第16話 いとをかし

蒸し暑く湿った真夏の雨。

大雨と言うには降っていないし、小雨と言うにはそこそこ降っている何とも嫌な日だった。

普通と言うべきか、或いは、微妙とでも言うべきか。

ただ、雨が面倒という事実だけは変わらない。


「……あ」


水溜まりに足を踏み入れてしまっていた。

靴に雨水が染み込んで、冷たくかった。

靴下の替えくらい持ってくればよかったと僕は後悔した。

雨の日は大学に通うのが本当に怠いのだ。

家から駅までと駅から大学までは絶対に歩かなきゃいけないし、大学内だって教室の移動に外を歩くから、機会も場面も多いし、傘では守りきれない足元がどうしてもびしょびしょに濡れてしまう。

それは他の人も同じようで、ズボンやスカートの裾や生脚に水滴が付いていた。

……少し涼しくなれば、タイツが増えて濡れタイツを堪能できるのになぁ。


「……濡れタイツ」


くそう、どうしてタイツを履いている人がいないんだ。

確かに暑いし湿気のある季節であるのは間違いないが、俺に濡れタイツを堪能させてくれないとはいかがなものか。

雨に濡れたタイツは普段のタイツに比べて、色濃く、ハリが増え、より色っぽく感じるのだ。

また、濡れている部分と濡れていない部分の分け目を見るのもとても趣深い。

まさにいとをかしというやつだ。

『濡れたゐついとをかし』。

僕が古い時代に生きていたならこの言葉を後世の日本人に残していただろう。

濡れているだけで触り心地や見た目が変わる。

それを存在させられるタイツは素晴らしいと言えるだろう。

僕は濡れタイツから絞られた水だけで生きていたいな……。


「ん?」


大学内を歩いていると、ふと、真新しいポスターを見かけた。

そこには「黒白学園祭企画募集!」と大きな見出しの書かれたポスターだった。


「…そうか、もうすぐそんな時期が来るのか」


入学した時はずっと先だと思っていたけれど、過ごしたらあっという間だった。

裕馬達とやってる企画もあるし、サークルの方も何かやるのだろうか、何も聞いてないから、そのうち聞きに行こう。


「ま、とりあえずは……」


今日は淀川さんは来てるかな?

あわよくば、濡れタイツを拝ませてもらおう。


・・・・・


胸を弾まして待ちわびていた濡れタイツ…だったのだが、講義室に現れなかった。

濡れタイツ見たさに、昼飯まで誘ってみたが通知は来なかった。

それどころか既読にすらならない。

……やれやれ、まだまだ恥ずかしがり屋な年頃らしい。

もしくは、この間のファッション・ショーが裏目に出たのか、彼女の機嫌を損ねてしまったのかもしれない。

喫茶店の帰りも僕と旭が談笑する隣で黙りとしていた。

それ以降も度々連絡をしたのだが、一向に反応はなかった。

今日が久々の登校日だから期待してたのだが、それも逃してしまった。

まぁ、彼女がいないことにいつまでも辛気臭く考えていても埒が明かない。

学園祭も近いわけだし、裕馬らが顔出してないかとサークル棟にいるのだが2人には会えなかった。

それどころか中野教授やほかの顔見知りすら見かけない。

雨で蒸し暑いは人には会えないはでとことんツイてない厄日だ。

自身の所属している美術サークルの方に行ってみるが、鍵がかかっていて部室に入るのも無理だった。

僕はその場にヘタりと座った。

2限目も終わっていない時間だから仕方は無いといえばそれまでだが、妙にむしゃくしゃする。

講義でもサボって街にくりだそうかと思ったその時、1人の女性に声をかけられた。


「美術室の前で何してんの?平野くん?」

「あ、宇佐先輩。……おはようございます」


誰にも会っていなかったからか、弱々しく挨拶をした。

いつもは色香を漂わせて大人な女性のように見えるが、今日はどこか違っていた。

とろんとした瞳と似つかないはねっ毛でどことなく眠たそうに感じる。


「あ、おはよう。あれ以来久々に会うね」

「……あの、先輩はここで何してるんですか。なんか眠そうにしてますけど」

「うん、学祭に向けて泊まり込みで作業をしていてね。部員総出なんだけど、なかなか進まないんだよね」


泊まり込みで準備とは、熱心なことだ。

僕らのサークルなんて、まだテーマも決まってないから何も手をつけてないと言うのに。


「ところで平野くんは何してるの。もしかして、学祭の準備中かな」

「いや、僕はただ暇だから来ただけですよ。誰とも会えないから部室に来たんですけど、空いてなく」

「あ〜、美術サークルに所属してたっけ?覚えてないけど、あの部長は抜けてるから遅いだろうね」


他のサークルとは違って、うちはこれといった目標や活動がないサークルだ。

部員で集まったのは、4月の新入生歓迎会での居酒屋が最後だったと思う。

部長なんて近頃顔を出さないから、性別や見た目すら思い浮かばない。

他サークルの人にさえ覚えられてもらえないとは、印象が無いのか影が薄いのか、なんでそんな人が部長なのか謎だ。


「そうですか、待つのも面倒なんで僕は帰ります。じゃあ、頑ば――」

「待って」


重い腰を上げて会釈したその時、肩にポンと手があった。振り向かず立ち去ることも出来たが、チケットを貰った恩があった。


「なんですか?」

「旭から聞いたんだけど、裁縫やデザインができるんだよ?手伝っくれないかな」

「いや、ちょっと友達と昼飯でも行こうかなって」

「チケットとデートコーデや女子人気の店は誰が教えたのかな?……GUCCIのカバンほしいな」


財布の中を覗いてみたが小銭とカードしか入っておらず、真夏という季節なのに懐が寒いを身で現していた。


「あ〜財布ないんで勘弁してください。こき使ってください」

「ちょ、冗談だから頭上げて。奢らされたって聞いてるから懐事情は理解してるよ」


懐事情を理解してくれるのは助かるが、女性に弱みを握られたのと若干男のプライドにヒビが入った気がする。


「それじゃ、廊下の奥に部屋あるから入ってて。あ、人がいないからって変なことしないで」

「しないんで早く行ってください。朝食まだなんでしょ」

「ふふ、ありがとう。多めにお菓子買っとくから待ってて」


手を振って軽快なステップで階段の方へと走っていった。

余程人手がいないのか、嬉しげな表情を浮かべていたな。

ツイてないと思っていたが何だかほっこりとした気分だった。

扉を開けるまでは―――。

可愛くデコられた『コスプレ♡サークル』の看板がかかった扉。

中に入ると、机の上に3台のミシンと布地で敷き詰められていた。

服装設計図や完成した服はハンガーやらで整理されているが、それ以外の私物は床を埋めていた。

最近訪問させてもらった某モデルの家を思い出すがここまでではなかった。今頃くしゃみでもしいればいい気味だ。


「お待たせ、ササッ部屋に入って作業進めよう」

「はぁ~い。あれ宇佐先輩、朝食は」

「走りながら完食したよ。あ、お菓子なら買ってあるから心配しないで」


先輩の容姿からは想像できないが、走りながら朝食を済ませてしまったようだ。

その証拠に口元にはパンくずがついていた。


作業開始から1時間以上はたっただろうか。お互い気を使ったか集中していたのかは定かでは無いが、黙々と制作していた。

先輩はミシンと手縫い、僕も簡単な箇所を縫うのとコスプレアイテムを作っていた。

偶に設計図の分からないところやコーデのコンセプトを聞いたりしたが、返答が終わると先輩は止めてた手を動かした。

それを見た僕も負けじと手を動かす。

何時しか机を覆っていた衣類の山は少しずつ減っていて、ある程度のスペースが確保できるほどであった。


「はぁい、休憩。お菓子でも食べようか」

「そうですね。肩がこっちゃってたんで助かりますよ」


ファッション系の講義もここまで集中して取り組んだことは無い。

この短時間でコスプレキャラのアイテムや直しを終えた服に視線を向けた。

はっきり言って想像を遥かに超えてこき使われた気はするが達成感はあった。


「お疲れさん。今更だけどサークルの準備もあるのにごめんね」

「いや、どうせ作品の展示会しかやらないんで大丈夫ですよ。僕のはほとんど終わりかけなんで」

「そうなの?なら助かるよ。あ、そういえば旭が――」


そんな当たり障りのない、談笑で終わると思っていたが話は突然この間の話になる。


「ところでこの間のダブルデートはどうなったの。成功してない訳はないよね」


旭から大方聞いてるようだが、彼女が知りたいのはもう1人の方だろう。

口角は上がっているが、目元はキリッと真剣になっていた。


「……楽しんでましたよ。旭も彼女に積極的に絡んでいたんで、これからは仲良くやっていけると思います」

「そう、それなら良かったよ。チケットをあげたかいがあったか気になってね」


間を開けてしまって、一瞬ヒヤッと答えをミスったと思ったが良かった。

その後も談笑と作業の繰り返しで、蒸し暑い雨の日は終わった。

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