第8話 決意の夜

 ぼんやりとした視界に、見慣れた天井が映る。

 夢の中よりも静まり返った部屋のせいで、俺は現実へと引き戻された。


 俺はベッドの上で上半身を起こす。

 寝汗で張り付いていたシーツが乾いた音を立てて皮膚から離れていく。

 頭が重い。

 夢の中の浮遊感から一転して、厭という程に現実的な感触に思わず言葉が漏れる。

 


「夢か…………」



 長い夢を見ていた。

 あれは、俺とピノラが出会った時の夢だ。

 違法な奴隷商によって運命を狂わされたピノラと、出会った日の。


 俺を愛してくれている彼女が、恐怖に震えていた頃の。




「………………何をやっているんだ、俺は…………」



 静まり返った部屋の中、俺はまた独り言を漏らした。

 


 『闘技会グラディアで頂点を目指す』────────

 そんな目標を掲げて2人で歩み出したはずだった。

 なのに、現実は散々なものだ。

 この2年間で、全戦全敗。

 3年目に入った今回の闘技会グラディアでも、いつもと変わらず初戦敗退。

 身体を心配して駆けつけたはずのピノラに満足な食事も与える事ができない上、あろう事か戦いのあった晩に彼女を『抱く』など…………。

 これでは、ピノラを慰み物にしようとした奴隷商人やその買い手たちと何も変わらないじゃないか。

 彼女の好意と善意にすがって、怠惰な日々を送っているだけだ。



『いつまで、こんな事を続けるつもりなの』



 ふと、別れ際にアンセーラ先生に言われた言葉が脳裏をぎる。


 俺はそれを振り払うかのように、頭を振った。

 解っているんだ。

 俺は前に進んでいない。同じ場所に居座ろうと口実を探しているだけ。

 そんな事は、もうずっと前から解っている。

 ピノラの訓練士トレーナーとして、結果を残してやれていない事。

 それでもピノラを戦いの場に連れ出し、その手当て金を最低限の生活の頼りにしてしまっている事。

 そして彼女に求められたとはいえ、戦い疲れているはずのピノラを『抱く』事……。

 まだ起床からいくらも経過していないというのに、俺の頭の中は情け無さと後悔でいっぱいになっている。

 しばらく目も開けたくない気分だ。






「…………ん……?」



 ふと、隣に視線を移し気付く。

 ピノラが居ない。

 昨晩は抱き合いながら眠りに落ちたはずだが、ベッドの中には彼女の姿が無かった。


 彼女が寝ていたはずのスペースは、シーツが僅かにへこんでおり、触ってみると彼女の温もりと残り香を感じる。

 ほんの少し前まで、ここに居たようだが……こんな時間に、先に起きて何処かに行ったのか?

 耳を澄ませてみたが、部屋のすぐ隣にあるトイレやキッチンからは物音がしない。


 窓に目をやると、外はまだまだ真っ暗だ。

 いや……よく見れば、微かに空が明るくなってきた頃だろうか、はるか先に見える山の向こうから、徐々に朝の気配を感じる。

 朝を告げる鳥の声さえも、まだしばらくは聞こえそうにない程の早朝だが……。



「…………ピノラ?」



 周囲を見渡す。

 先ほどからやけに肌寒いような感覚があったが、どうやら中庭を兼ねた訓練所へと続く扉がわずかに開いているようだ。

 朝方のひんやりとした風が、扉から部屋の中に流れ込んでいるのを感じる。

 こんな明け方に、ピノラは訓練所のある庭に行ったのか?

 少しずつ頭がハッキリとしてきた俺は、枕元に脱ぎ捨ててあった薄手の部屋着を手早く着ると、中庭へと続く扉をそっと開けた。


 暗い寝室に慣れた目が、朝日の訪れを感じさせる空に明るさを感じる。

 家の中庭は木製の柵で覆われており、柔らかな地面が広がっている。

 元々は畑だったものを父が買い取り、獣闘士ビスタの戦闘訓練ができるようにと整地したものらしいのだが……要はただの広い庭だ。

 訓練に必要なものが置いてあるのかと言われればそうではなく、ただ走り回ることができる程度のものである。

 郊外であることが災いしてか、場所によっては隆起や傾斜が激しく、訓練適地と呼ぶには程遠い。

 一流の訓練士トレーナーの訓練所ともあれば、筋力を鍛えるための道具や、マッサージができる施設など、獣闘士ビスタの健康維持と訓練に必要なものをいくつも並べているのだろうが、残念ながらうちにそんな高級品を揃える余裕はない。

 むしろ使用していない庭の隅の方では、ピノラが食べる根菜類を育てるために畑に逆戻りしている場所さえある。


 訓練士トレーナーとして、この光景は恥ずべき事なのだろう。

 が、こんな事までしてようやく今の生活を何とか維持できる程度にしか、自分は結果を残せていない。

 それは誰のせいでもなく、自分の齎した結果だ。

 訓練士トレーナーを名乗っておきながら、まともな訓練所すら持っていない自分に嫌気がさす。

 思わず吐いたため息は、自分の耳に厭というほど響いた。




 ふと、視界の端に映る庭の一角で、何やら動くものを見つけた。

 ピノラだ。

 こちらに背を向けたまま、地面に座り込んでいる。


 昨晩、俺の部屋を訪れた際に着ていたパジャマは着ておらず、上下ともに薄手の肌着のみ着用している。

 腰のあたりから生えた兎獣人ラビリアン特有の短い尻尾が、ふりふりと揺れていた。

 足には土で汚れたサンダルを履いており……そのすぐ近くには、モコが居る。

 どうやら朝早くから、モコの様子を見に来たようだ。

 足元で柔らかな体毛を擦り付けてくるモコを、ピノラは左手で優しく撫でていた。

 俺が撫でようとすると額の小さなツノで威嚇することもあるモコだが、ピノラには完全に心を許しているようで、小さな身体全体をピノラの手に擦り付けている。



「モコちゃんっ、おはよう! 今日もかわいいねぇ、よーしよし☆」


「きゅー」



 くりくりと頭を撫でられたモコは、今度は嬉しそうにピノラの足へ擦り寄っている。

 シビレツノネズミは警戒心が薄いと言われているが、それでもここまで懐くのは珍しいらしい。

 遠い山々が少しずつ明るくなり始めたものの、まだまだ薄暗い中庭で……ふわふわの毛を持つ小動物と、真っ白い長耳の兎獣人ラビリアンが戯れているのは、悪い光景ではない。

 モコに話しかけているピノラは、離れた場所にいる俺にはまだ気付いていないようだ。

 


「モコちゃん、昨日のごはんは美味しかった? えへへ、幸せだねぇ」



 ピノラの名前を呼ぼうとした矢先、彼女は足元にいるモコに対して、独り言のように語り始めた。

 その声を聞き、俺は口元を緩める。

 どこかのんびりとした、可愛らしい声色。

 俺と出会ってからの2年間で、ピノラは随分と明るく、そして沢山笑うようになった。

 夢の中で見たような……肩を震わせ、涙を流すような事は無くなった。

 あの頃からすれば、ピノラは幸せを感じてくれているはずだ。



「ピノラもね、今すっごく幸せなんだー。トレーナーに会えなかったら……きっとピノラは、知らないところに連れていかれちゃうところだったんだよぉ」



 心臓が跳ねる。

 今朝方に見た夢が脳裏に焼き付いている。

 ピノラはその夢と同じ時のことを話し始め、俺は思わず息を潜めた。



「帰るところが無かったピノラに、『うちにおいで』って言ってくれたんだよっ。トレーナーは優しいよね〜……ふおっ? モコちゃんもそう思うっ? えへへぇ、そうだよねぇぇ〜☆」



 ピノラの手に擦り寄るように甘えているモコに、ピノラは身体を揺らしながら楽しそうに話しかける。

 一見して、平和な光景だ。

 つい十数時間前には闘技場で死闘を繰り広げていたピノラも、こうしていると只一人の可愛らしい獣人族にしか見えない。

 このような時間がずっと続いてもいいと思える。


 そう。

 この光景は、他でもない。

 俺が望んだもののはずだ。


 例え闘技会グラディアで勝てなくても

 前に進んでいないとしても

 俺たちは互いを愛し、まともに暮らしているじゃないか。


 そうやって自分に言い聞かせるかのように頭の中で繰り返していると…………

 ピノラはふと寂しげな表情を浮かべ、優しくモコを抱き上げ胸のあたりで抱きしめた。




「でもね…………」




 その言葉を聞いたとき、俺は自分の体が凍りついてしまったかのような感覚を覚えた。




「トレーナーは、皆に活躍を期待されてたのに……ピノラみたいな弱い子を引き取っちゃったせいで……皆に、いろいろ、言われちゃってるんだぁ」



 絞り出すかのような、掠れた声。

 ピノラの言葉が、俺の胸に突き刺さる。



「……ピノラもね、解ってるんだ。トレーナーは凄い人なんだから、トレーナーの獣闘士ビスタが、ピノラじゃなくてもっともっと強い獣闘士ビスタだったら、トレーナーは今よりもっともっと有名になれてたはずなんだって……そうすれば、たくさんお金も貰って、美味しいものだって、もっと……」



 無論、俺は世間で何を言われようと気になどしていない。

 ピノラと共に暮らして行けるなら……ピノラが幸せを感じているなら俺の世評など構わないと、心の底から思っている。

 だが、ピノラの悲しみを含んだ声は止まらなかった。



「……ねぇ、モコちゃん。ピノラ……どうすればいいのかなぁ……っ」



 ピノラの肩が震える。

 足元に居たモコをそっと抱き上げ、屈んだまま抱き抱えている。

 漏れ出る嗚咽が、徐々に大きくなっていった。



「ひ、ひとりぼっちになっちゃったピノラを受け入れてくれて……こ、こんなにピノラの事、大切にしてくれてるのに……っ、ピノラは、トレーナーに……何もしてあげられないんだ……! トレーナーからは、たくさん色々なものを貰っているのに、な、なにもっ……! え、えへへ……おかしいよねっ! これじゃ、いつか……トレーナーに嫌われちゃうよね……! で、でも……う、ぐすっ……でもぉ……っ!」



 ピノラの足元に、水滴の落ちる音が響く。

 雑草がまばらに生えた乾いた地面に、黒い染みがひとつ、またひとつと広がっていく。



「モコちゃん……ピノラ、怖いよぅ…………う、うえぇっ、ひっく……い、いつか闘技会グラディアに出られなくなって、トレーナーと一緒に暮らせなくなっちゃったら、もう……どこにも行くところが無いよぅ……ひ、っく……どうすれば、強くなれるのかなぁ……っ! どうすればトレーナーの隣に、ずっと居られるのかなぁっ……!? ピノラ……どうすればいいのか、わからないよぉぉ……う、うええぇぇっ……!」



 ピノラは泣き声を上げながら、ぺたんと地面に座り込んでしまった。

 肩を震わせ、身を小さくしながら……胸元にモコを抱きしめて震えている。



 その背中を遠くから見つめる俺の目にも、いつからか涙が溢れていた。

 俺は、自分自身に怒りを以って問いかける。


 ピノラが泣いている。

 他でもない、俺のせいだ。

 俺はこの2年間、何を見ていたんだ。

 ピノラを幸せにするなどと言いながら、何をしていた。

 ピノラは、本当の意味で幸せになどなっていない。

 

 俺がピノラを捨てるなど、あり得ない。

 むしろ彼女に毎回のように闘技会グラディアで痛い思いをさせてしまっている事実を、申し訳ないと思っていた。

 しかしそれによって得られる闘技会グラディアの出場手当金で、細々とだが生活が『出来てしまう』事に──────いつしか慣れてしまっていたんだ。



 俺は嘘つきだ

 どうしようもない嘘つきだ



 ピノラに出会った時、俺は彼女に何と言った?

 『俺と一緒に、闘技会グラディアで頂点を目指そう』だと?

 1勝すら出来ない事を、無意識のうちに『仕方のない事』と決め付け

 生活ができている事を、いつしか免罪符にして

 ピノラが笑ってくれる事を、彼女が幸せであると勝手に思い込んで


 俺自身が何もしない事で

 彼女が、ピノラが……これほどまでに悩んでいた事に、気付くことができなかったじゃないか。



 俺は拳を握りしめた。

 奥歯を食いしばり、息を思い切り吸い込む。

 そして嗚咽を漏らすピノラの背後に駆け寄り、嗚咽を漏らし続けるピノラを後ろから抱きしめた。



「っ!? ふぁ……っ!?」



 不意に後ろから抱きつかれ、ピノラはびくりと身を跳ねさせた。

 萎れていた耳がぴんと立ち、小さな尻尾の毛が逆立つ。



「トっ、トレーナーっ!?」



 突然のことに、ピノラは何が起きたのか解らない様子で大慌てしていた。

 だが直ぐに、涙にまみれている自分の顔を見られたのではないか……直前まで叫んでいた独り言を、俺に聞かれてしまったのではないかと気付き、「あぅ……」と小さく息を漏らした。

 俺はそんなピノラを、強く抱きしめながら名前を呼ぶ。



「ピノラ…………」


「……あ、あぅぅっ……ぐすっ……ご、ごめんなさい、ごめんなさいトレーナー……っ! ピ、ピノラ、モコちゃんに相談してて……トレーナーがいるって、思わなくて、あ、うぅっ……!」



 胸に秘めていた悩みを、よりによって俺に聞かれてしまった。

 ピノラの顔は、みるみるうちにくしゃくしゃになってしまう。

 きっと、俺に嫌われてしまうと思っているのだろう。

 息が荒く、言葉も絶え絶えになっている。

 そんなピノラを包み込むように抱きしめた俺は、彼女の横顔に自分の頬を押し付けた。

 ピノラの濡れた頬の上で、俺の涙が混じり合う。



「ピノラ、好きだ」


「えっ? ふぇっ!?」



 俺はピノラの大きな耳元で小さく、だがはっきりとした口調で呟いた。



「好きだ、愛してる、心から」


「ト、トレーナーっ…………」



 驚きつつ、幾分かほっとしたような表情になったピノラと間近で視線を交わし、俺は彼女の顔を抱き寄せる。

 モコを抱えたままのピノラはやや恥ずかしそうな仕草をしつつも、俺の頬に鼻を擦り付けるようにして甘えてきた。

 潤んだ瞳、紅潮した表情、そのどれもが愛おしい。

 だが、愛おしいからこそ伝えなければ。

 これからもピノラを愛し、共に歩んで行く為に。



「ピノラ、聞いてくれ」



 山間から朝日が顔を出し、訓練所のある庭に一条の光が差し込む。

 夜が終わり、朝がきた。

 薄闇だった周囲に光が満ちる中、俺は陽光を受けて赤く輝いたピノラの目を見つめながら、口を開いた。



「う、うんっ。トレーナー、なぁに……?」


「俺は今日まで、自分の気持ちがピノラに伝われば、それでいいと思っていた。ピノラと互いを思い合い、暮らして行けるのなら……それでいいと思っていた。でも ────────」



 昇り続ける陽光とともに、庭の景色は刻一刻と変わっていく。

 疎らに生えた雑草も、朽ちかけた庭小屋も、まるで色を取り戻すかのように光に包まれていく。

 顔に受けた光は、ひんやりとした朝の空気に晒された顔を僅かに温めてくれる。

 涙に濡れた顔を互いに見つめ合いながら、俺はピノラの手を取る。



「でも、それじゃダメなんだ。この幸せがいつか終わるかもしれないという不安を抱くようでは、いつまでもピノラが幸せになれない。ピノラとこれから先ずっと一緒にいるためには、俺たちは前に進まなきゃダメだって、ようやく気付いた」


「……トレーナーっ…………」


「ごめんな。こんな事に気付くまで、随分時間がかかってしまった」


 

 今まで目を背けてきた事を、俺は自分に言い聞かせるように呟いた。

 この偽りの幸せな日々は、そう長くは続かない。

 いつか常敗を理由に、闘技会グラディアの協会による判断でピノラの獣闘士ビスタとしての登録が抹消されてしまえば、そこまでだ。

 度重なる敗戦で、ピノラが復帰不能なほどの怪我をしてしまっても同じ結末を迎えるだけだろう。

 そこで、俺たちのこの生活は終わってしまう。

 ピノラと共に歩む未来が消えてしまう。

 そんなのは、嫌だ。

 そうならない為には、闘技会グラディアを勝ち進むしか道はない。

 俺は温かなピノラの手を握ったまま、ゆっくりと立ち上がった。



「ピノラ、もう一度だけ、俺を信じてくれ。俺はピノラが闘技会グラディアで勝てるように、全力を尽くす。二人で幸せになるためなら、どんな事だってやる。あの日、『闘技会グラディアの頂点を目指す』と言った事を、嘘なんかにしたくない。だから────────」



 ピノラの赤い宝石のような瞳から、再び涙が溢れた。

 微笑む彼女の口元を伝うそれは、俺の想いが伝わってくれた証なのだろうか。



「だから、強くなるために一緒に頑張ろう。一緒に、前に進もう。今までよりも辛い日々になるかも知れないし……これからも痛い思いをさせてしまうかも知れない。それでも、俺と共に…………」


「……トレーナーっ!!」



 言い終える前に、ピノラが叫ぶ。

 頬を濡らしながらも、満面の笑みで俺の手を握り返してきた。



「ピノラはっ……ピノラは、トレーナーの事、ずっと信じてるよっ! ピノラも、今までよりもっともっと頑張るよ!! だ、だからっ……!」



 解ってる。

 解っているよ、ピノラ。


 俺は、ずっと────────



「ずっと、ずっとピノラのトレーナーで居て……!!」



 ぼろぼろと涙を零すピノラに、俺は大きく頷いた。

 俺の顔を見て笑いかけたピノラを抱き寄せ、唇を重ねる。

 しばらくして唇を離すと、そのまま朝日の登る庭で抱きしめ合った。


 闘技会グラディアの協会認定訓練士トレーナーになってから、3年目の今日。

 俺とピノラの時間は、この日から確かに動き出したのだ。


 

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