Hi milk Chocolate
彼は、甘い。
映画を観た。
私の書いた話が映画になったからだ。
映画は概ね私の想像通りの出来になっている。
映画化の話がきた時、私は少し躊躇した。私はもともと派手に売れている方では無かったし、大仰な気がした。そして柄にもなく、甘い彼を思い出した。私は本当は、彼に映画を撮って貰いたかったのだと思う。
もう別れて大分経つ。今、私の隣に座るのは、画家の男だ。
♢♢♢
「君は苦い」
彼はよく、私にこう言った。
「そうか?」
「ああ。その煙草も、俺には苦い」
隣に座る彼は、カフェラテを飲んでいる。よくそんな甘いものが飲めるなと思う。
彼はいつでも口数が少ない。私ばかりいつも喋る。
「君も煙草を吸えばブラックコーヒーが飲めるようになるんじゃないか」
軽口を叩く。
彼は、どうだか。と言う。
煙草の煙が苦いと言いながらも、彼は隣を動こうとしない。彼も副流煙で寿命を一緒に縮めてくれているようで、この距離が心地良い。
彼は冷たい。彼は甘い。
「君はまともじゃないよ」
煙を吐き出す。
「君はまだ考えてるだろ。映像の事を。私といる時に映画を観ようともしない」
尤も、一人の時でも、彼は映画を観ていないだろう。
「君は甘い」
「別に。君は観ても良い」
「観たら君は帰るだろ」
「さあ」
彼は面倒くさくなったら、すぐこうして言葉をはぐらかす。
煙草を灰皿に押し付ける。なんだか興が冷めた気分だ。
隣に座る彼を見上げる。二人何となく目が合う。彼が私を抱き寄せる。キスをする。
私はこういう事ばかり覚えている。
彼はきっと、私がした話ばかり覚えているのだろう。
お互い、相手のどうでもいい事ばかり覚えている。
♢♢♢
変な男だった。
初対面で、あなたの絵を描かせて下さいと言った。
そんな、今時小説でも見ないような口説き文句で、男は私に声を掛けた。
私はカフェで、もう随分吸っていない煙草を、手に持て余していた。
私が、面倒だから嫌だと断ったら、写真だけでも撮らせて下さいと聞かなかった。
聞けば男は、画家だった。
まだ駆け出しだが、食っていける程度になんとか仕事はあるらしい。
私は、好きにすればいいと思って、写真だけ、撮らせてやった。
男は大袈裟に喜んで、描けたら必ず見せます。と言った。
それならと、連絡先を交換した。
こちらからは連絡をしなかった。暫く経った頃に、男からメールがきた。
初めて会ったカフェで、もう一度男と会った。男は、あまり上手くないかもしれませんが……、と前置きしてから、絵を見せた。
絵の私は、寂しい顔をしていた。
♢♢♢
半年後と言った話は、予定通りには書けなかった。
月経が止まった。吐き気と目眩がする。微熱がある。嗅覚がいやに過敏になる。
こうも症状が揃ってしまうと、どこかで確信がある。病院に行くと、予想通りの結果だった。
思考が狭くなったように感じた。それまで考えていた予定が全て崩れて、白紙になる。書いていた話の続きが分からない。何も浮かばない。怖い。全ての思考が、彼と、これからの事を考えようとする。
作家としての尊大な私が、急にただの女になった。私は作家が良い。彼に会いたい。会いたくない。
それから、彼には二、三度会った。
大した話もしなかった。話すか迷ってやめた。彼とはこの先上手くいかない。それだけ分かった。
彼と会った時、一度だけ煙草を吸った。
それを最後にして、もう煙草は吸っていない。
♢♢♢
「やっぱり、迷惑でしたか?すみません、なんだか、僕一人で舞い上がってたみたいで」
「いや。なあ、私はこんな顔をしていたのか」
「えっ?えっと、どういう?」
「私は、こんな寂しそうに見えたのか?」
男に聞く。
男は少し考えて、答えた。
「寂しそうに見えたかも、しれません。ただ、あなたは、綺麗だったから……。その、僕は、あなたを描きたいと思って」
「そうか」
綺麗なんて言われたのは初めてだった。
彼は絶対にそんな事は言わなかったから。そう考えて、少し笑った。
「ありがとう。この絵は、貰っても?」
「えっ!貰って下さるんですか?こちらこそ、ありがとうございます」
男はおよそ画家らしくないように見えた。
ただ、この男の絵の腕前は確かだし、ひとたび絵を描き始めると、男の集中力は凄まじかった。
何度か、男のアトリエに行った。
男は油絵で、私だとか、街の風景を描いた。
絵を描いている時の男の顔は好きだった。
絵に集中する男を見て、私はよく彼を思い出した。自分の映画の話をする彼は、こんな顔をしていた。
暫く経って、男は私に交際を申し出た。
私は断った。
「君の事は嫌いじゃない。けれど、もう私は、恋人を作りたくないんだ。君とこのくらいの距離が良い」
男は、それでも良いと言った。
「あなたの傍にいて良いなら、恋人で無くても構いません」
変な男だと思った。
もしこれが彼なら、じゃあさよならとか言いかねない。この思考にも少し笑う。
この男なら良いのかもしれない。
私はずっと作家でありたい。
♢♢♢
出血で、流れたと気付いた。
念の為病院で確認した所、全て流れていた。
医者は、それほど珍しい事ではないと言った。
子供が出来たから、考えられなくなったと思っていたのに、流れてしまうと余計思考が止まった。
もう煙草を吸っても良いと気付いた。
吸う気になれずに、取り出した煙草を折った。そのまま灰皿に置く。
何も知らない彼が来て、どうでもいい話をする。彼と話しているのは少し慰めになった。
彼が私を抱く。
あんまり優しく触れるから、私は自分が壊れものにでもなったような気がする。
彼は普段冷たい癖に、私に触れる時はいやに丁寧だ。
これ以上彼といたら、私はきっと甘くなってしまう。
怖くなる。
何も考えられなくなる事が怖かった。
起きて、まだ眠る彼の隣で、久しぶりにキーボードを叩く。
続きはすぐに浮かんだ。一度空白になった予定が、もう一度埋まっていく音がした。
次の話も浮かんだ。
次を書く前に、彼とは別れる。そう決めた。
♢♢♢
「私は、作家をしているんだ」
画家の男に言った。
ペンネームを男に教えると、男は、知っていますと言って驚いた。
「僕、この作家好きだなと思っていたんです。あなただったんですね。すごい偶然だ」
「ありがとう。知っていたのか。なんだ」
「面白くなさそうに言わないで下さいよ。僕は今、すごく感動しているのに」
「絵にでも描いたらどうだ」
「冷たいです。……描きますけど。描かせて下さい」
「良いよ」
男がキャンバスに筆を走らせる音が響く。
普段はうるさいくらいなのに、絵に向かう時は恐ろしいほど静かになる。そうやって、描き上げるまでは一言も話さない。
男の絵が完成するまでのこの時間が、私は好きだった。この時間、男を見ながら、私は私で、次の話だったり、今の話の続きだったりを考えていた。彼の事もたまに浮かんだ。
♢♢♢
「ごめん。分かった」
彼が言った。
背を向けてすぐ出て行こうとする。
こんな時まで冷たい彼に腹が立った。
「なあ。君との間に子供が出来た」
言うつもりの無かった事を言う。
あんまりすぐに出て行こうとするから。
「……は?」
彼は突拍子もない言葉に驚いたようだった。
すぐに嘘と言う。
本当の事も言う。
「君とは付き合うのは良いが、それまでだ」
「……俺は、本当に甘い」
彼はつくづく甘い。
「君はもう一度だけでも映画を撮った方が良い。私が観れないのは残念だな」
彼の方を見ずに言う。
今の私は、きっと酷い顔をしているのだろう。私が女になるのは、これで最後だ。
「気が向いたら」
彼が初めて私の為の嘘を吐いた。
私は、彼の映画が好きだった。
「さよならだな」
彼が淹れてくれたコーヒーを飲み干して言う。
彼に我儘を言った。これが最初で最後だ。
「ありがとう。さよなら」
扉の閉まる音がする。
彼は、甘い。
彼がすぐ出て行こうとした時、私は彼にとってそれまでの存在なのだと思い知らされた気がした。
仕様もなく、傷つく。
「どうしてこう、恋愛は、面倒くさい」
ひとり呟く。煙草の箱を握りつぶす。
連絡先を消しても、私の頭はまだ彼の番号を、アドレスを、覚えている。アドレスを入力しては消す。こんな事をしているのは私だけだ。
私は、苦い。
♢♢♢
彼と別れた後、私は画家の話を書いた。
初めは、男の事を書こうとした。けれど途中で彼が混ざって、結局よく分からなくなってしまった。
男は、僕の話かと一瞬思ったけれど、違いましたね。と言って笑った。
風邪を引いた。
体温を測ると、三十八度と表示があった。
移動にふらついて、まずいと思う。頭がふわふわする。
男に電話を掛けようとして、間違えて彼の番号を打ちかけていた。慌てて消して、男に電話する。
男は、すぐ行きますと言って電話を切った。
今日の約束の断りで電話を掛けたのに、看病に来てくれと言ったようになっている。
部屋に他人を入れるのは、彼以来だなと思った。
男が私を寝室に運んで、丁寧に看病する。
この男は初めから丁寧だ。
男が律儀に距離を守り続けていてくれている事に安堵する。
私達は何もしない。友達とは違う距離で隣にいるだけ。
私は小説を書く。男は絵を描く。それで良い。
翌朝、男の看病もあって熱は下がっていた。体調も良くなっている。
目が覚めたら連絡下さい。と置き手紙があった。
ふと、彼の名前で検索してみる。
動画サイトに、彼の最近の投稿があった。
動画を再生する。
知らない女を主演にした、短い映像だった。
彼は今も、甘い。
Black & Hi milk Chocolate 朝夜 @asuyoru18
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