事を探し始めた貧困
俺は、薄暗くなった道先でミレーヌさんの顔を真っ直ぐに見た。
「ミレーヌさん、誓って申し上げます。俺はピノラにはやましい事をさせてはいません。
俺は深々と頭を下げながら、ミレーヌさんに弁明した。
「そのために、明日から働き口を探さなければならないんです。お願いしますっ……!」
頭を下げた俺から、半歩下がったミレーヌさんの足が見える。
今の俺の顔は、よほど切羽詰まったように見える事だろう。
だが、そんな俺の必死さを和らげてくれるかのように、ミレーヌさんの優しい声が響いた。
「モルダンさん、どうかお顔をお上げになって」
促されて見上げると……目の前に、ミレーヌさんの笑顔があった。
小さく落ち着いた声を返してくれたミレーヌさんは、皺の刻まれた目尻こそ彼女の年齢を感じさせるものの、その目は慈愛に満ちたような優しいものだった。
必死になっている俺とは対照的に、落ち着いた雰囲気を感じさせる。
そんなミレーヌさんはそっと俺の両手を取ると、上下から包み込むように掌を重ねた。
「その様子じゃ、余程の事情がおありのようね。解ったわ、こんなおばあちゃんにでも出来ることがあるかもしれないし、明日にでも知り合いに仕事の相談をしてみましょうか。それと────────」
「それと……?」
ミレーヌさんの手が、俺の手をいっそう強く握りしめる。
「言いたくない事や、言いにくい事は、無理に言わなくていいのよ。モルダンさんの事だから、ピノラちゃんにひどい事なんて絶対にしないって、私信じてるわ」
にこやかにそう言ってくれたミレーヌさんの手は、とても温かかった。
ピノラをヴェセットに置いて来てしまった事、そして俺がそれに負い目を感じている事を……どうやら見抜かれていたようだ。
そんな俺を前にして、それでもミレーヌさんは優しい言葉をかけてくれたのだ。
「……ありがとうございます、ミレーヌさん。いきなりこんなご相談をしてしまい、
「モルダンさん、あなたは立派にやっているわ。あなたがこんなに小さかった頃から見てきたけれど、本当に立派になって。きっと優秀なあなたの事だから、心のどこかでお父様の事を避けているのだと思うけれど────────」
『お父様』という単語が出て、俺は身を強張らせる。
それは俺の手を包んでいたミレーヌさんも、俺がびくりと身を震わせたのを感じたはずだ。
だが、彼女は続けた。
「……でも、あなたの人生は、あなたのもの。誰かの背中を追いかけるだけじゃないし、誰かから逃げなければならない訳じゃないわ。でも、一人っていうのは誰でも心細いものよ。立派になったあなたでも、もし誰かに頼りたい時が来たら……こんな私で良ければ、遠慮なく言ってちょうだい。せっかくお隣さん同士なんですもの、何だって聞いてあげるわ」
まるで本当の孫に言うように────────
ミレーヌさんは優しく、語りかけてくれた。
今も俺の手を優しく握ってくれている。
俺は思わず、涙を零しそうになる。
懸命に堪えて、掠れかけた声を絞り出した。
「……ミレーヌさんっ、ありがとうございますっ……!」
夕闇でなかったら、涙ぐんでいるのを見られてしまっていたかも知れない。
顔を上げた俺に、ミレーヌさんは再びにっこりと微笑みを返してくれた。
「ねぇモルダンさん。ピノラちゃん、また帰ってきてくれるわよね?」
「勿論です。でも、そのためには俺は『約束』を果たさなければ。ミレーヌさん、明日から色々とご迷惑をかけるかと思いますが、宜しくお願い致します」
「えぇ、解ったわ。じゃあ、おやすみなさい」
すっかり暗くなってしまった玄関先を離れ、ミレーヌさんは自宅へと入って行った。
その背中を見送った俺は、同じように自宅の玄関へと向かう。
何気なく空を見上げてみると、頭上には
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