第6話 夢の中①

 ぼやける視界。

 虚ろな景色。

 まるで霧の中を落ちていくような感覚────────


 俺は、喧騒の中に居た。


 火蜥蜴サラマンダの月をとうに過ぎ、季節は月天ルーナに差し掛かり、街に冷たい風が吹く頃──────サンティカの街の路地裏に建つとある小屋の周囲には、ただならぬ雰囲気が漂っていた。

 大勢の野次馬が取り囲むその建物は、一見して小さな倉庫のようだった。

 だが入り口から中を見ると、薄暗い建物の中は稲藁や食べかすが散乱しており、それらを踏みつけながら沢山の憲兵たちが怒声を上げている。

 昼間にも関わらず宵闇のように暗い部屋の奥からは、数人の男たちがその憲兵に引き連れられて出てきた。



『ちっくしょう……! 誰だッ!? 憲兵にたれ込みやがったのは……! ボウズ、テメェかぁ!?』



 そのうちの一人が、血走った目で俺を睨みつけながら叫ぶ。

 腕にはびっしりと刺青が彫られており、いかにも人相が悪い。

 そんな威圧感のある男に唾がかかるほどに眼前で怒鳴られたが……俺は何の声も上げなかった。

 まるで絵本や紙芝居でも見ているかのような……現実感のない光景が目の前に広がっているような印象だったのを覚えている。



『大人しくしろ! さっさと前を向いて歩け、違法商人め!!』


『ぐッ……! 押すんじゃねェよ! クソッタレがぁぁ!』



 腰を蹴飛ばされ、建物から叩き出されていく男の後ろには、同じように縄で両手を縛られた男たちがぞろぞろと続いている。

 先頭の男と異なり、後を追う男たちは皆俯いて、縄に引かれるままおぼつかない足取りで進んでいく。

 男たちの身なりは様々で、高そうな衣服を纏った者もいれば靴さえ履いていない者までいる。

 そしてその最後尾にいた男は、長く乱れた髪と伸び放題の髭を揺らしながら歩いていた。

 白髪まじりの髪の隙間から覗いた眼球はまるで色を失ってしまったかのように灰色で、それは小屋の隅にいる俺の顔を見つめ続けている。


 男が目を逸らすまで、俺はその眼球をじっと見つめていた。

 何か声をかけるべきだろうか。

 ここで何か言わなければいけない気がする。

 そうしないと、もう────────

 そんな事を考えているうちに、縄で繋がれた一団は建物の外へと連れ出されて行ってしまった。



『違法奴隷商はさっきの連中で全員だ。身分が解っている人間は1名のみ、ほかの連中の身元は取調べで吐かせろ』


『隊長、奥は“ 商品 ”の部屋ですか? 証拠品、というか生き残りは……』



 俺の横で会話をしていた憲兵たちの声が耳に入る。

 一般市民である俺のすぐ近くでこんな会話をするなんて、通常ではありえない。

 だが、憲兵たちは俺に対してまるで警戒などする様子もない。


 それもそのはず。

 今回の違法商人たちの一斉検挙が行われたのは、俺が彼らに通報したからだ。



『やめておけ、興味本位で覗いたら後悔するくらい酷い現場だぞ。1人残して、あとは全部ダメだ。上官として助言してやる、見ないほうがいい。検証は担当部署に任せて、お前は先に戻れ』


『……了解。撤収の準備に入ります』


『あー、そこの少年。今回のことを通報してくれたのはキミだな? あとで詰所まで来てくれ。発見の経緯を聴取したいのと……あとは少しだが謝礼が──────』



 声をかけてくれた憲兵に返事もせず、俺は奥の部屋へと足を進める。

 直前の憲兵たちの会話は聞こえていた。

 それでも、何故か足が勝手に建物の奥へと進んでしまったのだ。

 自分でも、どうしてこの時、部屋の奥へ行ったのかは覚えていない。

 憲兵たちが後ろから制止してくれたような声が聞こえた気もする。

 それでも、俺の足は止まらなかった。


 

 突入時に憲兵たちによって打ち壊された木製の扉の向こうは、思ったよりも広い空間だった。

 だが、壁には他の扉はおろか窓ひとつ無い。

 まだ日も高い時間だというのに、照明がなければ部屋の隅を見渡すことができないほど真っ暗だ。

 そして、一歩踏み入れただけで気を失いかける。


 鼻を突き刺す悪臭。

 汚物臭、腐敗臭など、様々な不快な臭いが立ち込めている。

 思わず袖で鼻を覆う。

 だが目の暗順応に従い徐々に見えるようになった部屋の中は、更に惨憺さんたんたるものだった。


 壁際にはまるで家畜を入れるような粗末な檻が並べられ、その中には人のかたちをしたものが転がっている。

 それらはぴくりとも動かず、肌の色を失い……酷いものでは蛆虫にまみれ、腐り落ちた肉の隙間から白骨が覗くものさえあった。

 その数、二十余り。

 墓地や火葬場でさえ、これほど死体が並ぶことなど殆ど無いだろう。


 そんな凄惨な光景の中、俺は部屋の中央に置かれた檻に近付いた。

 檻に取り付けられている巨大なじょうは既に壊されており、扉は無造作に開かれたまま。

 その中に…………




 ぼろぼろの布きれに包まれたまま座り込む、少女がいた。



『ひっ…………』



 俺の姿を見るなり、怯えた表情で身を小さくする少女。

 顔を強張らせながら目を見開く。

 長いこと泣いていたのだろう、まだ幼さの残る顔には何本もの涙の乾いた跡が残っている。

 土で薄汚れた顔の、涙の通った箇所だけが洗い流され、薄らと桃色の血色を感じる皮膚が見えた。

 そして彼女の頭からは、同じように灰色に汚れた長い耳が生えている。



『ぅ、ぅ…………』



 ここに連れて来られた時から、今こうして助け出されるまで、ずっと怖い思いをしていたのだろうか。

 柔らかそうな毛で覆われた耳は、俺への恐怖でふるふると小刻みに震えていた。

 


『怖い人たちは行った。もう、大丈夫だよ』



 俺は可能な限りの落ち着いた声で語りかける。

 だが白い長耳をもつ獣人の少女は怯えるように首を振り、小さく震えるばかりだった。 

 足には枷なども嵌められておらず、幸いなことに奴隷印の焼印なども捺された様子はない。

 小さな身体に大きな瞳、頭部から伸びる長い耳は、兎獣人ラビリアン特有のものだ。

 この愛らしい姿に目をつけられ、愛玩用の奴隷として誘拐されてしまったのだろう。

 獣人奴隷のうちほとんどは、劣悪な労働環境に放り込まれるか、または娼館に売り飛ばされてしまう。

 後者の場合は死ぬまで客を取らされ、また途中で使い物にならなくなれば殺される。

 人間族と獣人族の戦争が終わって数百年の時が経ようとしている現在でも、このような蛮行が密かに行われているのだ。


 俺はおもむろに腰から下げていた麻袋から、果実をひとつ取り出した。

 今朝、市場マーケットで購入したあと、偶然見つけたこの場所を官憲に通報したため……入れっぱなしになっていたものだ。

 それは、柔らかく熟した一粒の桃だった。



『…………ぁ……』



 取り出した瞬間から周囲に漂い始めた甘い香りのためか、少女はぴくりと顔を上げる。

 直後、彼女と目が合った俺は、目の前で皮を剥いていく。

 十分に熟した桃は、指でつまむだけで薄皮が剥がれていった。

 ものの数秒で、より一層芳醇な香りを放つ新鮮な桃が現れた。


 俺は、それをそっと兎獣人ラビリアンの少女に差し出す。



『今朝、買ってきたんだ。兎獣人ラビリアンは桃が好きな人、多いって聞いたことがある。こんなところで食事なんて嫌かもしれないけど、もし……』


『ぅ、ぁ』



 話している途中でも、思ったよりも早く少女は手を伸ばしてきた。

 俺への警戒心もあっただろうが、それ以上に空腹だったようだ。

 身に纏わりついた布の隙間から細い腕が出てきたかと思うと、俺の差し出した水々しい桃に伸びてくる。

 俺は少女を驚かせないよう、少しだけ前に乗り出しながら少女の手のひらに桃を渡した。


 果汁にまみれた剥き身の桃を受け取った少女は、まるで信じられないといった表情を浮かべながら、眼前へと桃を近付ける。

 何日もの間、食事を与えられていなかったのだろう。

 乾き切った唇がゆっくりと開き、小さく一口、桃に齧り付いた。

 その瞬間、俺と少女のいる空間には一際濃厚な甘い香りに包まれる。

 香水でも撒き散らしたのかと思うほどの甘美な芳香は、部屋に漂っている悪臭を忘れさせるほどだ。


 一口目を口に含んだ少女は、あまりに強烈な甘味に衝撃を受けてしまったのか、しばらく固まってしまう。

 しかし次第に咀嚼そしゃくを始めると、その動きは徐々に早くなり、ものの数秒で飲み込んでしまった。

 こくり、と小さな音とともに、彼女の喉が動く。

 そしてすぐさま二口目を齧り付いた。



「ふぁ……あむぅ…………」



 はぷ、さぷ、と、柔らかな果実が噛み切られる音が響き渡る。

 少女は手や顎が果汁にまみれるのも構わず、必死な様子で桃を齧っている。

 呼吸さえも切れ切れになるほど口に含んでいる有様だったが……その息遣いが、次第に大きくなっていった。



『う……ふぅぅっ……う、ぅぇっ……』



 それは、少女の発した嗚咽だった。

 たった一粒の桃を食べながらも、その赤く大きな瞳から信じられないほどの大粒の涙をぼろぼろと零している。

 桃を握る手も、味わう口元も、怯えて垂れてしまっていた可愛らしい耳さえもぶるぶると震えていた。

 


『あ、あぅぅ……っ! ふ、うっ……ああっ……う、うああああああああああぁぁ……っ!』


『辛かったな、よく頑張った……もう、大丈夫だ』



 桃を握りしめた獣人の少女は、せきを切ったかのように大泣きを初めた。

 大勢の仲間たちが死体となって転がっている、悪夢のような部屋の中……それでも彼女は、今まで堪えていたものを全て出し切るように声をあげて泣き続けた。

 俺は身につけていた外套コートの襟留めを外すと、震えている少女の肩にそっとかけてやった。



『桃はまだあるから、落ち着いて、ゆっくり食べて。もうひとつ食べるかい?』


『ひ、っく……ぐすっ……う、うんっ……!』


『大丈夫だ、もう大丈夫だよ』



 ようやく返事らしいものをしてくれた少女に対し、俺は何度も『大丈夫』を繰り返した。

 彼女をなだめながら2つ目の桃を剥き、再び差し出す。

 1つ目と同じくらい柔らかく熟した桃に、少女は小さな口で何度も何度も齧り付いた。


 やがて種を残して食べ終えた少女は、手も顔もべとべとになっていた。

 桃の果汁なのか、唾液や涙なのかも判断できないほど汚れてしまった顔を、俺は持っていたハンカチで拭う。

 肩や顔に手が触れたが、少女から警戒される様子はない。

 湿ったハンカチで拭われた少女は、薄汚れていた先ほどまでと違い、あどけなさを感じさせる愛らしい顔立ちだ。



「君、そこまでにしておけ」



 不意に後ろから声を掛けられる。

 振り返ると、先ほどまで手前の部屋で話していた官憲のうち、上司と思しき男の方が立っていた。

 俺が少女に桃を差し出したのを見ていたのだろうか。



「優しくしてやりたい気持ちも解るが、このサンティカの法律では我々がその子を保護する事はできん。それ以上関わると、あとが辛いだけだぞ」

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