第7話 夢の中②

 部屋を隔てる戸に寄りかかったような姿勢で諭すように話す憲兵の男性の表情は、どこか諦観めいたものを感じさせる。

 俺は膝立ちのまま、官憲の男に問いかけた。



『この子はこの後、どうなるんですか?』


『ここに来る、衛生課の連中が連れて行くよ。あとはそこで引き取り手を探してくれるはずだ。君は心配しなくて良い』



 憲兵の男は、俺を諭すような優しい口調で話してくる。

 きっと若い俺のことを思って、当たり障りのない答えを選んでくれたのだろう。

 だが俺はその言葉が真実であっても、『良き答え』でない事を知っていた。


 前述のとおり、獣人奴隷の行く末は大抵決まっている。

 労働力として使役されるほか、この少女のように若く、可愛らしい獣人は……倒錯した性愛の対象にされることが殆どだ。

 世の闇で売買された挙句、娼館に放り込まれるか、一部の金持ちに違法に引き渡される。

 身体か心のどちらかが壊れるまで弄ばれ、時には無理矢理子供を孕まされる事さえあり、その末路は言葉にすることさえ憚られるようなものばかりだ。

 人間と獣人族が共存の道を選んでから途方もない月日が経過したはずだが、この世の中では未だにそういった悪しき需要が後を絶たず……そのせいで平然と誘拐が行われる。


 そんな奴隷の扱いから奇跡的に解放された獣人というのは、そう多くない。

 種族間の戦争を終えてからの数百年で獣人族の社会的権利保障は大幅に改善しており、人間社会であっても奴隷化される事自体は極めて少なくなってきている。

 だが、それでも獣人奴隷を扱う商人たちを根絶やしにできないのには理由がある。


 彼らを『買う』人間というのは、大抵の場合は大金を用意できる富豪であり、その土地や国で経済的に大きな力を持つ人物であることが多いからだ。

 何百万、何千万という貨幣ガルドで獣人の少女たちを買い上げる連中は、同時にその国や行政に深く関わるほどの財力をもち、自身が奴隷売買に関わっている事実を金の力で覆い隠してしまうのだ。

 行政機関や官憲たちも、そんな富豪たちにいわば買収されているため、獣人の少女を買う卑劣な人間はいまも蔓延っているのが現実だ。


 そして仮に今回のように、奴隷の扱いから助け出された獣人が居たとしても……行政の支援は期待できない。

 サンティカの法律では、身寄りのない獣人族を引き取れる場所は明確に定められているが、決して多くないのが現状だ。

 引き取り先の決まらなかった獣人はそのまま社会へと放り出され、『自由』という名目で保護を放棄されてしまう。

 そうなれば、その後は自身で生きていく術を見出すしかない。

 だが、人間社会で獣人たちがまっとうな仕事を得るためには、今も様々な壁がある。

 結局はまともな生活を送る事などできずに、路上で生活をしながら物乞いになるか、犯罪に手を染めて捕縛されるか……または、自ら再び人間の愛玩となるしかないのだ。



 きっとこの兎獣人ラビリアンの少女も、そうなってしまうだろう。



 俺は、少女へと向き直った。

 痩せこけた頬は幾分か綺麗になり、あどけない目は俺を見つめている。

 誰かが手を差し伸べなければ、彼女は助からない。

 今日このまま、彼女と別れれば、もう会う事すらできないかもしれない。


 俺は、唇を噛み締めた。

 『あいつ』のせいだ。

 『あいつ』がやった事のせいで、この少女はまた涙しなければならないのか。

 もはや一生分の涙を流したであろう彼女が、また。

 そんなのは嫌だ。

 許されない。

 誰かが、手を差し伸べなければ ────────






『俺が、この子を引き取ります』





 静かな部屋に、声が響く。

 それは水面に雫が落ちたかのように、暗い地下の部屋に残響となって広がっていった。


 だがそのすぐ後に、戸の前に立つ憲兵のため息が聞こえてくる。



『…………君、その気持ちはとても立派なものだ。我々とて、その意思を尊重してあげたいのは山々だが……』



 憲兵の胸に付けられた金具が鳴る。

 見ると、片手を腰にあてながら額を掻くような仕草をしていた。



『サンティカでは、奴隷だった獣人族を引き取れる場所というのは法律で決まってるんだ。行政の管理する保護施設か、獣人族の孤児院か……または専門の資格を持った訓練士トレーナーのところしか認められん。君のような子が引き取り先として申し出たとしても、認められる事はまず────────』


『大丈夫です。俺は……今年、闘技会グラディアの協会認定を受けた訓練士トレーナーですから』




 憲兵の諭すような言葉を遮るように、俺は呟いた。

 唐突に告げられた憲兵はしばらく呆気に取られたような表情をしていたが、すぐ半笑いになる。



『おいおい、君……冗談だろう? 見たところ十代のようだが、そんな年齢で協会認定の訓練士トレーナーの資格なんて』



 疑いの声とともに視線を投げかけてくる官憲から視線を逸らし、俺は少女へと向き直る。

 極めてゆっくりとした動作で振り返ったつもりだったが、それでも兎獣人ラビリアンの少女は俺の動きにびくりと肩を震わせた。

 怖がらせないように、不安を抱かせないように……俺は静かに口を開く。



『俺の名前はアレン。アレン=モルダン。君の名前は?』


『…………え……あ、あぅ…………』



 唐突な質問に、ずっと俺の顔を見ていた兎獣人ラビリアンの少女は、不意に投げかけられた問いに戸惑う。

 その仕草は、警戒心の表れそのものだ。

 無理もない。

 彼女を奴隷としてこんな所に閉じ込めていたのは、他でもない人間族なのだ。

 そんな彼女がいきなり他の人間族の男に名前を問われたところで、答えてくれるとは思えない。

 だがそれでも────────桃をくれたことで警戒心が薄らいでいたのか、少女は小さな声で答えてくれた。 



『……ピ…………』


『うん?』


『…………ピノラ…………』


『……ピノラか。教えてくれてありがとう、ピノラ』



 可愛らしい名前だ。

 ピノラと名乗った兎獣人ラビリアンの少女は、不安そうな顔のまま上目遣いで俺の目を覗き込んだ。

 怯えて垂れてしまっていた彼女の長く白い耳は、泣き腫らしていた時と比べて少しだけ上向きになっている。

 俺はゆっくりと姿勢を正し、正面からピノラの方を向く。

 俺に真正面から見据えられ、布切れの上から掛けられた外套コートを握るピノラの手に、ぎゅっと力が入った。



『ピノラ、身体でどこか痛むところは無いか?』


『う、うん……… 』


『もし痛みが無くても、辛いことがあれば教えてくれ。俺は君を獣人医のところへ連れて行ける』


『……ううん、だいじょうぶ…………』



 ピノラは恐る恐るながら、俺の問いかけにか細い声で答えてくれた。

 俺が何か話す度に、彼女の鮮やかな赤い瞳が俺の顔の動きをなぞるように動いている。

 決してよこしまな気持ちなど無いのだが、大きな瞳と可愛らしい顔立ちを見ていると自然と惹きつけられてしまう。

 兎獣人ラビリアンは小柄な種族だと学んだ事があるが、このピノラは特に小さく可愛らしい。

 だからこそ、奴隷商に目を付けられてしまったのかも知れないが。

 俺は問診の真似事をしながら、ピノラの四肢に目をやる。

 大きな外傷こそ無いものの、重度の栄養失調のせいでボロ切れの隙間から見える手足は痩せ細っている。

 皮膚には感染性の皮膚炎と見られる症状もあり、治癒するまでには数ヶ月を要するだろう。

 このまま彼女が『衛生課』と呼ばれる組織に連れられてしまえば、治療も受けられない。

 『衛生課』は慈善事業ではなく、あくまでサンティカの行政機関であるため、引き取った元奴隷の治療を無償で行ってくれる訳ではないのだ。

 獣人医にかかるには、元奴隷という境遇なども関係なく、自分で貨幣ガルドを稼がなくてはならない。

 だが感染性の皮膚疾患があっては『客をとる』ような商売もできないし、この細腕では労働もできまい。

 そうなれば、彼女に待っているのは『死』だけだ。


 そんな事はさせない。

 俺は少しだけ真剣な表情になって、ピノラに語りかけた。



『ピノラ、聞いてくれ。このままここに居たら、君は施設へと移されてしまう。でも俺が知る限り、そこは君にとって心が安らげる場所じゃない」



 俺の言葉を聞き、ピノラの宝石のような瞳が真っ直ぐに俺の目を覗き込んでいる。

 不安そうに眉を寄せ、緊張からか下唇を噛み締めているのが解る。 



『こんな目に遭った後で、人間族を信用なんてできないかも知れない。でも、約束する。俺のところは安全だ。もし君さえ良ければ……俺のところに来るかい?』


『…………ふぇっ?』



 驚きと不安が入り混じったような声。

 彼女の顔からは不安がありありと伝わってくる。

 だがそこに、僅かだが期待のようなものが含まれているように感じた。

 その証拠に、ピノラの白く長い耳がぴんと立っている。

 感情のひとつひとつが耳や尻尾の仕草に現れるのがとても可愛らしい。

 だが、その耳もすばらくするとしおしおと萎えてしまった。



『…………あまり、気が進まないか?』


『……う、ううんっ! そんなこと……っ!』



 俺の問いかけに、慌てて首を振って否定する。

 どうやら前向きには捉えてくれていたようだが……それでもピノラの顔からは不安の表情は拭えない。



『で、でもっ…………』


『でも?』



 続けて喋ろうと口を開いていたピノラだが、力なく下を向いてしまった。

 しばらくして、ピノラの肩が震え始めた。

 口元から嗚咽が漏れる。

 


『……で、でもっ……ピノラ、お金も無いし……他の獣人族の人より、力も無いの……。ピ、ピノラじゃ……何もお仕事ができないって……ここに来てからも、ピノラを引き取ってくれる人が、ぜんぜんいなくて……っ、ピノラは、『いらない子』だって、言われてっ…………う、うぇぇっ……!』



 俯いた顔から、再び雫が落ち始めた。

 どうやら、『商品』扱いをされている時に自身の買い手が付かなかった事を、奴隷商の連中になじられてしまっていたのだろう。

 外套コートを握る手に落ちた涙は、彼女の皮膚を伝って布地に染み込んでいった。



『そ、そんなピノラが居たら、めいわくかけちゃうから……っ! う、うぇぇっ……! だから、だから行けないっ……!』


『ピノラ…………』



 ここまで自分を卑下し、価値のない存在だと思わしめるには、想像を絶するような仕打ちがあったに違いない。

 ピノラの完全に扱いしていたであろう奴隷商たちに、俺は改めて激しい怒りを覚えた。

 そんなものは、ピノラのせいでも何でも無い。

 なのに、それをピノラに擦りつけるような真似をしたことで、彼女の心はこんなにも傷付いてしまったのだ。

 


『ピノラ、大丈夫だ』


『っく、ぐすっ…………ふ、ぇ……?』


『ピノラ、今日まで君が誰にも引き取られなかった事は……むしろそれで良かったんだ。もし君が奴隷商から買い手に引き渡されていたら、今頃はもっともっと辛い目に合わされて居たかも知れない。俺は今日、ここでピノラに出会えて良かったと思ってる。もしピノラが俺と一緒に来るなら、まずは身体を綺麗にしよう。うちには蒸気浴の設備があるから、そこでしっかり身体を温めて、それから獣人医さんにも見てもらって…………』


『で、でもっ……ピノラ、そんな事をしてもらっても、お返しできるものが、何も無くってっ……!』


『なら、ピノラが落ち着いたら、俺と一緒に仕事をしようか』


『ふぇ……!?』



 突然の提案に、一瞬だがピノラの表情が曇る。

 きっと、どんな仕事をさせられるのか不安を感じているのだろう。

 もちろん、俺は彼女に如何いかがわしい仕事などをさせるつもりは無い。

 俺はこれ以上ピノラを不安にさせないよう、優しく微笑みかけながら続ける。



『ピノラは……闘技会グラディアを知ってるかい?』


闘技会グラディア…………?』


『そうだ。人間族の訓練士トレーナーと、獣人族の獣闘士グラディオビスタが一組となって戦う、年4回開催される武闘競技の大会さ。闘技会グラディアは出場選手に手当金が支給される制度があるから、ピノラは出場するだけでもお金を貰う事ができる。もし勝ち進める事ができれば、それだけで何ヶ月も、何年も暮らしていけるだけの賞金が貰える事だってある』



 この辺りで一番大きな都市であるこのサンティカで暮らして行くには、最低でも1人につき月におよそ5万ガルドはかかる。

 定職のない者が日雇いの労働に終始しても、この額を稼げることは少ない。

 だが闘技会グラディアの出場手当金は、およそ30から40万ガルド。

 3ヶ月に一度開催される闘技会グラディアに出場するだけでも、訓練士トレーナーとその獣闘士ビスタが生活するために必要な貨幣ガルドは稼げるのだ。 



『で、でも……っ』


『ん?』


『ピ、ピノラ……兎獣人ラビリアンだから、力も弱いし、体も小さくて……』


『大丈夫だよ。たとえ身体が小さくても、力が弱くても……獣闘士ビスタになれない訳じゃない。トレーニング次第で、兎獣人ラビリアンだって他の獣人族たちを圧倒するほどの獣闘士ビスタになれる。 20年前に活躍した伝説の獣闘士ビスタ兎獣人ラビリアンの『ファルル』は、身体の小さな女性の兎獣人ラビリアンでありながら、何倍も身体の大きな相手を何度も倒した最強の獣闘士ビスタだ。風よりも早い脚で相手を翻弄し、闘技会グラディアの頂点にまで登りつめたんだ」



 協会認定の訓練士トレーナーとなるためのに勉強した過去の闘技会グラディアの歴史の話には、歴代の伝説的な獣闘士グラディオビスタのエピソードも載っていた。

 俺がそのひとつ、兎獣人ラビリアンの『ファルル』の話をすると、ぴくりとピノラの鼻が動くのが見えた。

 単語に反応したのかは定かでは無い。

 だが彼女は俺の口から語られる一言一句を、ただひたすら聞いていた。

 その表情は、真剣そのものである。



獣闘士グラディオビスタ、の……ファルルさん…………?』


『ああ。兎獣人ラビリアンは、決して小さくて弱い種族なんかじゃない。それはピノラ、君だって…………』



 俺は、ピノラの手をそっと握った。

 冷えてしまった指先を温めるように、優しく包む。



『君だって、同じなんだ。強くなれるんだ』



 ピノラの目が、ひときわ大きく開かれるのが見えた。

 暗闇の中に沈んでいた赤い瞳に、光が宿る。

 俺は膝立ちのまま姿勢を正し、真正面からピノラを見据え────────



『ピノラ、もう一度聞かせてくれ。もしピノラが俺と一緒に来れば、ピノラは闘技会グラディアに出場する獣闘士ビスタを目指す事になる。獣闘士ビスタとして活躍するためには、辛い訓練トレーニングだってある。試合に出場すれば、戦いの中で痛い思いをするかも知れない。それでも……』



 俺の顔が映り込むほど大きな瞳を、俺は真っ直ぐに見て問いかけた。



『それでも、俺と一緒に来てくれるか?』



 ピノラが唇を噛む。

 様々な感情が溢れるのを、必死に耐えているかのようだ。

 ピノラは視線を落とし、しばらくの間黙っていたが……意を決したように顔を上げた。

 大きく見開かれた赤い瞳からは、再び涙が滲み出てきている。



『い、いいの……っ? ピ、ピノラ……あ、あなたの、おうちに行っても、いいのっ!? め、迷惑じゃ、ないのっ……!?』



 ぶるぶると肩を震わせ、声を絞り出す。

 堪えきれなくなった涙が、ぽろぽろと頬を伝わり落ちていく。

 俺はそんなピノラの肩に手を添えると、優しく、ゆっくりと抱き寄せた。



『ふ、ぁ…………!』


『うちにおいで、ピノラ。辛かった今日までの日々を忘れられるくらい、幸せになれるように暮らして行こう』



 俺の胸元に顔をうずめたピノラは、堰を切ったように大粒の涙を流し、声を上げて泣いた。

 それでも必死に俺の言葉に返事をしようと、何度も頭を頷かせる。

 そんなピノラの頭を、俺は繰り返し撫でてやった。



『う、うぅっ……う、うぇぇっ! う、うんっ! うんっ!! うえぇぇぇっ……!!』


『そして、俺と一緒に闘技会グラディアの頂点を目指そう。そしていつか必ず────────』




 このサンティカで


 一番の獣闘士ビスタ




 歪む景色。

 遠のく意識。

 夢の終わりの瞬間に、俺は頭の片隅で感じていた。



 そうか。

 この日、俺は嘘をいたんだ

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